Tokyo Chapel

2018年9月4日

第247日

どのようにしてあなたは神に役立つ者になれるのか?

私とピッパは病院から丁度家に戻って来たところでした。その日朝早く、私の母は仕事中で机に就いていた時に心臓発作で亡くなったのです。彼女は69歳でした。

私はショックを受け、混乱状態にありました。彼は新鮮な空気を吸おうと外に出ようとしました。その時、彼は一人の人に会いたいと思いました。それは牧師であり親友でもあるサンディー・ミラーでした。

その瞬間、彼は目を上げ、サンディーの車が近づいて来るのを見ました。彼は訃報を聞きつけすぐに車に乗って彼らのところに駆けつけてくれたのです。神はサンディーの到着を用いて、その日、私たちの大いなる慰めと励ましをもたらしたのです。

今日の新約聖書の箇所の中で、パウロが混乱状態で、疲れ果て、圧迫を受け、苦痛の中にあり、恐れおののいていた時、神はテトスの到着を用いてパウロに慰めと励ましをもたらしたのを読みます。「しかし、慰めと励ましを与え、気分を新たにさせ、意気消沈し、沈んだ者を元気づける神は、テトスの到着によって私たちを慰めと励ましを与え、気分を新たにし、元気づけます。(2コリント7:6,AMP訳)

テトスの到着は励ましよりはるかに優るものでした。なぜなら、テトスはコリントの人々がどんなにか神のために用いられているかという知らせを運んできたからです。その結果、パウロは「ますます喜びにあふれました。(7)」

気が滅入るような出来事が起こったとしても、神はいつも「尊いことに使われる器」として「主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合う」人々を起こしてくださるように思えます(2テモテ2:21)。あなたや私はどのようにして神にとって有益な者になることができるのでしょうか?


導くことができるように準備する

詩篇105:23-36

あなたは時々あなたが霊的な不毛地帯にいるように感じることがありますか?あなたの職場、あなたの町、あなたの国全体でさえ…。

詩篇の作者は神の民にとって最も荒涼とした時代の一つを思い出します。神は彼らを祝福しました。彼らは「とても実り多い(24,NIV訳)」者となりました。しかし、彼らの成功は憎まれる原因となったのです(25a)。彼らの敵は彼らに対して陰謀を企てました(25b)。「彼らは神のしもべたちを虐待し、欺いた(25,MSG訳)。」

神の民は圧迫され奴隷とされました。彼らは「霊的な不毛地帯(27,MSG訳)」にいたのです。しかし、神は「そのしもべモーセと、主が選んだアロンを遣わされた(26)。」神はモーセとアロンを選びました。彼らは導くことへの召しに(正直なところ、モーセの場合、かなりしぶしぶと)応えました。彼らは奇跡的なしるしと不思議を行いました。そして神の民を解放したのです。「彼らは霊的な不毛地帯で驚くべきことをしました。(27,MSG訳)」

祈り:主よ。私たちの国を、そして教会の状態を見るとき、モーセやアロンのようにご自身の民を霊的不毛地帯から引き出していく人々が起こされるように叫び求めます。


問題の時に神に立ち返る

2コリント7:2-16

時々、私たちの生活の中で、私たちは苦痛と悲嘆の壁にぶち当たります。そして私たちは打ちのめされます。死別、解雇、病気、失意、その他、私たちのコントロールが及ばない環境などによってそれは引き起こされることがあります。コリントの人々の場合のように、私たち自身の罪や過ちによって引き起こされることすらあります。

大切なことはあなたがどのように応じるかです。ある人にとって、そのような時が神から彼らを引き離すような時があります。他の人にとっては、コリントの人々のように、それが彼らを変えることもあります。彼らの悲嘆は彼らを神に向かわしめました。それは彼らを、神が力強く用いる人々へと作り変えたのです。

パウロは神が大いに用いた人物でした。しかし、それは平たんな、ストレスのない人生ではありませんでした。パウロは問題が頭の中でぐるぐる回ってはいませんでした。パウロは記します「私たちは魂を傷つけたことはありません。人から搾取したり、誰をも利用したりしませんでした。(2,MSG訳)それにもかかわらず、パウロは「どんな苦しみ(4)」を受けたかについて続けて語ります。彼は「教会の中での争い」や「私たちの心の中にある恐れ」について記しています(5,MSG訳)。

パウロはコリントの人々を愛していました(3-4a)。パウロの彼らへの愛は必ずしも報いられたわけではありませんでしたが、受け入れられた時には大きな喜びを彼にもたらしました。パウロがテトスから彼らがパウロを切望していること、そして彼らの深い悲しみとパウロに対する燃えるような関心について聞いた時、パウロは「私はますます喜びにあふれました(7)。」

パウロは手紙によって彼らに直面する勇気を得ました。このように直面することがしばしばそうであるように、始めはそれは彼らに辛い思いをさせました(8)。最初、パウロはその手紙を書いたことを後悔しましたが、感謝なことにコリントの人々は正しい反応を示してくれたのです。彼らは手紙によって神により近くに引き寄せられたのです。私たちは皆、時にしくじるものです。神を敬った王であるダビデも大きな罪を犯しました(2サムエル11-12章)。偉大な使徒、ペテロでさえ失敗しました。しかしながら、大切なことはあなたがどのように応答するかということです。

「悲嘆はあなたを神から遠ざけるのではなく、あなたを神に取り運ばせます…。私たちはそのような痛みを後悔しません。しかし、悲嘆によって神から遠ざかってしまう人々は…後悔して死に際を迎えることになります。(2コリント7:9-10,MSG訳)

旧約聖書のサウルやイスカリオテのユダのようなタイプに属するような間違った悲しみは、悔い改めには導かれず、むしろ死に向かわせました。「世の悲しみは死をもたらします。(10c)」ダビデ王(詩篇51)や使徒ペテロのように、コリントの人々は正しく応答したのです。

「そして今、わざわざこの悲嘆があなたがたを神の近くへと突き動かしたということはなんと素晴らしいことはありませんか?あなたがたはさらに生き生きとし、さらに心にかけられ、さらに敏感に、さらに敬虔に、さらに人間らしく、さらに情熱的に、さらに責任をもつことができるようになったのです。(11,MSG訳)」

テトスは彼らが嘆き悲しんだ応答の結果として彼らの生活が造り変えられたことを証言しました。彼はそれについてはち切れんばかりに喜びました。彼はコリントの人々が彼のためにしたすべてのことによって、自分自身も再び生き生きとされ、新鮮な気持ちになりました。

テトスは彼らのことをパウロに話さずにはおれなかったのです。「あなたがたのてきぱきとした従順、あなたがたのもてなしの品位と感受性の話を何度も何度も読み返しています。彼はそのことによって心底、感心しました。そして私も喜ばずにはおれませんでした。私は大きな確信を得て、あなたがたを誇りと思います。(15-16,MSG訳)」

祈り:主よ。私が問題の渦中に置かれ、あなたに立ち返る時、あなたは私を造り変えて、さらに生き生きとし、さらに心にかけられ、さらに敏感に、さらに敬虔に、さらに人間らしく、さらに情熱的に、さらに責任をもつことができるようしてくださり、あなたのためにもっと用いられる者とされることを感謝します。


神の召しに応え、「私が行きます」と言う

イザヤ5:8-8:10

私たちが今日の世界をぐるっと見回すと、私たちはシリヤ、イラク、ウクライナ、ジンバブエ、北朝鮮、南スーダンなどを含む多くの国々が非常事態にあることを知ります。この箇所の記述は国に不正が蔓延していることが描かれています。

指導者たちは「すべての地を牛耳り、…前の所有者を立ち退かせ…、国を強奪し、すべての人々を住む家も土地もない者にしてしまう…これらの豪奢な地所はやがて荒れ果てる。一万坪ほどのぶどう畑から1リットルにも満たないぶどう酒も産出できないだろう。(5:8-10,MSG訳)」

その間にも、指導者たちは「彼らの晩餐会がうまく用意されたか」と確かめる。楽団はどうか、「大量のぶどう酒」はどうかと。民衆が「渇いて死んでいる」その間に。彼らの指導者は悪を善と呼び、善を悪と呼んでいる。(8-22,MSG訳)」

しかし、イザヤがこのように社会のことを言わなければならなかった権力とは何でしょうか?イスラエルの歴史の中で暗黒の時代に神はイザヤを召しました。イザヤはBC740年頃に見た幻について記述しています。それはウジヤ王が死んだ(6:1)頃です。

  1. 彼は神と出会った
    イザヤは神の臨在の圧倒されるような感覚 ― 神の主権、きよさ、栄光と力を記述しています(1-4)。鍵となる語は「私は…主を見た(1)」です。彼の召しはただ素晴らしい体験というのではないということが鍵です。それは人生を変える出会いです。
  2. 彼はきよめられた
    イザヤは神のきよさを見て、こう言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(5)」あなたが光に近寄れば寄るほど、あなたの罪は際立って示されます。しかし、神は主導してきよめの方法を提供します。「見よ。この炭火があなたの唇に触れた。あなたの罪責は去り、あなたの罪は拭い去られた。(7,MSG訳)」

    それは、あなたの罪責が取り除けられ、あなたの罪が贖われるキリストの十字架を通してです。あなたは罪責を背負い込む必要はありません。むしろ、あなたは、あなたへの神の愛の感覚に満たされることが出来るのです。

  3. 彼は神に「私が行きます」と言いました
    イザヤは神の召しに応えました。神は彼に尋ねました。― わたしはあなたのこのすべてを成した。今あなたはわたしのために行ってくれるか?あなたの前にはあなたの全生涯がある。あなたはそれをどうするのか?神は言いました。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう(8a)」イザヤは応えました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。(8b)」イザヤは深刻な必要があることを知りました。彼に言い訳はできませんでした。間髪を入れず彼は神に答えました。「私が行きます。(8,MSG訳)」神は彼を大いに用いたのです

これはイザヤが預言したお方に比べたら何でもありません。彼は言いました。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(7:14)」これは歴史においては「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(8:1)」の誕生において成就しました。しかしながら、究極的なこの預言の成就はイエス・キリストにおいてです。イエスこそインマヌエル、神ともにいますお方です。(8,10、マタイ1:23参照)

祈り:主よ。あなたが「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。(イザヤ6:7)」とおっしゃってくださることを感謝します。今日、私は「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」とお応えしたいのです。アーメン。

H.K