Tokyo Chapel

2018年4月13日

第103日

神はどのようなお方か?

6歳の女の子がある日、絵を描いていました。彼女の先生が「何の絵を描いているの?」と尋ねました。女の子は「神様の絵を書いているの。」と答えると、先生はびっくりしてこう言いました。「まぁ!でも誰も神様がどんなお方か知らないわよ。」女の子は絵を描き続けながこう返事しました。「じゃあ、もうちょっとで分かるわ」

この「日々の糧」によって、神のご性質やご性格を一つの大まかな絵を描くことによって、神がどのようなお方かをさらに理解できるようになればと願っています。


王なるイエス

詩篇45:1-9

ヘブル書の作者は、この詩篇(45:6-7)をイエスを預言的に記したものと捉えています。彼はこう記しました。「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、…』(ヘブル1:8-9参照。これは詩篇45:6-7の引用)」

これは、新約聖書において明確にイエスを、まさしく礼拝されるべき神として記述している箇所の一つです。イエスはメシアとして知られる「油注がれた王」に期待されたことを成就しました。イエスはこれらの預言を成就したのです。

イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」と言いました。言い換えれば、もしあなたが神がどのようなお方であるかを知りたければ、イエスを見ればよいという事です。

彼は「恵みに油注がれた(詩篇45:2,NIV訳)」お方です。私たちはこれらの節から三位一体の全体像をつかむヒントを得ます。父なる神(「神」、「あなたの神」45:7)、子なるイエス(「あなたの王座」,6a)、そして聖霊(「喜びの油」,7b また同様にイザヤ61:1,3)
です。

祈り:イエス。わが王よ。「あなたの威光の内に、勝利のうちに、真理と柔和と義のために、乗り進め。あなたの右の手をもって偉大な御業をお示しください。(詩篇45:4,NIV訳)」


愛する父

ルカ15:1-32

神のあなたへの愛は情熱的で、心底からのもので、どんなことがあっても変わることがありません。どんなにあなたが自分の人生を台無しにしてしまうことが多くあり、深く悔やんでいたとしても、神に立ち返るのに遅すぎるということはありません。神はあなたを受け入れ、失われた息子を抱きしめた父の愛をもってあなたを抱きしめてくださるのです。

イエスは宗教指導者たちに驚き、対抗しました。「彼らは敵意をむき出して言った。『彼は罪人と一緒に席につき、彼らと一緒に、まるで旧友であるかのように食事する。』彼らのつぶやきはこの話の引き金となった。(2-3,MSG訳)」

イエスはそれで、3つのたとえ話を用いて神が失われた者に対してそのように処されるのかを示しました。あなたが価値ある何かを失ったことがあり、一生懸命探して見つかったことがあるなら、なくなっていたものが見つかった時の喜びがわかるでしょう。イエスはその喜びでさえ、天の喜びに比べると色あせると言っているのです。

失われた羊の話は「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)」ということを示しています。失われた銀貨の話は「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(10)」ということを示しています。

そして、今まで語られたショートストーリーとしては最高のたとえ話といえる放蕩息子のたとえでは、息子を「愛する父」の描写を通して、イエスは神がどのようなお方であるかをもう一つの心揺さぶられる啓示として語りました。

弟である息子は彼の父が存命でしかも健康である間に父の遺産を求めました。伝統的な中東の文化において、これは「お父さん。私はあなたに死んでほしいと強く願っているんだ。」と言っているのと同じでした。伝統的な中東の父親であるなら、そのような息子は勘当されたことでしょう。それは父親が拒絶して当然の論外な要求だったのです。

しかし、特別な愛の行為をもって、父は伝統を破って、彼の受けるべき資産を売る自由を息子に与えたのです。(これは、コミュニティー全体の前に家族の名折れとなることでした。)息子は「それを現金に替えて(13,NIV訳)」できるだけ早く町を去り、姿をくらましました。

今日も私を含めて、多くの人々が、年の若い息子ほど父親と過ごすのが退屈だと思うということを経験します。彼は自分の人生を浪費しました。(「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」,13)「彼は傷つき始め(14,MSG訳)」、彼は奴隷のようになり(「自分自身を貸し出し」,15,NIV訳)、彼は内にむなしさを感じました。(「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであった」,16)彼はこの世で独りぼっちのように感じました。(「だれひとり彼に与えようとはしなかった。」,16)

神に立ち返ることは不合理なことではありません。それは反対です。彼は「我に返った(17)」のです。息子は助けが必要だと悟ったのです。彼はメンツを捨てる覚悟をして父のもとに戻りました(18)。彼は家に帰る必要が分かったのです。彼は自分の罪を認める準備をしました。彼は父にこう言う計画をしました。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(18-19)」

私たちは信仰のステップを踏む必要があります。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。(20)」その時は、彼は何が起こるか分かりませんでした。イエスの当時、ユダヤ人で家族の遺産を異邦人に売り渡したような少年は、村からも罰を受け、そのようなわがままな息子を助ける者など一人もいませんでした。

神の愛は余りにも大きな愛です。そして、あなたが期待し想像できることをはるかに超えたことをしてくださるのです。受ける価値なき私たちが赦しと愛を受け取るのです。まだ、息子が遠くを歩いていたのですが、父はそれを見つけました。それは父が彼の帰りを待ち続け、探し続けていたことを想起させます。父は息子を忘れることがなかったのです。「彼の胸は高鳴り、走り寄って彼を抱き、口づけし(20,MSG訳)」、ここで用いられている用語は「何度も何度も繰り返して口づけし」という意味を持っています。これは、神がどれほどあなたを受け入れているかということです。

私たちが準備した悔い改めの言葉を口にし始めると、父はそれを制止します。神はあなたをまるで来賓のように取扱い、最高のローブを着せてくださるのです(22)。彼はあなたの指に家族の指輪をはめることで、あなたに確信のしるしを与えます(22,MSG訳)。彼はサンダルを履かせ、奴隷としてではなく、息子として迎え入れます(22)。そして盛大な祝宴を準備するのです(23-24)。

私たちはここに神がどのようなお方であなたをどれほど愛しておられるかを垣間見ることができます。ここでも再び、天の御国がパーティーのようである描きを見ます。これは、多くの人々が想像するのとは反対です。彼らは神と、音楽もダンスも祝宴やお祝いも関係づけはしないのです。

神の愛は、「むくれっ面(28,MSG訳)」で弟を赦し受け入れることを妬む兄にも及びます。あなたは、兄の肩に手をかけ語りかける父の姿を想像できるでしょう。「息子よ。おまえは分かっていない。おまえはいつも私といっしょにいる。そして、私のものは、全部おまえのものだ。しかしこれは素晴らしい時だ。私たちは祝わなければならない。おまえの弟は死んでいた。そして今は生き返った。彼は失われていた。でも今は見つかったのだから!(31-32,MSG訳)」と。

(宗教指導者に対して語られた)この物語の結末はクリフハンガー(宙吊りのまま中断する演劇の手法)になっています。…さて、兄の父の愛への反応はどのようなものだったのでしょうね?

祈り:父よ。私が人生を台無しにした時も私を拒まず、あなたがこんなにも私を愛してくださることを感謝します。私が悔い改めてあなたのもとに戻ってきた瞬間、あなたは私を受け入れ「食べて祝おうではないか。(23)」とおっしゃってくださいました。


聖なる裁き

申命記19:1-20:20

旧約聖書の記述を生き生きと読もうとすれば、イエスのレンズごしに見なければなりません。私たちは今日の社会に旧約聖書の律法を単純に当てはめることはできません。「聖戦(20:1-20)」の概念を「十字軍」を正当化するかのように捉えることは出来ないのです。

私たちが聖書を通して分かることは、神が聖であり、神は義なるお方であるということです。古代イスラエルの法律システムの原則のいくつかは、その時代に特別に適用されるものであり、その他の多くはより一般的に当てはめることができます。

殺人は、過失致死よりも明らかに重大な犯罪です(19:1-13)。有罪判決を受ける前に、確かな証拠が必要です(15)。偽証は重罪です(16-18)。罰として、犯した罪と同じ量刑が科せられなければなりませんでした。(21, これは、死刑の場合を除いて、文字通りに執行されたわけではありません。)量刑が差し込まれた第二の理由は抑止力としての効果です(20)。

古代イエスラエルでのすべてが私たちに適用されるのではありません。イエス・キリストにあって、新しい道が設けられました。コミュニティーの中で犯罪者に向けられた神の怒りは、ただ一度、義なる代表者として来られた、神の人に向けられました。

私たちは犯罪の刑罰を学習するためのモデルとしてイスラエルを受け入れることはできません。元オックスフォード大学神学部教授のオリバー・オ・ドノバン教授はこう記します。「偏狭であろうとする故ではなく、非キリスト教がそうするであろう故に、この地に神が唯一の住まいと主張される強い感覚において、『イスラエル』はキリストに取って代わったのである。」

たとえば、イエスは19:21を引用して「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)」と旧約聖書の教えをさらに発展させたのです。

祈り:主よ。あなたが愛の神、義の神、真理の神であることを感謝します。あなたの御言葉を学び、あなたの臨在に過ごす時、私のご自身を啓示してくださることを感謝します。アーメン。

H.K

References

Oliver O’Donovan, Measure For Measure: Justice in Punishment and the Sentence of Death, Grove Booklet on Ethics No. 19 (Bramcote Notts: Grove Books, 1977) p.8