Tokyo Chapel

2019年3月26日

第85日

満ち満ちた祝福

マザー・テレサは「Hello! 」誌のインタビューを受けた時に、こう尋ねられました。「施しをするのは裕福な人だけですか?」

彼女は答えました。「いいえ。極貧の人でさえ施します。ある日、とても貧しい乞食が私のもとに来て言いました。『みんなあなたに施しをするだろう。俺もしたいんだ。ここに20パイサある。(これは日本円では約32銭)』その時、自問自答しました。さてどうしたものか?もし、それを受け取ったら、彼は何も食べれなくなるし、しかし受け取らなかった彼をとても傷つけることになる。それで、私は受け取りました。彼はとても幸せだったの。だって彼はコルコタのマザー・テレサに貧しい人を助けるために施したんだもの。与えることは心をきよめ、神に近寄せることなのです。あなたは多くの見返りを受けることになります。」

気前よさは持てる人々の性格特性ではありません。C.S.ルイスがキリスト教を「与えること」と定義しました。そこに、私たちの信仰そのものがなんであるかという核心が正しく語られています。神はご自身の気前よさをイエスを通して注がれました(ヨハネ3:16)。そして、信仰によって応答し、他者に気前よくあることに召されています。今日の箇所はそれぞれ、祝福と呪いについて記されています。満ち満ちた祝福の鍵は気前よさです。「正しい者は、情け深くて人に施す。(詩篇37:21)」


いつも惜しみなく

詩篇37:21-31

この世界には「与える人」と「受ける人」がいます。ダビデによれば、これが正しい人と悪者の違いです。「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。主に祝福された者は地を受け継ごう。(37:21-22a)」

寛大であるということは、状況には依存しません。それは生き方です。寛大とは、いつも寛大であることです。「その人はいつも情け深く人に貸す。(26)」主はその人の道を喜ばれ(23)、その人は倒れてもまっさかさまに倒されない(24)そしてその子孫は祝福を得る(26)のです。

今日の世界は、「子孫が食べ物を請う(25)」現実に直面しています。この詩篇の大きな絵は、神の民全体のビジョンです。それは相互に寛大であることを実践することによって支えられるのです。貧しい者に気前よく施し、神に従う人々は、物事が悪くなっていくときに彼らの必要が見出されるのです。経済的にも他の面でも、残りの共同体が彼らの必要に対して支援してくれるのです。

今日、私たちは、私たちの回りにも遥か彼方においても大きな必要に気付いています。神のご自身の民に対する御心は寛大さによって支えられるのです(21)。惜しみなく与える機会を生かしなさい。そして神の満ち満ちた祝福を経験しましょう。

祈り:主よ。気前良く与える者にあなたが驚くべき約束をして下さったことに感謝します。自分のレベルの施しに満足することがありませんように。さらに惜しむことなく与える者となしてください。


すべての人に惜しみなく

ルカ6:12-36

イエスは一晩を費やして祈られました。イエスは祈りの中で弟子たちを選ぶ洞察が与えられたのでしょう。また病人を癒す力に満たされました。「群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。(19)」

イエスは自分自身のために貯め込む人(つまり「奪う者」)と惜しみなく与える精神を持つ人(「与える人」)を対照的に比較しました。

うわべだけの笑いと良い評判を求めて「富む者」「食べ飽きる者」になろうとする生き方にはむなしさがあります。結局のところ不満足と「飢え(25)」だけが残るのです。

祝福の道はそれとはまったく違います。それは気前の良い道です。そこには貧しさ、空腹、涙、憎まれ阻害されること、侮辱や拒絶があるかもしれません(20-22)。しかし、それは満足に至る道であり喜びに至る道なのです。「やがてあなたがたは満ち足りるから。…やがてあなたがたは笑うから。(21)」

イエスは私たちを敵にさえ寛大であるようにと招いておられます。「あなたの敵を愛しなさい。…もし誰かがあなたのシャツをつかむなら、あなたの最上のコートをラッピングしてプレゼントしなさい。…もう、しっぺ返しするようなことをやめなさい。寛大に生きるのです。」(27-29,MSG訳)

すべての人々に寛大でありなさい。「すべて求める者には与えなさい。(30)」「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。(35)」これは気前良い態度です。

いつも、イエスはただ神の気前よさに寄り添って歩むように召しておられます。「見返りを求めないで助け、与えなさい。わたしは約束しますが、あなたは決して後悔することはありません。そのように生きなさい。…神が創造されたアイデンティティー、私たちの父が私たちに与えてくれた命を惜しみなく惜しみなく、私たちが最低だと思えるときでさえ。私たちの父は優しいのです。ですからあなたも優しくあるべきです。(35-36,MSG訳)」

敵に対して寛大であるということは、ただ彼らを赦すだけではなく彼らを祝福することです。あなたは人の悪口を言ってはなりません。たとえ、その人が言われても仕方がないとあなたが思ってもです。あなたは彼らのために祈りなさい。祝福しなさい。そして彼らの良いことを言いなさい。ネルソン・マンデラは「怒りを鬱積させることは毒を飲んでおきながら それが敵を殺してくれると期待するようなものだ」と言いました。「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(36)

祈り:父よ。敵を愛することができるように助けてください。私を憎む者に対して良いことができますように。私を呪う者を祝福することができますように。私を侮辱する者のために祈ることができますように。あわれみ深くあらせてください。あなたがそうであるように。


寛大でありなさい―神がそうであるように

民数記21:4-22:20

この箇所でも再び、私たちは祝福と呪いというテーマを見ることになります(22:6)。そして「奪うこと」と「与えること」の対照をみるのです。私たちは神がご自身の民にやはり寛大であることを見ます。彼らの生活は容易くはありませんでした。もし、あなたがある程度クリスチャンとして歩んできたなら、このような体験を多分してきたでしょう。彼らは「荒野」や「野にある谷」や「荒地」を進みました(21:18-20)。これは、私たちの日々の歩みの試練のようです。渇ききった、不毛のように思える徒労の積み重ねと感じる日はないでしょうか。

しかし、神は水を与えました(16)。イエスは言いました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:13-14)」

それと対照的にシホンは与える人ではありませんでした。「しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。(民数記21:23)」

バラムもまた奪うものでした。彼は「占いのための代金を受け取った(22:7,NIV訳)」のです。彼は新約聖書の中でバラムは「不正の利を愛した(2ペテロ2:15,NIV訳)」と非難されています。バラムの間違いは「利益(ユダ1:11)」に惑わされたことです。

イスラエル人は神に不平をつぶやき、モーセにつぶやきました。(民数21:4-5)神が彼らのためにすべてのことをしてくださったにもかかわらず、彼らは満足せず、神に対して反逆したのです。彼らの反逆は野放し状態にできませんでした。そこで、神は人々の上に最初のうちから懲らしめを与えました(6)。神の究極の計画はご自身の民を贖い祝福し、神との関係を修復することです。

彼らは自分の罪を告白しました。「すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。(8-9)」

荒野で起こったこの出来事について、イエスはこう語っています。「モーセが荒野で蛇を上げたように人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14-15)」イエスは、もちろん、十字架でのご自身の死について言及しているのです(12:32-33)。

神は、ご自身の寛大さをもって、あなたが赦されていることを知ることができるように、いけにえを備えてくださいました。モーセが蛇を挙げた日、信仰を持って見上げた人々は肉体のいのちがもたらされました。十字架に挙げられたキリストは、信仰をもって見上げ、イエスを信じる人々は誰でも永遠のいのいをもたらします。あなたは赦しを努力で手に入れることはできません。永遠のいのちは無料のプレゼントです。でも、そのプレゼントをあなたは受け取ることを選ばなければなりません。信仰とは、神の無料のプレゼントを受け取ることを意思する行動なのです。(3:15)

チャールズ・H・スポルジョンは19世紀の最も偉大で影響力のあった説教家です。彼は、彼が十代であった頃、自分を回心に導いた説教がこうであったと述懐しています。「イエス・キリストを見よ。見よ!見よ!見よ!何もしなくていい、ただ見て生きよ!」

「青銅の蛇が高く上げられたとき、人々はそれを見さえすれば癒されたが、私も同じであった。…『見よ!』との言葉は何と甘美に響いたことであろう。おゝ、私は目もかすめとばかりに仰ぎ見た。…私は、その場で立ち上がり、キリストの尊い血と、キリストだけを仰ぎ見る単純な信仰とを、ありったけの熱情をこめて高らかにほめ歌いたい思いであった。」

これが神の寛大さです。寛大になるというあなたの召しは神のあなたに対する寛大さに由来しています。使徒パウロが次のように書いたとおりです。「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(2コリ9:15)」

祈り:神よ。あなたに立ち返る道を備えてくださった寛大さを感謝します。日々、赦しを与えてくださったあなたを見上げます。あなたの命の水を飲み続けます。どうぞ、私を支えてください。ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。アーメン。

H.K

References

‘Interview with Mother Teresa’, Hello, Issue 324, 1 October 1994

Lewis A. Drummond, Spurgeon: Prince of Preachers, Kregal Publications, 1992, p.23