Tokyo Chapel

2019年2月8日

第39日

敵意の中での生きる方法

何十万人ものクリスチャンがイスラム過激派との対立の中でイラクやシリヤから逃げました。クリスチャンは組織的な拷問や大量殺戮の脅かしに面しています。ISISはキリスト教を第一の敵として宣言しています。

何百万人ものクリスチャンが、その信仰のゆえに迫害される国に住んでいます。多くの政府は教会の成長を制御しようとしています。伝統的なキリスト教国でさえ活力あるキリスト教に対する敵意を増加させています。神の民に対する敵意は今に始まったことではありません。人は成功、成長、大人数によって脅かされるのです。

もしかしたら、あなたの信仰のゆえに、あなたは職場、あるいは家庭でさえ敵意に直面することがあるでしょう。今日の箇所は敵意ある環境に現実に生きることにハイライトを当てるだけでなく、そのような敵意の中で生き残り、繁栄することがどのようにして出来るのかということを指し示します。


神の啓示を学ぶ

詩篇19:1-6

神は創造を通して全世界に対してご自身を啓示しておられます。ダビデは、あなたが宇宙い目をやる時、神がおられることは明らかであると言っています。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。(1-2)」

フランシス・コリンズは2000人の科学者を率いて30億にも及ぶヒトゲノムを解析するプロジェクト、つまり私たちのDNAの設計図作りを成し遂げました。その彼がこう言います。「私は自然がそれ自体によって出来上がったとは、どうしても考えることはできません。時空の外部からの超自然的な力があってこそ、それは出来たのです。」

創造における神の啓示はすべての人に示されています。誰一人として、その外側にいることはできません。「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。(3-4)」

私たちが世界を見るとき、私たちは神の足跡を見ます。それは「神の永遠の力と神性(ローマ1:20)」です。神は世界全体にご自身を啓示しておられますが、多くの敵がそこには残っています。

神の創造を学ぶ時を持ちましょう。そして、神が神であることを感謝し、神が創造された美しい世界全体を楽しみましょう。

祈り:主よ。たとえあなたのことばも声も聞こえなくても、あなたが毎日、昼も夜も創造を通して語っておられることを感謝します。


神の解決を理解する

マタイ26:1-30

あなたは誤解されて責められたり、友人から裏切られたりしたことがありますか?罠にはめられたり、個人的な敵対に遭ったりしたことがありますか?イエスはこれらのすべてを経験しました。

神は自然の中にご自身を啓示しておられますが、もっとも顕著に啓示されたのは、ひとり子なるイエス・キリストのうちにです。

神ご自身が、ある目的をもって、この敵意ある世界の一部分となって来られました。この箇所では、私たちは神の解決を垣間見ます。それは、子なるイエス・キリストが人となって来られ、私たちのために死なれ、成し遂げられたということです。この世はイエスにさえ敵対しました。

  1. 陰謀
    この世がイエスやクリスチャンに対して今日、敵意を持っていることに驚くべきではありません。イエスは「人の子は十字架につけられるために引き渡される(26:2)」ことを知っていました。祭司長、民の長老たちが、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談していたのです(4)。

    イエスは十二弟子に言いました。「あなたがたの一人が共謀者となって私を引き渡すでしょう(21,MSG訳)。」
  2. 批判
    ひとりの女がイエスの頭に高価な香油を注いだとき(7)、弟子たちでさえ彼女がイエスに対してとった行為を「無駄」と見なして憤慨し、責めました(8)。

    この一件には感慨無量な何かがあります。イエスが私たちに与えてくださった、その代価は私たちの想像をはるかに超えたものであり、イエスの死は迫っていました。高価な香油はふさわしい物でしたが、弟子たちは無駄だと不平をこぼしたのです。

    ほとんどの人はたとえば貧困救済のような社会の働きを理解することができます。しかし、彼らはあなたのイエスへ礼拝やそれにまつわる事柄への理解は難しいのです。彼らはそれを「むだ(9)」と思ってしまうのです。そして、あなたにとってもっと有益な時間とお金の使い方があると思ってしまうのです。しかし、イエスの評価は違いました。「わたしに対してりっぱなことをしてくれた(10)」とおっしゃるのです。彼女はイエスへの並々ならぬ愛を見せたのです。
  3. 裏切り
    人は金のためになんということをするのでしょうか!ユダはイエスを引き渡す時を銀貨30枚と引き換えに待っていました(15)。このことはイエスにとってどれほど痛みに満ちたものだったでしょうか。ユダはイエスが選んだ12人のうちの一人であり、それまで「友」として歩んだ弟子だったのです。イエスは知っていました。「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。(21)」

しかし、イエスはこのような拒絶よりも大きな愛をお持ちであり、彼らのために死にました。弟子たちと食事をともにする時も、イエスはご自身の死の意味を語りました。ぶどう酒を掲げて「これは、…罪を赦すために多くの人のために流されるものです(28)。」とおっしゃいました。敵対するこの世に対するイエスの答えは赦し贖うために十字架にかかることだったのです。

聖餐式にあずかるときはいつも、あなたは、イエスに向けられたこの世の敵意とこの世に向けられたイエスの愛の両方を思い出すのです。

祈り:主よ。敵に囲まれた状況で、どのように生きるのかという、あなたの尋常ではない例のゆえに感謝します。あなたの死によって赦しと贖いがもたらされたことを感謝します。


神が誰であるかを知る

出エジプト1:1-3:22

モーセは神に「私が行かねばならないとは、いったい私は何者なのでしょうか?(3:11)」と問いました。神は彼にご自身が何者なのかをお答えになりました。最後に、私たちのすべての疑問と問題への答えは、私たちが何者であるかを見出すことではなく神が誰であるのかにあるのです。

もし、あなたが、一世紀当時のユダヤ人に、今まで生きてきた人間の内、誰が最も偉大かと尋ねるなら、疑いなしに彼らはこう答えるでしょう。「それはモーセです。」モーセは彼らの歴史の中で特筆すべき人物です。モーセは奴隷状態から自由の生活に救い出しました。また律法を与えました。出エジプト記は新しい国の憲法を私たちに示し、それに責任をもって生きる人を私たちに紹介します。

ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こりました(1:8)。この「新しい王」はヨセフがエジプトを救ったという事実を無視しました。人はかつて神がなされた良いことをすぐに忘れてしまいます。エジプトは彼らを情け容赦なく使役し苦しめました(11-14)。彼らは神に助けを叫び求め「神は彼らの嘆きを聞かれ(2:24)」ました。

人は神の民を歴史から排除しようとします。しかし、それは無益です。「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった(1:12)」のです。今日でさえ、教会が迫害され苦しめられても、しばしば、増え広がるのです。

モーセはパロの孫養子でした。権力ある王子だったのです。お金、セックス、力はモーセにははいて捨てるほどありました。しかし、彼は敵に忍耐することを選びました。モーセは神の召しに従い、自分自身を神の民であると認識したのです。モーセのように養育された者には軽蔑すべき奴隷の国、イスラエルの民の一員と認識したのです。

新約のレンズを通して、モーセが選んだ人生を次のように見ることができます。「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。(ヘブル11:25-26)」

それは簡単な選択ではありません。しかしながら、ついにモーセは神の召しに従い、敵意ある世界に立ち向かったのです。

モーセの従順の中心にあったのは、神が誰であるのかという認識でした。神はこれらの節の中で様々な方法でご自身を啓示しておられます。そして、「わたしたはあなたとともにいる(出3:12)」と語られたのです。神の名は特に顕著な啓示です。名前はその人の人格や性質の宣言として理解されます。神はご自身を「わたしはある(14)」と啓示しました。神が完全に言い表すことができる唯一の方法は、ご自身に準拠することです。

この名前は、私たちの神の唯一の偉大さと永遠の性質を宣言しています。この名前は(短縮形で)、旧約聖書の残りの部分を通して知られる神の名となりました。ヘブル語の「ヤーウェ(Yahweh)」は通常「主」と訳されますが、モーセに堅固な信仰の土台を与えたのは、「わたしはある」というお方を知ったことです。

実際、神はモーセに彼が直面することになる敵を恐れるなと告げました。それはモーセとともに「わたしはある」というお方に任せることです。神はあなたの恐れ、心配、試練すべてに対して十分なお方です。あなたが「わたしはある」というお方があなたと共におられることを知る時、あなたはリラックスして、平和のうちにとどまることができるのです。

祈り:主よ。モーセの例にならうことができますように。そして、この敵意ある世界がいざなう「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取る」ことができますように。アーメン。

H.K

References

Francis Collins, The Language of God, (Simon & Schuster UK, 2007), p.67.