2019年7月17日
第198日
まるで罪を犯していないかのように
私は法廷弁護士として働いていた頃に、多くの人々にとって、たとえそれが証人として出るだけであっても、法廷に出るということは恐ろしい体験なのだということが分かりました。民事訴訟であれ、刑事事件の被告であれ、訴訟の当事者になることは、神経をすり減らす出来事です。私は被告が無罪を言い渡される時、あるいは、民事訴訟の被告が、判事から「適正」と判決が下される時、緊張が和らぐのをずっと見てきました。
古代イスラエルの法律制度では、口論することは、両当事者にとって裁判の判決を危険にさらすことになります。法廷の過程は贖罪的な役割です。裁判官は間違いを正して、正しく修正して当事者を助けることを意味しました。訴訟の最後には、一方が義とされ、他方は間違いとなったようです。この機能がうまく果たされることが、「正義」がなされたということを意味します。ヘブル語で義を意味する語は「ツァディク(tsaddiq)」です。多くの聖書翻訳では「無実(innocent)」や「公正(just)」と訳されています。それは「正しい状態」です。これが旧約聖書を背景とした「義とされる」ということです。
義とされるを簡単に子どもにも分かるように定義すれば、「今まで罪を犯したことがないような正しさ」となるでしょう。もしあなたが主に信仰を置くなら、あなたは義とされるのです。あなたは無罪判決をうけたのです。あなたは主の視点で義と宣言されました。罪はもはやあなたと神とを引き離すことができません。あなたは神との正しい関係に生きることが出来るようになります。そして他者との正しい関係に生きるようになります。これが「義認」です。
義認の前触れ
詩篇86:1-10
ダビデは信仰によって義とされ神の子とされる祝福を体験していました。ダビデは言います。「私を気に留めてください。神よ。私の祈りを身をかがめて、助けを求める私の叫びを聴いてください。(6,MSG訳)」まるで父親が小さな子供のささやきを聞くために身をかがめているような光景です。神はご自身の子たちの祈りを聴いてくださいます。
ダビデは新しい契約の恵みを持ってはいませんでした。ダビデはイエスの生と死と復活の出来事より前の時代を生きました。しかしながら、ある意味で十字架の恵みは時を超越します。イエスよりも前に生きた人々にもその効果は及ぶのです。たとえば、アブラハムやダビデです。実際、パウロはダビデが神の赦しと回復の恵みを知っていたことを記しています(ローマ4:6-8、詩篇32:1-2)。
いろいろな意味で、まだそのことが成就する前であったとしても、パウロはダビデが「信仰による義」を経験したと言っています。
第一に彼は神の愛を知っていました。彼は、主が「赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(詩篇86:5b)」ということを知っていました。
第二に彼は神があわれみ深く赦すお方であることを知っていました。「主よ。私をあわれんでください。…あなたは赦しに富み、…あわれみをもって私の叫びを聴いてくださいます(3a,5a,6b,NIV訳)」
第三に彼は自分は赦される価値のない者であることを知っていました。彼はそれを自分の努力で獲得しようとしませんでした。彼は神を信じることを通して、神は彼を救ってくださると信じる信仰を持っていました。「わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください。(2b)」
言い換えれば、ダビデは一つの要素を除いて、「信仰による義」に至る要素を理解していたのです。その一つの要素とは、まだこの時代にイエスの十字架の御業は到来していなかったということです。
祈り:主よ。あなたが私を驚くべき愛をもって愛してくださったことを感謝します。あなたは、ご自身に信頼を置く者を救ってくださることを感謝します。
義認を祝う
ローマ4:1-15
深い傷をもつ存在である私たちが、どのようにして神の前に「適正である」と判決してもらえるのでしょうか?どのようにしてあなたは神の目に「義と認められる」ことが可能なのでしょうか?それはベストを尽くしてただ一生懸命生きるということなのでしょうか?
「いいえ」とパウロは言います。イエスの生と死と復活の結果として、驚くべきことが起こったのです。今、あなたは無償の贈り物として義認を受け取ることが出来ると言っているのです。あなたはそれを一生懸命努力することによってではなく、信仰を行うことによって受け取るのです。
アルファでよく聞く質問の一つは、「もしイエスが私たちの罪のために死んだのなら、イエスよりも先に生きていた人々はどうなのか?」ということです。
パウロはアブラハムの場合を取り扱わなければならないことを知っていました。パウロの論敵はアブラハムは、自分が誇ることのできる良い行いの結果として義と認められたのではないかと議論してきたのでしょう(2)。パウロは聖書が次のように述べていることを指し示します。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた(3,創世記15:6)」パウロはこの一節を、働きによって獲得するものとしてより、贈り物であることを暗示していると論議するのです。
「あなたが働き者で、いい仕事をして、あなたに支払われるものを得たとするなら、あなたの報酬は贈り物とは呼びません。しかし、もし、あなたがするべき仕事があなたにとって大きすぎ、ただ神だけができると分かり、あなたが神にしていただくことを信頼するなら…それは…神によって、神があなたとの関係において正しく用意してくださったものとして受け取るのです。それはまさしく贈り物です。(4-5,MSG訳)」
パウロの論敵はこの贈り物は割礼を受けたユダヤ人だけに有効だと論じていたのでしょう。しかし、パウロは割礼はアブラハムにとって後に与えられたものであることを指し示し(創世記17)、それゆえ、信仰による義の祝福は割礼を受けた者(ユダヤ人)にも、割礼を受けていない者にも(それ以外の人々)にも与えられるのです(ローマ4:9-10)。
割礼は義認の原因ではないのです。むしろ、それはしるしです。「どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。(10-11a)」
アブラハムの物語は、義であると認められる基盤は、働きでも、割礼でも、律法でもなく、イエスにある信仰を通して与えられる神の恵みによるのだということを明らかに説明しているのです。もしアブラハムが信仰によって義と認められたのなら、彼は信仰を持つ者たちすべての父です。(それは割礼を受けていなかった者も含みます。,11-12)
十字架はすべての時代を通じて有効です。イエスが十字架の上で成してくださったことを通して、イエスのことを聞いたことのない人々であっても神に信頼を置くことによって、彼らの信仰によって神は義と認められたのです。
あなたは、信仰によって義と認められるためにこれらすべてを理解することが必要なのでしょうか?決してそんなことはありません。義認は信仰によるのです。信仰によって義とされるためには、それですから、あなたがたとえ正確に信仰によって義とされることを理解することさえ必要としないのです。ただあなたに必要なのは信仰です。「これが、神の約束の成就は完全に神と神ご自身の方法を信頼することであるという理由なのです。そして、単純に、主と主のなさったことを受け入れることです。
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。神の約束は純粋な贈り物としてやって来るのです。(16,MSG訳)」
祈り:父よ。私たちが、私たちのためにイエスが死んでくださったことと、イエスにある信仰とによって、義とされ、放免されたというこの驚くべき真理を感謝します。この真理をもって深く理解し、もっと明快に説明することができ、もっと多くの人々が信仰による義認の大きな祝福を知ることが出来ますように。
義とされる共同体
アモス5:1-27
神はあなたがどれほど「宗教的」であるかには関心を持っておられません。神はそれよりもあなたの「誠実さ」、「正しさ」そして「義」について関心を持っておられます。それなしの宗教性は偽善にしかすぎません。神は言われます。
「わたしはあなたの宗教的な集いに立つことは出来ない。
私はあなたがたのカンファレンスやコンベンションには飽き飽きしている。
わたしはあなた方の宗教的なプロジェクトには何も関わりたくない。
あなたのうぬぼれたスローガンや目標にも。
あなた方の資金集めの方法にもうんざりだ。
あなた方の公的な人脈やイメージづくりにも。
あなた方のやかましい自己中心の音楽にもいよいよギブアップだ。
あなた方が私のために最後に歌ったのはいつだったのか?
あなたがたは、わたしが何を望んでいるのかを知っているのか?
私は大海のような「正義」を欲している。
わたしは大河のような「公平」を欲している。
それこそがわたしの望み、ただそれだけを望んでいるのだ。(21-24,MSG訳)」
信仰による義認の完遂の中心は、神の民が義と正義を行うことによる応答です。ジャン・カルヴァンもこう言います。「信仰のみが義とするのだ。しかし義とされる信仰はそれだけでは存在しえない。」神が私たちのために為されたことへの私たちの自然な応答は、神の御心に沿った行いであるべきです。
公義と正義は、この箇所の中心的な役割を果たし、アモス書全体のテーマです。神は貧しい者たちへの正義を望んでおられます。神は預言者アモスを通して語ります。
「あなたがたは貧しい者たちに目もくれないし、
彼らの生計の道をも奪うので、
あなたがたは決して入ることは出来ない、
あなたが建てた壮麗な家に。
あなたがたはワインを飲むことは出来ない、
あなたが植えた高価なブドウ畑で出来た。
わたしはあなたの違反の拡大をはっきりと知っている、
極悪非道なあなたの罪を。余りにもひどい!
あなたがたは正しく生きる人々をいじめた。
右や左に賄賂を手にし、貧しい者をけり倒した。
正義は終わっている。(10-13,MSG訳)」
神は人間の不法が続くのを永遠に放置することはなさいません。神は手を下し、ご自身の正義をもたらします。神は不法を憎みます。神の正義と義への関心は24節に集約されています。「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。(24)」
強制的な労働や奴隷状態から人々を救出することや、性的に搾取する人身売買や他の不法な状態に反対して闘うことなど、正義に関する項目は、私たちが早急に取り組むべき課題であるべきです。それらは確かに神が優先して取り組んでおられる課題なのです。
祈り:主よ。信仰によって義と認められることを感謝します。そしてまた、信仰は単独ではありえないことを感謝します。どうか、私の信仰から正しいことを行いださせてください。そして、すべての正義を探し求めることができますように。アーメン。
H.K
References
John Calvin, Acts of the Council of Trent with the Antidote Canon 11 (1547)
http://www.monergism.com/thethreshold/sdg/calvin_trentantidote.html