Tokyo Chapel

2018年6月3日

第154日

弱さにさえ油注がれる

あなたは神に用いられるためには弱すぎる、または適切ではないと感じたことがありますか?

イギリス北部のカンブリアの一人の十代の少年が神に召されていると感じました。パトリックは教育を受けておらず、くちべたで、彼にはその働きはふさわしくないと感じる人々から彼の働きに対するあからさまな反対を受けました。彼は年老いてからもなお、「今日でも私は自分の無学を人前にさらすことほど赤面し恐れるものはありません。」と自認していました。

彼のこのようなすべての不利な事柄にもかかわらず、パトリックは神が彼を召し、彼を伝道者として油注いでくださったと確信し続けました。彼はこう記しています。「私たちは、世界の果てにさえ宛てられた救いのためのキリストの手紙です。学識のある手紙でなかったとしても何が問題でしょうか?通用するためには、すべての人が読むために平易であり、あなたのまさに心に、インクではなく生ける神の霊によって書かれていることが大事なのです!」

今日、彼が当時雄弁に語った言葉は長らく忘れ去られました。しかし、1500年前のアイルランドでの聖パトリックの働きは、今も世界中で覚えられています。弱さにもかかわらず、油注がれた者として。

ダビデがイエスラエルの王座に就いた時「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。(2サムエル3:39)」と言いました。あなたがイエスに信仰を置いた瞬間、神はあなたに聖霊の油注ぎを与えてくださいます。弱く不適切だとあなたが感じていたとしても、神はあなたを用いることがお出来になり、ダビデのように、特別な方法で、あなたの弱さにさえ油注いでくださるのです。


困難の時の油注ぎ

詩篇69:13-28

あなたは今問題の中を通っているところですか?ダビデは彼の人生の中で最も深い問題の時期にありました。ダビデはまるで「泥沼」、「暗黒の穴」、「死の穴」にいるように感じていました。ダビデは言います。「私は…突っ伏して、力失せてしまった」(15-20,MSG訳)

ダビデはイスラエルの油注がれた指導者でした(2サムエル5:3)。彼は祈りの人でした。詩篇の多くは彼によるものです。この詩篇から、私たちはダビデの正直で、あからさまな、親密な祈りを学ぶことが出来ます。

あなたが問題の中にあるとき、またはとても弱い立場に置かれたとき

  1. 神の偉大な愛を知る。
    ダビデは「あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。(69:13)」「あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。(16)」と祈りました。
  2. あなたの心をあるものを神に叫ぶ。
    神の前に正直であること。あなたが現実に感じていることを神に話ましょう。「私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。(14)」「私は苦しんでいます。早く私に答えてください。(17)」

祈り:主よ。問題の中にある時、あなたに祈ることができますことを感謝します。主よ。今日、私はあなたに助けを求めて叫びます。


聖霊の油注ぎ

使徒1:1-22

死からイエスをよみがえらせた同じ力が今あなたの中に生きています。福音書を書いた4人のうちルカだけが次世代について書き残しました。イエスの物語は信じる者たち(15)に、そして私たちに連なっていくのです。

「使徒の働き」は教会の歴史の第一巻と言えます。歴史はルカには重要でした。ルカは「初めからの目撃者」、「綿密に調べて」、「順序を立てて書いて」(ルカ1:1-3)などの言葉を用いました。そして、ここでも彼は「数多くの確かな証拠」(使徒1:3)に基づいて語るのです。イエスはまるで幽霊のようなふわふわした印象として現れたわけではないということをルカは強調します。「彼(イエス)の死後、彼は多くの異なる状況40日間彼らに生きている姿を現しました。…その時、彼らは一緒に会って食事を食べました。(2-4,MSG訳)」

これはルカのイエスの生涯についての第二巻なのです。彼は先に書いた福音書に関して「イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き(1)」と言及しています。そして、今、ルカは聖霊を通して続いてイエスが何をなされたかという物語を告げているのです。

イエスは聖霊を父が約束された賜物として(4)と語りました。イエスは数日のうちに、弟子たちが聖霊によってバプテスマを受け、町(エルサレム)から、国(ユダヤからサマリヤ)から、そして世界(地の果てまで)の証人となる力が与えられることを明らかにしました。(8)

続く残りの箇所を通して、私たちは聖霊に満たされた人々と世界を股にかけて福音を伝えた人々の一連の例を見るのです。素晴らしい知らせは、あなたもそのリストの中に含まれているということなのです!

  1. ダビデ
    聖霊は人々を通して語ります。ダビデもその一人です(16)。ペテロは詩篇の中でダビデを通して聖霊がどう話されたかという例を示します。そこには、ユダが引き換えに裏切ったことさえも予見されています。(15-20)
  2. イエス
    極め付けに、聖霊はイエスに油注ぎました。ルカは私たちに、「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた(2)」ことを私たちに告げています。

    特に、「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」(4-5)

  3. 使徒
    多くの面で彼らは弱い者でした。使徒は聖霊によって油注がれることで、その務めを果たすことができたのです。新約聖書の中では「使徒」という言葉が様々な違った用法で使われています。広い意味では、神によって遣わされた者です。それは過去においても、現代においても多くの人々に当てはまります(1コリント12:28-29)。狭い意味では、「使徒」と描写されるリーダーシップの賜物を受けているであろう人々のことです(マルコ3:14)。

    ここでは最も狭い意味でその言葉が用いられています。彼らはイエスによって特別に任じられた人々のグループです。聖霊はユニークな方法で彼らを通して語られました。イエスが選び、聖霊によって特別な導きを与えた使徒たちがいたのです。(使徒1:2)

    ユダはもともとこのグループの一人でした。今、彼らはユダの代務者を探していました。ペテロはその資格を定めました。「主イエスが私たちといっしょに生活された間、…いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」(21-22)

  4. あなた
    イエスは言いました。「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(5,8)

    ペンテコステの日に、これは成就しました。そして使徒ペテロはこの約束が「あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。(2:39)」と明らかにしました。これにはあなたも含まれているのです!

    聖霊は来て、あなたに油注ぎ、力を与えます。それは、あなたの人生のすべての面において、(ただ「霊的」な部分だけではなく)あなたを助け、導くためです。あなたはすべてにおいて神に属しています。そして、神はあなたの生活のすべてに関わりを持ちたいと願っておられるのです。あなたの内に住んでおられる聖霊を通して神はあなたにあなたのすべての思考、態度、言葉、行動においてイエスのようになって欲しいと願っておられます。あなたはこの世界に対してイエスそのものなのです。

祈り:あなたの聖霊が今私の内に住んでおられることを感謝します。私が弱くとも、私があなたの証人として油注がれたことを感謝します。どうかわたしをあなたの聖霊の代弁者として用いてください。


リーダーへの油注ぎ

2サムエル 3:22-5:5

リーダーになるために、私たちは完全になる必要はありません。ダビデは「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。(3:39)」と言いました。聖書の中にあるダビデの生涯はダビデの油注ぎ弱さについてよく教えてくれます。ダビデは自分が完全には程遠いことを知っていました。それとともに神が自分を用いることが出来ることも知っていたのです。彼は自分の弱さにとどまることをせず、神に頼って状況を転じたのです(39)。弱さにもかかわらず、神は人並み外れた方法で彼を用いたのです。

この箇所はまた、神がダビデを生涯を通じて用いたことを私たちに思い起こさせます。これまで、すでに私たちは神がいかに彼が王になる前の何年もの間、ダビデをリーダーとして用いてきたかを見てきました。彼が王になった時でも、ダビデは比較的若かったのです。その後も、ダビデは神によって用い続けられ、長期に渡ってよく治めたのです。「ダビデは三十歳で王となり、四十年間、王であった。」(5:4)

神はダビデについて言いました。「あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる。(2)」そして長老たちがダビデに油を注いで彼を王としたのです(3)。ダビデは誠意を尽くすリーダーとなりました。「彼は、正しい心で彼らを牧し英知の手で彼らを導いた。(詩篇78:72)」のです。ダビデは今日私たちが切に必要とするリーダーの型です。それは教会においても、社会においてもそうです。性別にかかわらず、その人格と能力において、すなわち、誠実な心と熟達した手を必要としているのです。

祈り:主よ。ダビデ、イエス、そして弟子たちの内に住まわれた同じ聖霊が、今、私に油注がれ、住んでおられることを感謝します。私の弱さにまで油注がれていることを感謝します。アーメン。
H.K