Tokyo Chapel

2018年6月1日

第152日

ワォ!

ジュダ・スミスはワシントン州シアトルから来た若く明るいペンテコステ派の牧師です。彼は卓越したコミュニケーション能力を持っている人物で、若者たちに対して特にそうです。誰かの話を聞いているとき、彼のお気に入りの表現は「ワォ!」です。彼にとってこの表現は尊敬、畏怖、そして愛情のこもった敬意です。

21世紀の西ヨーロッパに生活することは多くの祝福があります。しかしながら、かつてほどは尊敬、畏怖、そして敬意が価値あるものとみなされてはいない社会に生きています。


尊敬

箴言13:20-14:4

箴言の教える内容の底流には尊敬が流れています。私たちはこの箇所に3つの例を見ます。

  1. 神を敬う
    「まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。(14:2)」ここでいう恐れの意味は「尊敬する」が一番相応しいでしょう。神を大切なお方として敬うことはあらゆる関係の土台です。
  2. 知者を敬う
    「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。(13:20)」「賢い者の話はただ尊敬を集めるのみ。(14:3b)」今日の社会では年齢を重ねることによって得られる知恵がますます価値を失っています。知恵はしばしば(必ずしもいつもというわけではありませんが)長年生きた経験を通して与えられるものです。年配の方々には莫大な「未開封」の知恵があるのです。
  3. 家族を敬う
    「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(13:24)」むちは体罰を意味するのではありません。子を正しい道に向かわせることです。箴言が教えているのは家族を大切にするあり方です。子が親を敬い、親も子の尊厳を大切に扱う文化を家族の礎とすることです。

祈り:主よ。知恵を増し加えてください。良い家庭生活のモデルとならせてください。愛と尊敬を組み合わせることができますように。


尊厳

ヨハネ20:10-31

イエスが死からよみがえったことは事実です。イースターの朝、墓は本当に空っぽだったのです。イエスに従う者たちは再び生きておられるイエスに出会ったのです。復活が起こったのです。キリスト教の始まりを歴史的に最も適切に説明するならば、それは本当に事実であったということです。イエスは今日も生きておられます!

ヨハネは4つのイエスの復活の現れを記録しています。そしてその3つが今日の箇所です。これらの現れにおいて、私たちはいくつかの証拠だけを見るのではなく、いくつかの復活の結果を見ます。

  1. 尊厳と驚き
    マリアにイエスが現れたことの説明については、なんとなく直接的です。これはすべての古代の文書の中でも同じようなものは見当たりません。

    その当時、女性の証言は男性より低く見られていました。もし復活が弟子たちの創作であったなら、最初の復活の出来事にマグダラのマリアを持ってはこなかったでしょう。

    イエスはご自身の勝利を演出された大勝利に仕立てようとはしませんでした。イエスは、独りで優しい愛をもって園にたたずんでいたマリヤに、愛し、赦すがゆえに現れてくださったのです。イエスが女性に対して大いに尊敬していたことをこれは示しています。

    この行為によって、そしてこの地上におけるイエスの生き方を通して、イエスはこの世界における女性への態度に革命の基礎を築かれたのです。悲しいことに、二千年経って、私たちはまだそれを得てはいないのですが…。

    イエスはマリヤに彼女が何を探しているのかを尋ねたりしませんでした。イエスは「だれを捜しているのですか。(15)」と尋ねたのです。

    マリヤの応答は、尊厳と驚きに値します。彼女がそれがイエスだと分かったとき、彼女はアラム語で「ラボニ!(先生という意味)」と叫びました。(16)

    イエスはマリヤにすがりついてはいけないと説明しました(17)。彼女は新しい、さらに内面的な絆を復活のイエスと結ぶことを始めなければなりませんでした。イエスは彼女の内におり、彼女はイエスの内にいるのです。それは、聖霊の賜物によって成就されることになります。

    復活の事実の証拠を知るだけでは不十分です。私たちは復活のイエスとの個人的な出会いが必要なのです。

  2. 喜びと平安
    この世界は切に幸福と心の平安を探しています。喜びと平和の源となる極みはイエスとの関係です。

    マグダラのマリヤは弟子のもとに走って行き、「私は主にお目にかかりました」と告げました(18)。復活のイエスが弟子たちに現れたとき、喜びが溢れかえりました(20)。イエスは弟子たちに3度にわたり「平安があなたがたにあるように。(19、21、26)」と語りました。イエスの臨在から、内なる平和が流れるのです。

    イエスにある信仰は信じる者すべてに喜びと平和をもたらします。イエスはトマスに言いました。「祝福され、幸せであり、羨望の的となるのは、私を見ず、それでも信じる者たちです。(29,AMP訳)」

    この短期間の遭遇によって、イエスは怯えきっていたグループを変革しました。混乱した一人ひとりを愛と喜びと平和のコミュニティーへと導き入れたのです。

  3. 目的と力
    イエスは弟子たちに新しい目的感覚をもたらしました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。(21)」復活はこの世界に希望をもたらすのです。イエス・キリストは死からよみがえりました。墓の向こうに命が続いているのです。これはあなたのこの地上の人生に新しい全き意味と目的を与えるのです。あなたはこのメッセージを世界に告げ知らせるためにイエスによって送りだされたのです。

    最後に、イエスは彼らに力をも与えました。イエスは彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。(22-23)」と言われました。聖霊は赦しのための権威と力を付与するのです。

    イエスが死からよみがえった同じ力はあなたにも働いているのです。イエスはあなたに聖霊の力とみことばの力を、人間に神の赦しのメッセージを宣言するために授けられたのです。これは永遠のいのちをもたらすメッセージなのです。

  4. 尊敬と敬意
    トマスは皮肉屋でした。疑い深く懐疑的でした。トマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません(25)」と言った時のように、私も同じように反応したのではないかとと思います。

    イエスが「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(27)」とトマスに言った時、彼は本当に謙虚な気持ちになったはずです。

    イエスの傷はどんなときもイエスの謙遜と赦しの愛を啓示するものです。イエスはトマスをありのままに受け入れました。イエスは不満や批判ではなくトマスの試練を受け入れました。疑いを持つことに罪責感を感じてはなりません。

    トマスのように、あなたの疑問について正直になり、イエスにそれを持って行けばよいのです。イエスは彼の疑いに応えたとき、トマスは最高の尊敬と敬意と畏怖の思いをもって答えました。トマスは「私の主。私の神。(28)」と言いました。疑いを持っている段階から、トマスはすべての福音書の中で最も力強いイエスの神性を告白する言葉を告げたのです。トマスこそが、人としてのイエスを見て、「神」と呼んだ最初の人物です。トマスは要するに「ワォ!」といったのです。

    イエスは続いて彼に信仰は祝福を導くことを告げました(29)。実際、それはいのちを導きます。信仰といのちはヨハネの福音書の中で両輪となっています(31)。なぜなら、もしあなたがイエスを信じたなら、あなたはイエスのいのちを得るからです。これは質の高い、本物のいのち、豊かないのち(10:10)、永遠に続くいのち(3:16)なのです。

ヨハネが福音書を描いた理由のすべては「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため(21:31)」です。復活は私たちの死ぬ以前のいのちにとっても、それより後のいのちと同様に私たちの希望の土台なのです。

祈り:イエスよ。私の主。私の神。今日、私はあなたを畏怖と敬意をもって礼拝します。


敬意

2サムエル1:1-2:7

ダビデのサウルに対する態度は、あなたを嫌がらせる人に対して持つべき態度のモデルです。ダビデは仕返しをしようとは思いませんでした。ダビデは苦々しく思いませんでした。ダビデがサウルにとった態度は卓越したものでした。結局、神はかつてはサウルを大いに用いました。サウルがレールから脱線していったという事実はダビデの尊敬を消し去ることがありませんでした。

ダビデのサウルに対する態度は人並み外れたものです。ダビデの死を知らせに来たアマレク人に、ダビデは「主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。(1:14)」と言いました。アマレク人は真実をねじ曲げてダビデに取り入ろうとしたのです。サウルの王冠や腕輪を奪いダビデに献上しようとしたハゲタカのような男だったのです。いずれにしても、彼のしたことは、ダビデのサウルに対する敬意の前には何ら益にはならなかったのです。

ダビデは偉大な友ヨナタンの死を悼み、そしてサウルを悼みました(19-27)。悲しみは、私たちが愛する人々の死に対しての応答として自然で、必要で、健全なことです。

極めつけは、ダビデは神に敬意を払いました。ダビデは主に伺って言いました。「ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。」すると主は彼に、「上って行け」と仰せられました。ダビデが、「どこへ上るのでしょうか」と聞くと、主は、「ヘブロンへ」と仰せられました(2:1)。ダビデは常に神に尋ね求め、それが彼を王への道に導いていくことになったのです。

祈り:主よ。あなたが油注ぎリーダーシップを執る人々が私たちを支持しようと支持すまいと、それらすべての人々を愛し、尊敬することが出来るように助けてください。私が敬意、尊敬、畏怖の生活を送ることが出来ますように。アーメン。

H.K