Tokyo Chapel

2019年8月1日

第213日

人々に希望をもたらす

21歳のマシューは3年間ホームレスの生活をしました。マーク・ラッセルは、マシューを、ロンドンのチャリング・クロスの通りで見かけました。マークはチャーチ・アーミー(英国国教会内の福祉組織)の総裁にわずか31歳で指名された人です。彼は幾らかの食べ物を分かち、マシューをキリストに導きました。

別れ際に彼は言いました。「マシュー、来月、私は何千人もの人々に演壇から話をすることになっているんだけれど、今の英国国教会にあなたがしてもらいたいと思っていることを少しアドバイスしてもらえませんか?」

マシューはこう答えました。「教会の仕事は、議論することをやめて、人々に希望を与えることだよ。」

マーク・ラッセルはこうコメントしました。「私は今まで、私たちがすべきことについてこれほど的確な定義を聞いたことがありません。私たちは希望の福音を持っていないのでしょうか?福音は希望をもたらさないのですか?いのちの福音、変革する福音、そして、とどのつまり、永遠のいのちの希望、イエスの希望…」

多くの人々は希望のない終わりしか見ていません。しかし、イエスにあって、あなたは終わりのない希望を楽しむことが出来るのです。

希望は三つの大いなる神学的な美徳の一つです。他の二つは愛と信仰です。ラニエロ・カンタラメッサ神父が記しました。「それらは三姉妹のようです。二人はもう大きく成長したのですが、一人はまだ小さな子どもです。真ん中に小さな「希望」の両手をそれぞれ残りの姉妹が手をつないで前進していきます。その様子を見ていると、二人の大きな姉妹たちが子どもを引っ張っているように見えますが、あべこべに、小さな少女が大きな二人を引っ張っているようにも見えます。希望は信仰と愛を引っ張るのです。希望がなければすべてが止まってしまうでしょう。」


イエスを通して永遠の命の希望を知る

詩篇89:46-52

希望なしに生きることは、生きることをやめることだ。」とフョードル・ドストエフスキーは記しました。「酸素が肺にとって必要であるように、希望は人生の意味にとって必要である。」とエミール・ブルンナーは記しました。

この詩篇の結びには希望について触れられています。「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)」詩篇の作者は自分の状況と格闘しているという事実にもかかわらず、希望をしっかりとつかんでいます。

  1. 苦難や失望の真っ只中にある希望
    「いつまでですか。主よ。(46)」という質問は修辞的です。それは失意の叫びです。この苦難は永遠に続くのですか?
  2. 人生の短さや死が不可避であるにもかかわらずある希望
    人生は短い。「どうか、心に留めていてください。私がどれだけ長く生きるかを。(47a)」もし死んでおしまいなら、究極の意味や目的などありません。「あなたはすべての人の子らをいかにむなしいものとして創造されたかを。」誰も自分を死からよみがえらせることが出来る者はいません。「いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。(48)」

しかし、詩篇の作者は復活の希望を無視してはいません。彼は人間が自分自身で救うことができないことを知っています。彼は主を見上げます。「主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(49)」ダビデは主が「油そそがれた者(51)」でした。詩篇の作者が見ていたのは、ぼんやりとした外観だけでした。それは新約聖書の中ではっきりと輝くクリスタルになるのです。

祈り:主よ。あなたがイエス・キリストの死からの復活を通して生ける希望を与えてくださったことを感謝します。そして、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました(1ペテロ1:4)」ことを感謝します。


聖霊を通して希望があふれる

ローマ14:19-15:13

信仰は希望と喜びと平和を私たちの人生に解き放ちます。疑いは私たちの喜びと平和を奪い去ります。信仰とは希望の神に信頼することです。パウロは祈ります。「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせて(わきこぼれさせて,AMP訳)くださいますように。(15:13)」

希望の起源は「希望の神」です。希望の理由はイエスです。あなたの内にある希望の出どころは聖霊です。この希望とは願い事ではありません。それは神が私たちのためになされたことと私たちの内になさっていることをもとにしています。

この希望は私たちの日々の生活を突き動かす力です。アーウィン・マクマヌスが解説するように、希望は「もう克服することが出来ないと思える状態まで積み上げられた私たちの失敗、痛み、恐れのがれきの中から私たちを引き上げます。」

全世界のための希望はイエスの中にあります。イエスはイスラエルのための希望です。イエスはまた異邦人のための希望です。パウロは旧約聖書の中でこのことを証明する多くの箇所を引用します。そして「すべての人が、あらゆる所から見ることが出来るほど高いお方、この方に望みをかける。(12,MSG訳)」というイエスが為されたことに関するイザヤの預言の言葉を最後に配置します。

パウロは、今日を含む世界にイエスがもたらされた希望の異なる側面を私たちに見させてくれます。

  1. 一致の希望
    パウロはすべての努力が一致をもたらすためであることを薦め続けます。「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(14:19)」この一致を、キリストにあるあなたの兄弟姉妹に対して敏感であることによって、そして不必要に攻撃的にならないことによって守りましょう。(14:20-15:1)私たちはお互いに「隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(2)」

    イエスの手本に倣いましょう。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。(3)」自分を喜ばせる者であったり、人々を喜ばせる者であったりせず、イエスのように、神を喜ばせる者になりましょう。人々を喜ばせる者は、たとえ、自分の良心矛盾を感じていても人々を喜ばせようとしてしまう人のことです。パウロは主が喜ばれないようなことについて、人々を喜ばせようとはしませんでした。(ガラテヤ1:10、1コリント10:33)
  2. みことばからの希望
    聖書の目的は私たちに希望を与えることです。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(ローマ15:4)」あなたがイエスについて知っていることやイエスにある希望は聖書を通して得られます。あなたが希望を維持していく方法はみことばを絶えず学ぶことによるのです。

この希望は「あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和(13)」へと導きます。コーリー・テン・ブームの愛すべきこのような言葉があります。「喜びと平和は私たちの笑顔と空っぽのスーツケースとがよく似あいます。」

祈り:主よ。イエスが死からよみがえられた方であり、やがて、その日、イエスとともに完全な永遠の命へと私をよみがえらせてくださることを感謝します。あなたの聖霊が今日私を希望で溢れ返るように満たされますように。


王が帰って来られることにあなたの希望を置く

1歴代11:1-12:22

私たちの希望は、やがてある日、戻って来られて永遠の王国を建て上げる王なるお方イエスにあります。私たちが旧約聖書の王について読むとき、彼らの最高の統治でさえ、ただ究極の王、イエスのわずかな影でしかないということをよく覚えておくことが大切です。

歴代誌の作者の目には、ダビデは理想的な王でした。「これまで、サウルが王であった時でさえ、イスラエルを動かしていたのは、あなたでした。しかもあなたの神、主は、あなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがわたしの民イスラエルの君主となる。』(11:2)」彼らは「サムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油をそそいでイスラエルの王とした(3)」のです。「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。(9)」

ダビデはそれをすべて自分自身でしたのではありません。彼には彼を取り巻くチームが必要でした。ダビデは三十人の勇士のグループを持っていました。その中には三勇士が含まれます。私はチームを導く時、彼らが私とピッパをともに力強く支え、励ましてくれることをとても感謝しています。私たちは私たちの周囲に驚くべきチームなしには何も始めることはできないのです。

三十人の長であったアマサイは「神の霊に心動かされてダビデに言った。『私たちはあなたの味方です。…私たちは献身します。…あなたを助ける者たちがこれだけいるのですべてはうまくいきます。』(12:18-22)」この言葉はダビデにとってどれほど大きな励ましになったかしれません。

これらのみことばから、私たちはイスラエルの王国と神の御国との間に直接的に等しい関係を理解します(1歴代28:5、29:23、2歴代13:8参照)。王政の継続は神によって守られているのですから、疑いの余地はありません。

しかし、歴代誌の作者がこれを何百年も経ってから書いた時には王はいませんでした。彼は、やがてダビデのような王が将来現れるという過去の希望について記しているのです。やがて来られる王…それはイスラエルの希望でした。イエスはその王だったのです。イエスは「油注がれた者」であり、「メシア」でした(詩篇89:51)。

今、私たちの希望はイエスの再臨です。レスリー・ニュービギン主教が次のように言った通りです。「クリスチャンにとっての地平線は『彼は帰って来る』であり『私たちは主の再臨を待ち望む』です。それは明日にでも、いつでも起こり得る。しかし、それは地平線です。その地平線は私にとって基本です。それが希望に満ちた人生を可能にするのです。なぜなら、意味のある人生を見出すことが出来るのですから。」

祈り:父よ。イスラエルのすべての希望がイエスが油注がれた王として来られた時に成就したことを感謝します。そして、今私たちがイエスの再臨を待ち望むことができることを感謝します。

「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(詩篇89:52)」

H.K

References

Bishop Lesslie Newbigin excerpt from, Andrew Walker, Different Gospels: Christian Orthodoxy and Modern Theologies, (Society for Promoting Christian Knowledge, 1993)

Erwin McManus, Soul Cravings, (Thomas Nelson, 2008) p.2.

Raniero Cantalamessa, Life in Christ, (Liturgical Press, 2002) p.81.

Corrie ten Boom, Clippings from my Notebook (Triangle, 1983).

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