Tokyo Chapel

2018年1月7日

第7日

あなたの二倍の祝福

私は「あわれみ」ということばが好きです。神があわれみの神であることに感謝します。ウィリアム・シェークスピアの「ベニスの商人」の中で登場人物のポーシャのセリフにこうあります。

「あわれみは強制されるものではない。
それはあたかも天より地上にふりそそぐあわれみの雨である。
それは二重の祝福。
与える者の祝福と、受け取る者の祝福である。」第4幕 第1場

あなたが神のあわれみを受け取る時、あなたは祝福されています。そして、あなたがまわりにいる人々をあわれみをもって接する時、あなたは祝福されるのです。


神のあわれみを叫び求める

詩篇6:1-10

あなたの人生で、本当に葛藤し、何もうまく行っていないということがありますか?あなたは、衰え、恐れおののき(6:2)、嘆き、疲れ果て(6)、いらだち、弱まる(7)ことを経験することがありますか?

罪の結果としてこのような状況に陥ることもあるでしょうが、突然の死別、事故や病気、失業などの出来事によることもあります。

ダビデもそのような困難に遭いましたが、その中で「主よ。私をあわれんでください(2)。」と叫んでいます。ダビデは神が「あわれみの神」であることを知っていたのです。彼は「あなたの恵みのゆえに、私をお救いください(4)。」と祈りました。

時に、私たちの困難は終わりが無いように思えます。それらはずっと続くように思えるのです。私たちは闘いの敷きを過ごす時にダビデのように叫ぶのです。「主よ。いつまでですか。あなたは。(3)」と。叫んでも、神はあたかも聞いておられないかのように感じるのです。しかし、主は聞いておられます。そして、ダビデと同じようにこう叫ぶ時がやってくるのです。「不法を行う者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。(8-9)」

祈り:主よ。あなたの尽きることのない愛とあわれみを感謝します(4)。あなたは私の叫びを聞き、私の祈りを受け入れてくださいます。どうぞ、あなたのあわれみを私に注いでください。主よ。


他者をあわれむ

マタイ5:43-6:24

あわれみをもって人と接することはイエスの教えの中心です。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(5:44-45a)」と語られた通りです。愛はあわれみを示すこと以上のことですが、あわれみは愛することの基本要素です。

イエスは、たとえ正しくない者であっても、その人をあわれむ3つの理由を語っています。

  1. 第一に、あなたの敵にあわれみをかけるのは、あなたの父なる神と親密であるためです。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(45a)」神はご自身に敵対する者たちにさえあわれみをかけました。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(45b)」
  2. 第二に、このようなあわれみを持つことはあなたがこの世のものではないことの印だからです。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。(46)」私たちは自分に似た者や、自分を愛してくれる者だけを愛する傾向があります。しかし、あなたはそのようには召されていません。ドイツの神学者ボンヘッファーが「『尋常ではない』ということはクリスチャンの証明書である」と言ったとおりの者として召されているのです。
  3. 第三に、赦すことと赦されることが結び合わされるためです。私たちは自力で神のあわれみを受けることはできませんし、他者にあわれみを示すこともできません。私たちは他者を赦すことによって赦しを獲得するのではなく、イエスは、神に赦されたならば、人を赦すようになるのが当然だからだと言われたのです。「たとえば、他者を赦すことなくして、あなたは神から赦しを得ることは出来ません。もし、あなたが、あなたのすべき部分を拒絶するなら、あなたは神のなす部分から自分自身を切り離すことになるのです。(6:14b-15,MSG訳)」日々、あわれみと赦しを受け取りましょう。そして、日々他者にあわれみを示し、赦しましょう。

イエスはまた、どのようにこのあわれみを実践的に表すことができるのかを説明しました。イエスは祈りの重要性に光を当てました。イエスはあなたに「迫害する者のために祈りなさい。(5:44)」と言われるのです。あなたの敵のために祈ることは、神がその敵をどのようにご覧になっているかを知る助けとなります。祈りの中であなたは彼らのより近くに寄り添って立つことになります。彼らの罪責感や苦悩を知り、彼らのために神にとりなすようになるのです。祈りは愛のリトマス試験紙です。神の臨在の光の中に入るとき、私たちの心の奥底にある真の感覚が呼び覚まされるのです。

あわれみというテーマは主の祈りの中心でもあります。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(6:12)」(もちろん、他の福音書をのちに開くと、さらなるあわれみがこの祈りの中にあります。」

私たちが祈るとき、イエスは次のことを教えました。

  • 静まりなさい
    「神の前に芝居をする誘惑にかられないような人目から離れた静寂を見つけなさい。(6a,MSG訳)」
  • 正直でありなさい
    「あなたが出来る限り、ただ単純で正直でありなさい。(6b,MSG訳)」
  • 単純でありなさい
    「神があなたを愛したように、あなたはとても単純に祈ることができます。(9a,MSG訳)」

最後に、あわれみは私たちの施しの中心ともなるべきです。気前良いことは他者に対するあわれみの形です。「あなたが誰かを助けるとき、それがどう見えるかを考えてはなりません。ただそうしなさい。静かにそして人目につかずに。これが、愛のうちにあなたを想い、あなたの背後で働き、あなたを助けるあなたの神の方法です。(3-4,MSG訳)」

山上の説教を読むたびに、私はなんと程遠い者であるかを知り、私にはあわれみが必要であるかを痛感するのです。

祈り:主よ。あなたは私にあわれみ深くあられることを感謝します。あなたは私の罪を赦してくださったことを感謝します。他の人々をいつもあわれみを持って接することができるように助けてください。


神のあわれみを受け取る

創世記14:1-16:16

今日の旧約聖書の箇所には、今日、神のあわれみが可能となる方法を指し示す重要なポイントが2つあります。

  1. イエスを通して神のあわれみを受け取るそれは、五人の王たちが四人の王たちに打ち負かされたという関係のなさそうな描写から始まります。しかし、四人の王たちによってアブラハムの甥のロトが捕らえられたといことからつながってきます。(14:12)それを聞いたアブラハムは救助に向かいます(16)。その勝利の帰還の際に不思議なことにアブラハムは、メルキゼデクから祝福を受けました(14:18-20)。ヘブル人への手紙の7章で詳しく説明されているのですが、メルキゼデクは旧約のすべての祭司(レビ系の祭司)に勝る大祭司としてイエスになぞらえて語られています。アブラハムはレビの曽祖父に当たります。それゆえに、「レビはまだ父の腰の中にいた(ヘブル7:10)」と記されているのです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたのです(創世記14:20)。言い換えれば、レビよりメルキゼデクが勝っているとみなされるのです。メルキゼデクはイエスの型です。十字架においてすべての罪から私たちを救う犠牲をささげられた大祭司です。ですから、イエスの十字架の御業は旧約聖書の祭司や犠牲の仕組みを終わらせたのです。メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきました(14:18)。これは聖餐式の型です。キリストの裂かれた肉体と流された血潮によって完全な救いを受け取ることができるのです。そして、神の完全な赦しとあわれみを受け取ることができるのです。
  2. 信仰によって神のあわれみを受け取る説明は神のアブラハムへの約束へと移ります。アブラハムもサラも高齢で不妊あったという事実にもかかわらず、空の星ほどに子孫が与えられるという約束です。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(15:6)」ただあなたが赦されるだけではなく、神のあわれみは、あなたを神との正しい関係へと導きます。新約聖書はしばしばこの箇所を引用します。なぜなら、あわれみ、赦し、そして義が信仰によって得られることが示されているからです。(ローマ4:1-5、ガラテヤ3:6など)もともとの物語の箇所である今日の箇所でアブラハムの信仰が決して確固たるものではなかったように見えるのに、ヘブル11章に偉大な信仰の人として彼の名がリストに挙げられていることは、私たちに大きな励ましを与えます。彼らが子どもを与えて欲しいという祈りが聞かれなかったように思えたとき、アブラハムとサラは、人間的な方法で神の計画を成し遂げようと一計を案じました(16:1-2)。アブラハムはハガルと床をともにし、イシュマエルを身ごもりました(2-4)。この過ちはサラのハガルへのいじめというもう一つの過ちを導きました(5-6)。

    ここで、神は初めて「エル・ロイ」と呼ばれています。それは「見ておられる神」という意味です(16:13)。神に見捨てられたという感覚を人は持ちやすいものです。ハガルのように、公正に欠く取り扱いを受けたと感じることがあるかもしれません。しかし「見ておられる神」なる神はご存知です。そして、信仰によって生きるあなたを助けることがお出来なります。たとえ、荒野の真っただ中にあったとしても神はあなたを見失うことはありません。

    見ておられる神はあわれみの神です。新約聖書はサラとアブラハムの罪に目を留めず、かれらの信仰だけをご覧になっていることを示唆しているのです。(ヘブル11:11-12)

祈り:主よ。あなたが、イエスの死をとおして、あなたの驚くべきあわれみを与えてくださったことを感謝します。一度だけの完全な犠牲を払ってくださった大祭司なるお方によって、あなたのあわれみを受け取ることができるようになったのです。あなたのあわれみは努力して獲得するものではなく、信仰によって賜物として受け取ることができるのです。アーメン。

References

For a more detailed explanation and application of ‘The Sermon on the Mount’ (Matthew 5–7) see Nicky Gumbel’s book The Jesus LifestyleThe Jesus Lifestyle.

Dietrich Bonhoeffer, The Cost of Discipleship, NewYork: Touchstone (1995) p.134