Tokyo Chapel

2018年6月4日

第155日

天の響き

あなたは聖書がとてもやかましい書であることにお気づきですか?「知恵は叫ばないのか?(箴言8:1,KJV訳)」、大声で賛美することが推奨され(詩篇66:8)、シンバルが打ち鳴らされます(詩篇150)。主はときの声をあげて叫び(イザヤ42:13)、その音は大水のとどろきのようで(エゼキエル43:2)、イエスは大きな叫び声をもって祈り(ヘブル5:7)、被造物さえうめいています(ローマ8:22)。

ペンテコステの日に、彼らは「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った(使徒2:2)」のを聞きました。今日の箇所に、私たちはその他の響きと天から響きを聞くのです。


礼拝の響き

詩篇69:29-36

聖書は現実的な書物です。私たちには「悩み、痛んでいます(29)」と言わざるを得ない時があります。ダビデは現実問題を無視しませんでした。でも置かれた状況によらず神を礼拝することを選びました。深く沈むような時でも、あなたは神を礼拝されるべきお方として知ることが出来ます。

この詩篇の締めくくりは賛美の声に包まれます。「私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。…と地は、主をほめたたえよ。(30,34)」賛美は地だけではなく天でもささげられるのです。あなたが礼拝するとき、あなたは天の響きにともに連なっているのです。ここで、私たちは礼拝の3つの面を見ます。

  1. .意思をもってささげる礼拝
    ダビデは「ほめたたえ、…あがめます(30)」と自分の意思を働かせました。あなたは神を礼拝する気分でないときもあるでしょう。しかし、あなたは決断することができます。礼拝は意思に基づきます。
  2. 神を喜ばせる礼拝
    「それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるでしょう。(31)」
  3. 人々に及ぶ礼拝
    「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。(32)」アルファでも礼拝に心動かされる人々がしばしばいます。それは「心を生かす」のです。

祈り:主よ。私の環境がどうであれ、あなたの御名を賛美の歌をもってほめたたえることが出来ますように。あなたに感謝をもって栄光を帰することができますように。


聖霊の響き

使徒1:23-2:21

これはあなたのため、私のためのものです。ペンテコステの日の体験は単に歴史的出来事ではありません。それはあなたにとって今日現実のものとなりえるのです。(2:29)ヨエルが「わたしの霊をすべての人に注ぐ。」男も女も、老いも若きも、裕福な者も貧しい者も(17-21)と預言したようにです。間違いなくそこにはあなたも私も含まれているのです。

  1. 経験を求める
    ペンテコステの日の聖霊の体験は3つのことを含んでいます。第一に、神からの力を含みます。彼らは大きな風の音を聞きました。これは物理的に風が吹いたというのではありません。それは「激しい風が吹いて来る『ような』響き(2)」でした。あたかも台風に似たような響きだったのでしょう。これは目に見えない神の偉大な力です。それは内面の目に見える形でのしるしとして外面てきに起こったことであり、それは霊的に現実的なことであったのです。ヘブル語の「ルアハ(Ruach)」は風、息、霊の意味を持っています。「ルアハ」は旧約聖書で聖霊、すなわち神の霊に用いられる言葉です。ペンテコステの日は、イエスが弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ(ヨハネ20:20)」と言われたことが成就した日なのです。

    聖霊の体験は、最高に、神のあなたへの愛を経験することなのです(ローマ5:5)。それは、あなたのための神の愛を感じる方法であり、それによって、あなたはパウロのように、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(ガラテヤ2:20)」と呼ばわることができるのです。リック・ウォレンはこう言います。「神によって愛を感じることは…すべての働き、すべてのリバイバル、すべてのリニューアル、すべての大覚醒の出発点です。」

    聖霊はすべてのリバイバルのための力を与えてくださるお方です。そして、聖霊は神の民に神の愛を彼らの心に感じさせ、体験させ、知らせることが最高にお出来になるので、リバイバルが起こるのです。それはいわばあなたの頭から心への旅の知識と言えます。

    第二に、神からの炎を含みます。彼らは炎を見ました。もう一度言うと、それは物理的なというのではありません。「炎の『ような』分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。(2:3)」それは内面の目に見える形でのしるしとして外面的に起こったことであり、それは霊的に現実的なことであったのです。神の愛の炎は神の力、きよさ、そして情熱を表しています。

    聖霊の体験がどのようなものであったとしても、神はあなたに新しい火をもたらして、あなたの人生に情熱を与えます。
    第三に、神からのことばを含みます。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(4)」彼らは学習したことのない天的な言葉を話し出しました。使徒パウロは「人の異言や、御使いの異言(1コリント13:1)」について語っています。その言語は理解されるものです。そして世界各地からの人々がそれを理解しました(5-11)。これはバベルでの混沌と不一致の出来事(創世記11:1-9)の逆です。

    聖霊による神の愛の体験は教会に一致をもたらします。私たちが、同じ聖霊がカトリックにも正教会にもプロテスタントにもペンテコステ派にも、ありとあらゆる教団教派に働いていることを認識するとき、分裂の痛みが癒され、目に見える形で一致を経験するのです。

    ペンテコステの日には3つの反応がありました。(それらは今日においても聖霊による働きがあるところに見られるものです。)第一の反応は「驚き」です。 「彼らは驚き怪しんだ」(使徒2:7)のです。第二の反応は「戸惑い」です。「人々はみな、驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか』と言った(12)」のです。第3の反応は「あざけり」です。彼らは「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ(13)」と言ってあざけりました。

  2. 説明を学ぶ
    ペテロは起こった事柄を説明しました。(14)第一にペテロは間違った説明を正しました(15)。ある人々は超自然的な出来事を「自然的」に説明しようとします。あたかも彼らは酒を飲んだかのように見えたことでしょう。彼らは溢れんばかりの様子で、抑制を失っていたからです。しかしながら、これはぶどう酒に酔っぱらっていたわけではありません。しらふでしたが、いわば「霊に酔った」のです。しかし、この酔いは二日酔いする心配はありません!それから、ペテロは正しい説明をしました(16)。ペテロはこれは聖書的であることを指し示して話を始めたのです。(残りの説明の部分は明日見ることにします。)ある人々は言葉と霊とを二つの選択肢しかないような誤った二分法を描きます。しかし、聖霊は神のことばのまさに「著者」です。旧約聖書、すなわち、神の言葉はその聖霊のあふれ流れることを指し示しているのです(16-20)。ペテロは、聖霊に満たされ、聖書に立ち返りました。聖霊は神の言葉への飢え渇きをもたらすのです。

祈り:主よ。私は聖霊の新鮮な注ぎを求めて祈ります。神の炎が私にそして教会に下り、再び力と情熱ときよさが与えられますように。


祝宴の響き

2サムエル5:6-6:23

祝宴の響きを見る前に、この箇所にあるその他の響きに目を留めることは無益ではありません。ダビデが主に攻撃を仕掛けるべきかどうかを尋ねた時、最初に主は「上れ。(5:19)」と答えられました。それから、二度目にダビデが主に尋ねた時には、主は「上って行くな。…バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。(23-24)」と答えられました。

正確にはこの意味は明らかではありません。しかしながら、それは思いにとどまる表現です。たぶん、私たちが神が動けとおっしゃるのを聞けば速やかにということを意味しており、私たちはその時すぐに行動すべきであるということなのでしょう。

神はダビデの勝利を与え、そのことを多いに祝いました、「ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。(6:5)」それは実に騒々しいものであったことでしょう!
ダビデもとても目立つ方法で神の前で踊り、礼拝しました。「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた(14)」のです。ダビデの妻、ミカルはダビデの情熱に溢れる様子を恥じて「心の中で彼をさげすんだ(16)」のです。

ダビデはそれにもまして情熱的に激しく礼拝をし続けることによって応じました。ダビデはミカルに言いました。「私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。(21-22)」ここに、私たちは大声で、抑制されることなく祝うことの聖書的な例を見るのです。これはまた、神を礼拝する方法において自分とは違うものを見下げたり、軽蔑したりすることに対する警告の箇所でもあります。もちろん、私たちは他人の目につく事をしたがることを避けなければなりません。しかし、ダビデの熱狂は心からのものであり、祝うことへの純粋な行動だったのです。

私たちは、自分を取り囲む人々に配慮を必要とします。特に、たとえば、アルファでの最初の数週間、熱狂的な礼拝にあまり慣れていない人々がたくさんいるような場合です。しかしながら、基本的に、あなたは神を礼拝するときにどんな表現であっても、あなたが情熱的にしたいと思った通り自由に感じたままにすべきです。周りの人々がそれをどう思うかを心配する必要はありません。

主よ。教会が再び礼拝と祝宴のとどろきに満ちますように。すべてのアルファ・ウィークエンドがペンテコステの日の響きに満ちて、聖霊の注ぎが与えられ、あなたの御名に栄光が帰される礼拝と祝宴の天的な響きに溢れますように。アーメン。

H.K