もっと…
「もっと、ちょうだい(More Please)」はデイム・エドナ・エヴァレッジ(バリー・ハンフリーズ)の自伝のタイトルです。彼は、これら2つの言葉「もっと、ちょうだい」が、彼が一貫して第一に口にすることばであると書いています。
彼は続けて、「私はいつももっと欲しかった。私は牛乳やお金、ソックスもセックスも、休日も初版や孤独感やグラモフォン・レコードも無料の食事も本物の友人も罪責感無き快楽やネクタイも賞賛も疑いようのない愛も柿も…どれも十分に持っていませんでした。もちろん、私はいつもこれらの商品をそれなり以上に持っていましたが、それはいつも私に漠然とした達していない感覚を残しました。残りはどこにいったのでしょうか?」
自分自身のために喜びを求めていると、私たちにはいつも「漠然とした達していない感覚」が残ります。今日の箇所では、あなたの霊的な飢え渇きを本当に満足させるものと、ますます求めなければならないものを見ることができます。パウロは、特に「神を喜ばすべきか」(1テサロニケ4:1)と「互いに愛し合うこと」(9-10)という2つのことについて「ますますそのよう」であることを特に強調しています。
神からのさらなる知恵
箴言24:23-34
「知恵は」神から来て、それはとても実践的です。「知恵ある者による(23)」言葉は私たちの生活のさまざまな側面をカバーしています。ここでいくつかの例を見てみましょう。
- 偏らずに判断する
「さばくときに、人をかたより見るのはよくない。(23b)」正しく裁く者たちに「しあわせな祝福が与えられる(25)」のです。 - 正直に話す
「正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる。(26)」時には愛を持って真実を語ることは難しいですが、私たちはお互いに正直であることが必要です。あなたが(たとえば、アルファでゲストから)どのような質問を受けても、一番良い答えとは、正直な答えです! - 忠誠を尽くす
「あなたの隣人について、彼らのいないところで話してはならない。― 中傷やうわさ話はやめましょう。(28,MSG訳)」人は面と向かっているときは忠実であり続けますが、あなたのいないところで忠実であり続ける人は数えるほどしかいないものです。 - 自制心を持つ
私たちに害を及ぼした人々に仕返しをするという誘惑は非常に強いものです。しかしながら、箴言の作者は復讐することを戒めています。「『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない。(29)」 - 勤勉に働く
箴言はしばしば怠惰に対して警告します。「ばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(33-34)」
祈り:主よ。知恵について成長することができるように助けてください。偏らず、正直に、忠実に、自制心をもって、勤勉であることができますように。そして、ますますあなたを喜ばせる人生を生きることができますように。
ますます神を喜ばせる
1テサロニケ4:1-18
ただ「ナンバー・ワンを目指す」― 自分自身のための快楽をもっともっと願う ― ことに代えて、 私たちは神をもっともっと喜ばせる人生を生きるように召されています(1)。「もっと、ちょうだい(More Please)」よりも、私たちは神を「もっと、喜ばせる(more pleasing)」人生を生きるべきです。あなたは神を「ますます」愛するように、そして他者を「ますます(10)」愛するように召されているのです。これをあなたはどのようにすれば良いのでしょうか?
- あなたの身体に尊厳を与える
神はあなたの魂と同じようにあなたの身体に関心を持っておられます。「あなたの身体について感謝することを学び、尊厳を持たせなさい。(4,MSG訳)」パウロは書きました。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず…(3-5)」 - 麗しい人生を送る
「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。(7)」― 「聖く美しい、外面と同様に内面も美しく(7,MSG訳)」真の美しさは見栄えばかりではありません。それはあなたがどのような内面を持っているかです。きよくなる過程は「聖」霊の働きを通してです。神はこの目的の為に「聖霊をお与えに(8)」なったのです。 - 互いに愛する
パウロは記します。「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。(9)」「それについてどんどん良くなりなさい(10,MSG訳)」 - 自分の役割を心得る
パウロは私たちが単に野心を持つべきではないと書きました。しかし、私たちは静かな人生を生き、生産的な者となることに大志を持つべきです。これは、特にパウロが神の為にした大いなることを読むと驚くべきことですが、外見的には生活の小さなことに深い意味があるように思えます。パウロは特に「自分の仕事に身を入れ(11)」と記しています。うわさ話は、あなたが問題にかかわっておらず、問題の解決にも関与していない情報をあなたが流した時に起こります。もちろん、問題に関わり、他者を助けるには時間がかかりますが、他者の果たすべき務めに首を突っ込んで、邪魔をすることになってはなりません。 - 可能であるなら、仕事に就く
パウロは書きます。「…自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(11-12)」ある人にとって、専業主婦(主夫)のように、その人の仕事は家庭にあります。それ以外には、家庭の外で働いて、自分たちの家族を養うためにお金を儲けます。一般的な原則は、自分たちの生活を他人に頼らずに営むために、仕事に就くべきであると言えます。ある種の、無給のフルタイム・ミニストリーのような働きを支えるために、いくらかはにキリストのからだに依存するかもしれません。しかし、これは原則ではなく例外です。 - 終わりのない希望を楽しむ
良い死を迎えるまで、良い人生を生きたとは言えません。あなたが異なる態度を持つように召されたという点において、死はもう一つの主題です。もちろん、誰かが死ぬとき、私たちは悲しみます。しかし、パウロは、「あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのない(13)」ようにと言います。なぜなら、「イエスが死なれ、墓からの束縛から脱したので、神はイエスのうちに死んだ者たちとの命を最も確かなこととして取り返されるのです。(14,MSG訳)」死は終わりではありません。パウロはイエスが死に、再び、よみがえられたのですと告げています。同じような方法で、私たちは復活において、神は、眠りについたすべての人々と共にイエスを引き上げてくださったと信じるのです。パウロはここで異なる言葉を用いています。― イエスがあなたのために死んだ一方で、あなたは決して死なないでしょう。あなたはただ「眠る(13,15)」のです。
あなたはイエスと再び会うようになります。「主とともにいる(17a)」ようになるのです。そして、私たちは他の人々とも再び会うようになります。「雲の中に一挙に引き上げられ(17a)」た人々と一緒にです。「大きな家族の再会(MSG訳)」です。あなたは主とだけ永遠に過ごすのではありません(17b)。あなたはまた「イエスにあって眠った人々(14)」と共に過ごすのです。多くの人々は希望のない終わりしか見ませんが、あなたは終わりのない希望を得たのです。心に留めましょう。「このことばをもって互いに慰め合いなさい。(18)」
祈り:主よ。私の内に働いてくださる、そしてあなたをますます喜ばせる人生を生きることを助けてくださる、あなたの聖霊のゆえに感謝します。私の弱さに働いて、愛のある、性的に純潔であり、正しい大志をもった、希望と慰めのきよい生活、を送ることが出来るようにお助けください。どうかキリストに似た者へと創りかえてください。
神にもっと聴く
エレミヤ23:9-25:14
神は語られます。あなたも私も神のことばを聴くことが出来ます。それが聖書の力強いところです。「わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。―主の御告げ― (23:29)」
エレミヤは「主の聖なることば(9)」を神の民に告げました。そしてきよい生活を導くことにしくじった彼らの指導者たちを非難しました。「国は姦通する者で満ち」そして「正しくないものをその力とする」ような状態でした(10)。エレミヤは彼らのセックスに溺れ、偽りを生きるありさまを糾弾したのです(14,MSG訳)。エレミヤは悔い改めを呼びかけました(25:5-6)。
彼らの問題の根は、神に聴こうとしなかったことです。「あなたがたは聴くことを拒絶した。(7,MSG訳)」
主はエレミヤを通して尋ねました。「いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。(23:18)」「わたしは、このような預言者たちを決して送らなかった。しかし、彼らは走り去った。わたしは彼らには語らなかった。しかし彼らは語って去った。もし彼らがわざわざ座ってわたしと会ったのであれば、彼らはわたしがわたしの民に語ったことを告げたであろう…(21-22,MSG訳)」
もし、あなたが神のことばを聴き、彼らに告げるなら、彼らはとても力強い衝撃を受けるでしょう。「しかし、わたしからメッセージを受け取った預言者であるあなたは、それを真実にそして忠実に告げる。…私のメッセージは炎のようではなかったのか?…岩を砕く、大ハンマーのようではなかったのか?(28-29,MSG訳)」聖書のことばはとても力強いのです。それは、炎のようであり、岩を粉々に砕くハンマーのようです。私はみことばを学べば学ぶほど、私の心の岩が打ち砕かれることを経験します。そして、聖霊は私を造り替え、きよめてくださる過程に働かれるのです。
祈り:主よ。ますますあなたに聴く時間を取ることが出来ますように。そしてあなたを喜ばせるもっときよい生活をますます送ることが出来ますように。アーメン。
H.K
References
Barry Humphries, More Please: An Autobiography, (Penguin Books, 1993).