Tokyo Chapel

2018年10月16日

第289日

私の人生で一番大きな決断

1974年2月の始め、私は私の人生で一番大きな決断に迫られました。私は新約聖書を読み通し、イエスが現実に神の子であると確信したのです。しかし、私は自分の自由が損なわれるのではないかと恐れてクリスチャンにはなりたくなかったのです。信仰が愛と自由と結び合わされたのは最後のことでした。私は信仰と自由が失われることを関連付けていました。私が楽しいと感じたりエンジョイすることを神はすべてやめさせたいのだと、私は思い込んでいました。

実際は、この40年間以上にわたって、本当の信仰は自由と愛に導くものだということを発見してきました。愛、信仰、自由は引き離すことが出来ないほど密接に絡み合っているのです。


神の言葉への信頼

詩篇119:41-48

「主よ。あなたの(尽きることのない愛,NIV訳)恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。(41a)」詩篇119篇のこの箇所を始めるにあたって作者は叫び求めています。「あなたの愛をもって、神よ、私の人生を形作ってください(41a,MSG訳)」それは愛への応答で締めくくられています。「私はあなたの戒めを大切にします。あぁ。私はそれらをどれだけ愛することか!あなたの助言がちりばめられた風味がする。(47b-48,MSG訳)」

「こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。(42)」と、二つのものに挟まれて、彼は、宣言する神の言葉に信仰を置いて語ります。信頼と信仰はほとんど同義語です。

信仰の人は、彼らがいつもそうであったように、今日も嘲られています。しかし、どのようなことが起ころうとも、神の言葉に信頼を保ちなさい。この信頼はあなたが自分の確信を嘲笑されたとしても有効です。

神にご自身の尽きることのない愛がもっともっとあなたに啓示されるように求めましょう(41)。愛のうちに(47-48)、信頼、希望、従順のうちに(42-44)応答しましょう。聖書を通して神の道を追い求めましょう。そしてあなたは本当の自由を見出し、こういうことが出来るのです。「こんなにも広々とした空間を、あなたの真理とあなたの知恵を見つけようとして縦横無尽に走り回ることができる。(45,MSG訳)」

祈り:主よ。今日、私はあなたの尽きることのない愛を経験し、私が出会い、私と語るすべての人々に愛をもって応答することができるようにしてください。私があなたに、そしてあなたの言葉に信頼するとき、私が自由の内を歩むことができますように。


あなたの誠実な信仰を握る

1テモテ1:1-20

使徒パウロはテモテを信仰に導く責任がありました。そのような訳で、パウロはテモテの霊的な父だったのです。良い父親がそうであるように、パウロはテモテに関心を寄せ、彼のために最善を尽くそうとしました。パウロはこの手紙にテモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ(2)」と呼んでいます。

テモテもまた指導者、牧師、教師になりました。パウロはテモテにリーダーシップと、教会の中でどのように問題を取り扱えばよいかについて伝授しています。これらは今日の私たち皆にとっても適切なことです。

神の働きは信仰に寄ります(4)。「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来るを、目標としています。(5)」愛と信仰はいつも一緒に働くべきです。パウロの様々な罪のリストはどんなに犠牲を払ってでも避けたい事柄です(8-11)。その中に「人を誘拐する者(奴隷貿易する者,MSG訳)」が入っています。奴隷は自由の反対であり、人身売買することは忌まわしいことです。

パウロは続けて、信仰と愛と自由とを絡み合わせて、自分自身の証しを分かちます。彼は「以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。(13)」彼は自分自身を「罪人のかしら(16)」と呼んでいます。

私は、使徒パウロが自分自身をどのように表現しているかがどのように移り変わっているかを見ると興味深いことに気づきました。

  • 最も始めの頃は、パウロは自分のことを「使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者」(1コリント15:9)と呼びました。
  • その後、彼は「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と呼びます。
  • そして今、彼は自分のことを「罪人のかしら(1テモテ1:16)」と呼んでいます。

パウロと神との関係が進めば進むほど、そしてキリストの光のもとに近づけば近づくほど、彼は自分の事をより価値のない者と見ているようです。私は、クリスチャン生活を続けていくとしばしばそれが真実であると思えます。私たちの罪の自覚が増し加わることと神の赦しを自分に適用する事、愛とあわれみは成長するのです。

本当の認罪意識は、悔い改めと赦しに従ってもたらされるものであって、不健康な感情とは違うものです。かつてP.T.フォーサイスは言いました。「私たちの教会には、最高に素晴らしい人、最高に親切な人で満ちています。しかし、その人たちは罪責の絶望、息が止まるような赦しのすばらしさを知りません。」

イエス・キリストは私たちを自由にしてくださいました。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(15)」救いは自由を意味します。それは恵みがもたらすものです。あなたの過去にもがくのをやめましょう。むしろあなたの今ある自由と恵みを祝い、それがもたらすものを楽しみましょう。「恵みは信仰と愛に混ぜ合わせて私の上に注がれ、私の内に入ってきました。それはすべてイエスによることです(14,MSG訳)」

クリスチャンの愛とは、あなたへの神の愛が流れ出ることです。それは聖霊によってあなたの心に注がれた愛です(ローマ5:5)。しかし、それは感情をはるかに超えたものです。クリスチャンの愛は「あなたの感情の犠牲者」ではなく、「あなたの意思のしもべ」です。議論の余地があるかもしれませんが、愛は10%の感情、20%の理解、70%の意思です。

パウロはイエス・キリストを信じて永遠の命を受け取ろうとしている人々のための手本となりました(1テモテ1:16)。「彼に無言の信頼を置く」ことは信仰のなせる業です。

この最初の業は信仰の生活を始めるにあたって必要なことです。それゆえにパウロはテモテに勧めます。「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。(18-19)」パウロは他の人々が「信仰の破船(19)」に遭ったことを警告しています。この助言は「パウロを追求し」そして「テモテを訓練する」私たち皆にとって心に留めるべき大切なことです。

祈り:主よ。パウロが「罪びとのかしら」であったのに、愛の人生を生きるために彼を自由にしてくださったことのゆえに感謝します。あなたはまた、それをわたしにもしてくださり、イエスに信仰を置くすべての人々にすることがお出来になることを感謝します。


あなたの信仰をイエスに置く

エレミヤ32:26-34:22

「あなたが最も愛するものは何であれ、スポーツ、娯楽、仕事、あるいは神、それがあなたの神です!」とビリー・グラハムは書きました。常にこの世の誘惑は、私たちの心を分けるものです。しかし、神は心が一つになっている人々を探しておられます。神ご自身は「真実をもって、心を尽くし思いを尽くして(32:41)」私たちに良いことを為すことを喜んでおられるのです。果たして私たちは「心を尽くし思いを尽くして」主に仕えることによって主の愛に戻ることができるでしょうか…心と行動を一致させて。

神の愛は永遠に尽きることがありません(33:11)。神はあなたを愛していま。神はあなたがご自身との親しい関係に歩みよることを切望しておられます。神はご自身の民が「わたしに背を向けて、顔も見ようともしなかった(32:33,MSG訳)」ことにひどく失望しました。神はかれらが「彼らに一つの心と一つの道(39)」をもってご自身との関係に戻ろうとする時を切望したのです。

あなたへの愛のをもって、神はあなたと交流を図ろうと願っておられます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(33:3)」神はあなたに健康と癒しをもたらしたいと願っておられます(6a)。神はあなたに平和と安全を楽しんでほしいのです(6b)。神はあなたが犯したすべての罪からあなたをきよめ、完全にあなたを赦したいと願っておられます(8)。

神はあなたに囚われからの解放を楽しんでほしいのです(7)。神はあなたに喜びと嬉しさをもたらしたいのです(11)。このすべては神のための名声、喜び、賛美、名誉という結果をもたらすでしょう(9)。それは感謝へと導くでしょう。「万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。(11)」

神はご自身の民に自由であってほしいのです。エレミヤは囚われの身でした(1)。それはご自身の民への神の計画と反対でした。神は捕囚の束縛からご自身の民を解き放ち彼らを行かせたかったのです。新約聖書の用語でこの回復を言うなら、この捕囚からの贖いは究極的にはイエスにある信仰を通して成就します。そして罪の束縛から神は自由をもたらすのです。

神は物理的な束縛に関心を持ち続けます。なぜなら、隷属させることは恐ろしい悪だからです。旧約聖書の中に神が奴隷制度を承認していないという幾つかのヒントを私たちは見ます。神はエレミヤに「奴隷の解放を宣言(34:8)」すると言いました。当初は、人々は自分たちの奴隷を解放することに応じていましたが、後になって、彼らは心を変えて、彼らを連れ戻しました(10-11)。神は強く彼らの行動に不満を示しました。

主は言います。「あなたがたは…自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに…剣と疫病とききんの解放を宣言する。(17)」この「解放」の意味は本当の解放ではありません。それは今日の世界で経験することです。罪への自由という「解放」は破滅へと導きます。神があなたの人生にもたらしたい自由は信仰と愛の生活へと導きます。これが本当の自由です。

祈り:主よ。あなたが私の人生にもたらす自由のゆえに感謝します。今日、私はあなたに顔を向けます。私はあなたを呼び求め、あなたの声を聴きたいのです。大いなる調べるのことの出来ない事柄を理解するために。心と行動を一つにして今日あなたに仕えさせてください。あなたのすべての善とあなたの愛のゆえに感謝をささげさせてください。とこしえまで。アーメン。

H.K

References

P. T. Forsyth, cited in David Pawson, A Commentary on Acts, (Anchor Recordings Lid, 2014) p.47.

Stephen Neill, The Supremacy of Jesus, (Word Publishing, 1984) pg. 47.