Tokyo Chapel

2019年11月15日

第319日

なぜ、そして、どのように礼拝するのか

なぜ礼拝が大切なのでしょうか?あなたが神を礼拝する時あなたは何をしていますか?

ヘブル人への手紙の作者は「私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕[礼拝,NIV訳]をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル12:28-29)」と力説しています。

今日の箇所の共通のテーマは「シオンの山(詩篇126:1)」です。「生ける神の都、天にあるエルサレム(ヘブル12:22)」「神の聖なる山(エゼキエル28:14,16)」これは神の臨在の場所です。古い契約でも新しい契約でもともにそこで神は礼拝されます。しかしながら、古い契約と新しい契約には違いがあります。

あなたは、もはや神の臨在を経験するために特定の物理的な場所に行く必要はありません。「新しい契約の仲介者イエス(ヘブル12:24)によって、あなたはどこででも礼拝することが出来るのです。イエスこそ、あなたや私のためのご自身の十字架の死を通して神とのこの新しい関係を作ってくださったお方なのです。

あなたがイエスを礼拝することができる、あなたの「聖なる山」はこの地上のあらゆる場所であり、これは、ヘブル人の手紙の箇所で読む「天のエルサレム」を予期するものです。それは黙示録21章に描かれている新天新地なのです。

あなたが礼拝によってイエスに近づくとき、C.H.スポルジョンが指し示すように「イエスに近づくことの3つの結果、幸福、きよめ、謙遜」を得るのです。


1.幸福

詩篇126:1-6

子どもたちは一日平均150回笑います。大人は一日平均6回笑います。イエスは私たちにもっと子どもの様になりなさいと言います。

キリスト教信仰は笑いと涙、喜びと悲しみのユニークな組み合わせです。「私たちは笑った。私たちは歌った。…神は私たちにとって素晴らしい。私たちは幸せな民である。(2-3,MSG訳)」この詩篇は捕囚にあった人々がシオンに帰還する祝いの詩篇です。彼らはとても幸せです。「主がシオンの繁栄を元どおりにされたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。(詩篇126:1)」

彼らは聖なる山「シオンの山」に帰って来ました。これは神の神殿がある場所です。この地上での救いはイエスを通してあなたが経験するさらに大いなる救いの予表です。

彼らと同じように、あなたの応答は礼拝となるのです。「私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなされた。』主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。(2-3)」

クリスチャンの生活には多くの涙があります。もし、今、あなたが辛い時を通っているなら、神があなたの成功を回復してくださるように祈りましょう。もし、今、あなたが涙とともに種を蒔いているなら、喜び叫びながら刈り取る時がやってきます。その時あなたは喜び叫びながら刈り取るのです(5-6)。

祈り:わたしの成功を回復してください。あぁ主よ。私が幸福、笑い、喜びをあなたの臨在の内に見出すことが出来ますように。


2.きよめ

ヘブル12:14-29

「さらなる霊的進展は、何年もかかる単なる研究よりも、驚くべき神の臨在の中にある短い沈黙の瞬間に訪れます。」とA.W.トーザーは書きました。

礼拝とは聖なる神の山における聖なるご自身の「驚くべき臨在」に入って行くことです。私たちの神は「焼き尽くす火(29)」です。あなたは神に似た者になるように召されています。「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(14b)」きよめは追い求めるものです。マザー・テレサは言いました。「私たちのきよめの進展は神と私たち自身にかかっています。神の恵みにあって、私たちの意思にあって、きよくなれるのです。」あなたはイエスがあなたをきよくしてくださろうとすることを決心することができるのです。

関係が実際に大事なことです。「すべての人との平和を追い求め(14a)」ましょう。神の恵みを見失うようになること(神のきよさを見失うようになること)を何一つすべきではありません。「目ざとく、苦い不平不満の雑草を見抜きなさい。少しばかりのあざみの種が蒔かれると、たちまち庭全体が駄目になってしまうのです(15,MSG訳)」もし、それを検知したならすぐさま苦い根を引き抜きましょう。

私たちは自分たち自身についてそしてお互いに責任を持っています。「誰も性的不道徳に陥ることなく」あるいは、カッとなって、その場の満足のために多くを棒に振ってしまうような「エサウのように神を畏れぬ」ことがないようにしましょう(16,MSG訳)。」

旧約聖書の中にある、律法が与えられた目に見える山と、神を礼拝するために今あなたが来る天的なシオンの山との対比を見ましょう。モーセでさえ恐ろしくなった、律法が与えられた時に同時にあった、尋常ではない神のきよさの現れについて考えましょう。

あなたが礼拝する時はいつも、あなたは何千もの天の御使いに囲まれているのです(22b)。そして、生ける神のまさにその臨在の中にあるのです(23b)。キリストにあって死んだすべての人々は天での礼拝に加わるのです(23c)。あなたは世界中の何十億ものクリスチャンと今もそして天においても加わっているのです。

あなたが礼拝する時はいつでも、最高に、「あなたはイエスのもとに来た(23,MSG訳)」のです。そして、そのお方はすべてのことを可能にしてくださるのです(24b)。「アベルのとき、ー復讐の叫びの殺人ーとは違って、イエスが殺されたことは恵みの宣言となりました。(24,MSG訳)」キリストの血は、イエスに信仰を置く者にとって、洗い清め、赦し、神と共にある平和のメッセージをもたらしました。

あなたがイエスに礼拝すつために来る時、「あなたはどれくらい感謝すべきかが分かりますか?感謝するだけではなく、礼拝に溢れて、神の前に深く敬いましょう(28,MSG訳)

祈り:主イエスよ。十字架の上でわたしのために血を流してくださり、私があなたの臨在に近づけることが出来ますことを感謝しましす。 私をきよめてください、そして、あなたを敬いおそれ畏み、神に受け入れられる礼拝をささげることが出来ますように。


3.謙遜

エゼキエル28:1-29:21

きよめと謙遜は切っても切れない関係にあります。イエスは私たちにきよめの中心は謙遜であることを見せています。その一方で、プライドは罪の根です。サタンを堕落に導いたのはプライドでした。

聖書的な世界観に従えば、この世の悪の背後には悪魔の存在があります。悪魔はギリシャ語では「ディアボロス (diabolos)」と言います。これは、ヘブル語のサタン(satan)という言葉を翻訳したものです。私たちは聖書からサタンの起源についてはあまり詳しく言うことが出来ません。しかし、この箇所はサタンの起源についてのヒントを与える数少ない箇所の一つです。

もともとの文脈はツロの王の堕落についてですが、それはこの世の君であるサタン(2コリント4:4)がツロの王の背景に見えるのようです。

イザヤ14:12–23と黙示録12章と並べて読むと、人間もサタンも良いものとして造られたことが表されています。「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。(エゼキエル28:12-13)」それはサタンが御使であったと表されています。「わたしはあなたを 油そそがれた守護者ケルブとともに、 神の聖なる山に置いた。 あなたは火の石の間を歩いていた。(14)」サタンは恵みの座に、また神の臨在に近づくことができました。サタンはその道において非難されるところがありませんでした(15)。

神の山で神を礼拝していたにもかかわらず、「彼の心は高ぶり、『我こそが神だ。私は神の聖なる御座につき、海を支配する。』と言うようになった。(2,MSG訳)」彼は「神になろうとした(2,MSG訳)」「商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、あなたの心は、財宝で高ぶった。」

取引が上手で富を持っていただけではなく、見栄えも良かったことが彼を高慢にしました。「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。(17)」

これは自己礼拝を描き出しています。それは私たちの成功が、神から来たものであり、神だけが礼拝されるべきお方だと認識し、成功が自分の知恵、技量、能力によるとした時に起こります(4)。主権者なる主を礼拝しているにもかかわらず、誘惑は成功や富や美を礼拝することです。私たちの文化の神、それは見せかけの神です。

神は高ぶりを打ち砕き、謙遜を称えます。サタンはその高ぶりと罪の結果として、サタンは神の臨在から追放されました。「あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し(16)」「そこで、わたしはあなたを地に投げ出し(17,イザヤ14:12、ルカ10:18参照)サタンの最終的な破滅は確定しています(エゼキエル28:18b-19)。イエスはサタンをご自身の死と復活によって滅ぼされました。

イエスの態度はサタンとは正反対です。彼は反対の道を行きました。「キリストは神の御姿である方なのに、…ご自分を無にして、…自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:6-11)」

今日、イエスを礼拝しましょう。あなたが全生涯を通じて神に近づく時、あなたはこれらの恩恵にあずかります。それは、幸福、きよめ、謙遜です。

祈り:主イエスよ。私は今日膝をかがめてあなたを礼拝します。そして、あなたを主と告白致します。父なる神に栄光がありますように。アーメン。

H.K

References

C. H. Spurgeon, Morning and Evening Daily Readings, ‘Morning reading 12 May’ (Wilder Publications, 2009).

A. W. Tozer, (Compiled by Marilynne E. Foster), Tozer on the Holy Spirit: A 365-Day Devotional, (Wingspread: Reissue edition) p.337.