Tokyo Chapel

2019年10月4日

第277日

感謝する態度

ジーン・スミスは自分に起こったことを私に話してくれました。彼女は六十代半ばでした。彼女はウェールズのクンブランの出身でした。彼女は十六年間目が見えませんでした。彼女は白杖を持ち、ティナという名前の盲導犬を連れていました。細菌感染によって、彼女の網膜が侵食されたのです。眼球の裏側にあり、移植は不可能でした。また彼女はいつも痛みを覚えていました。

ジーンは近くのアルファ・コースに通いました。彼らが聖霊の働きに焦点を合わせた日を設け、この時、彼女の痛みが去りました。彼女は神に感謝するために日曜日に教会の礼拝に行きました。牧師が油を注いで祈りました。彼女が油を拭った時、彼女は聖餐台が見えたのです。神は奇跡的にジーンを癒したのです。

彼女は十六年間、夫の顔を見ていませんでした。彼女は彼のひげが白くなっていることに驚きました!彼女は義理の娘をまだ見てはいませんでした。彼女の六歳半の孫は、彼女が濡れないように水たまりを避けて彼女を案内していました。

孫は彼女に言いました。「おばあちゃん。誰が治してくれたの?」
彼女は答えました。「イエス様が良くしてくださったのよ。」
「じゃあ、感謝しなくっちゃね。おばあちゃん。」
「そうね。感謝してもしきれないわね。」と彼女は答えました。

昨日、私たちはパウロの励ましを読みました。「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」今日、私たちはパウロが自分自身がそれを実践するための手引を与えているのを見ます。ジーンのように、パウロは神に絶えず感謝をささげました。彼は感謝する態度を持ちました。

賛美は、神が神ご自身であられるゆえに、神に栄光をお返しすることです。感謝は神が私たちのためにしてくださったことのゆえに神に栄光をお返しすることです。それは私たちの全生活を通して見るためのレンズです。究極的には、私たちが今日の箇所で見るように、世界は二つの範疇に分けることが出来ます。神を知る者たちが神に感謝をささげる世界と、そうでない世界です。

どのようにしてあなたは感謝する態度を育てるでしょうか?


感謝のいけにえを公にささげる

詩篇116:12-19

あなたが自分の家で個別に神に感謝をささげるだけでは十分ではありません。ともに集い、「御民すべてのいる所で(14)」公に神に感謝することには意味があります。詩篇の作者は修辞的な質問を尋ねます。「神が私の上に注いでくださった祝福を、私はどのように神にお返しすることが出来ようか?(12,MSG訳)」

神は彼に対してとても良いお方でした。「彼らが死の門にたどり着いた時、神はご自身を愛する者たちを迎えてくださいます(15,MSG訳)」という安心が将来与えられていることを詩篇の作者は感謝します。彼は神が過去においてなしてくださったことを感謝し、「あなたは私のかせを解かれました。(16)」と宣言します。

感謝は容易い時もありますが、時には、それはより犠牲を伴います(17)。アビラの聖ヨハネ(1500-1569)は記しています。「物事が私たちにとって悪い方向に向かう時、一つの感謝の行動は、物事が私たちの向かっている方向に順調に進んでいる時の千の感謝の価値がある。」

詩篇の作者は言います。「私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。(17-19)。」「ハレルヤ」は英語(や日本語)になった数少ないヘブル語の一つです。それは主への賛美への呼びかけです。

詩篇の作者は自分の苦悩を思い出します(1-4)。彼は神のあわれみを思い出します(5-11)。そして今、彼は大いなる感謝をもって締めくくるのです(12-19)。

祈り:主よ。どのようにしてあなたに十分に感謝を表すことができるでしょうか?あなたが私を救ってくださったことを感謝します。あなたが私に与えてくださった良いことのゆえに、私は「主の家(19)」の中にあってあなたに感謝をささげます。


絶えず神に感謝をささげる

コロサイ1:1-23

ほとんどの人々は、今日の世俗的な社会においてでさえ、イエスが偉大な歴史上の人物であったことを認めます。彼らはイエスを、モーセ、仏陀、ソクラテスや他の偉大な宗教指導者と並べてランク付けするかもしれません。

しかし、イエスは世界の唯一無二の普遍的な救い主なのでしょうか?これは21世紀の現代と同様に1世紀においても問題でした。コロサイのある人々にとって、宇宙の力はイエスと対等をの立場を帯びると言うことでした。

この手紙の中で、パウロは、大いにへりくだって、紳士的に、イエスこそ唯一無二の普遍的な救い主であることを宣言しています。それは神であり、「私たちの主イエス・キリストの父なる神(3)」です。そしてそのお方は私たちすべての礼拝、賛美、感謝を受けるにふさわしいお方です。

パウロがコロサイの人々のために祈る時、彼は神に、彼らの信仰と愛が天に蓄えられた希望から湧き上がっていることを感謝します(5)。

パウロは、彼らが次々い神に感謝する者となるように祈ります。彼は、彼らの信仰が発展するように祈っている方法を要約します。「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、」「忍耐と寛容」を尽くすことを神に尋ね求めています。各々の特徴が次のものに反映されながら段々と大きくなるようなリストが描かれ、記述の最後は「父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」と締めくくられています(9-12)。

パウロは彼らが父に感謝をささげるようになり、「暗やみの圧制から」「愛する御子のご支配の中に」変革されるようにと祈っています。 それは「贖い、罪の赦し」です(13-14)。「神は私たちを袋小路と暗闇の迷宮から救ってくださいました。神は私たちを、神が大層愛しておられる御子の王国に築き上げてくださいました。御子は私たちがはまっていた穴から引き上げてくださいました。私たちが繰り返してしまうように定められた罪を取り除けてくださいました。(13-14,MSG訳)」

あなたが考える一つのことは「見えない神のかたち(15)」です。「私たちはこの御子を見つめます。そしてそこに眼には見ることができない神を見るのです。(15,MSG訳)」イエスはすべてのものを創造なさったお方です。すべてのものはイエスによって創られ、イエスのために創られました。そのすべては、「彼において始められ、その目的は彼のうちに見出されます。(16,MSG訳)」イエスは教会の頭です(18)。神の十全性はイエスの内にあるのです(19)。

イエスは「その十字架の血によって(20)」神との平和をもたらしました。イエスはあなたと神とを和解させたのです(22a)。あなたは今、主の目にはきよい存在です。しみもなく、非難されることからも解き放たれたのです(22b)。

これが、私たちが感謝をささげる理由である福音です。イエスは「初めから最高のお方であり、復活のパレードを先導するお方として最高であり、終わりにおいても最高のお方です。最初から最後までイエスはおられます。どのようなもの、どんな人よりもはるかに高くそびえるお方です。…天の下にあるすべての被造物は、この同じメッセージを受け取るのです。(17-23,MSG訳)」

祈り:主イエスよ。私の為に十字架で流してくださったあなたの血を通して神との平和と和解を与えてくださったことを感謝します。私たちにこの福音を告げ知らせ、人々が自由にされるのを見るという莫大な特権を与えてくださったことを感謝します。


感謝を無視することに気をつける

エレミヤ7:30-9:16

ローマ1章のパウロの言葉はこの箇所のようやくとして見ることができます。「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。(ローマ1:21)」

エレミヤ書の中に、神がご自身の民を裁くと警告しておられるのを私たちは見ます。彼らは主の目に悪と映ることを行いました(エレミヤ7:30)。彼らは「ただ行き続けた。― 後ろに向かって! 『ごめんなさい。』の一言もわたしは聴くことがなかった。(8:5-6,MSG訳)」「彼らに恥はなかった。…彼らは赤面の仕方さえ知らなかった。(12,MSG訳)」「まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。(9:3)」「彼らは…欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。(6)」

「 彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。(8)」彼らの罪の根は神を認めることを忘れ、神に感謝をささげなかったことでした。彼らは「私を知ることを拒んだ。(6,MSG訳)」

神はどれほど多くを彼らに与えたことでしょうか。しかし、彼らは神を認めようとせず、神に感謝をささげなかったのです。それゆえ、神は言います。「わたしが彼らに与えたものを彼らから取り去ろう。(8:13d,NIV訳)」「わたしは彼らを、刈り入れたい。…ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく…(13)」

この裁きはエレミヤにとって耐え難いことでした。「ギルデアには癒しのための軟膏はないのか?その家には医者はいないのか?何をもってしても私の愛する愛する人々を癒し救うことはできないのか?(21-22,MSG訳)」

私たちの今日の箇所のすべては、私たちが神への感謝と賛美をささげることへと招いています。私たちが応答できる一つの道は、聖公会礼拝式文の中に記されている言葉を私たちの思いに住まわせ、共に祈ることです。

私たちの神、主に感謝をささげましょう。
主に感謝と賛美をささげることは正しいことです。

それは実に正しい。
それは私たちの務めであり喜びです。
どんな時も、どんな所でも、
感謝と賛美をささげます。
父なる神に、天の王に、
全能なる永遠に神に、
私たちの主、子なるイエス・キリストをとおして。

それゆえ天の御使いも天使長も、
天のすべてのものとともに、
私たちはあなたの偉大さと栄光の聖名を告げ知らせる
とこしえにあなたを賛美し、そして言う:

祈り:聖なる、聖なる、聖なる主。
力と権能の神、
天と地はあなたの栄光に満ちています。
いと高きお方にホサナ!

H.K

References

Eucharistic Prayer A for use in Order One, Common Worship (Church House Publishing 2000, pp 184–5, © The Archbishops’ Council.