Tokyo Chapel

2019年2月1日

第32日

あなたは神を信頼できる

第二次世界大戦中、ロンドン大空襲のときに、一人の父親が小さな息子の手をとって、爆撃を受けた建物から逃げ出しました。前庭には防空壕がありました。素早く入口を見つけ、父親は穴の中に飛び込み、息子が飛び込むように手を挙げました。おびえる息子には、飛び込めという父親の声は聞こえるだけでした。「お父さん、見えないよ!」と息子が言うと、父親は息子のシルエットに向かって呼びかけました。「お父さんには見える。さあ跳べ!」と。この少年が飛び込んだのは、父を信頼したからでした。言い換えれば、少年は父を愛し、父を信じ、父を信頼し、父に対して確信を持ったからです。

聖書の「信仰」は、第一義的に、誰かに対して信頼を置くという意味です。それは愛することに近い感覚です。すべての愛の関係は信頼という要素を含んでいるものです。信仰は、他者との関係すべてを変革する神への信頼です。


主にあって自信を持つ。

箴言3:21-35

あなたは自信のある人ですか?もしそうなら、その自信はどこから来るのでしょうか?何かをしたから、あるいは何かをもっているからですか?教育を受けたから?ルックスや運動能力、熟練した能力を身に着けているから?周りの人があなたをそう思っているからですか?

これらは何も間違っていません。自信を持つべきですが、究極的にはあなたの自信は「主」から来るべきです。たとえ自信を与えるものが他になかったとしても依然として自信を持つことができます。

箴言の作者は言います。「主はあなたの自信となる。(26a,AMP訳)」私たちの信仰の対象は人格をもった「主」です。神こそあなたがすべてにおいて信頼することの出来る一人のお方です。この「自信に満ちた信頼(23,AMP訳)」は、あなたが自分の人生を生きてゆく方法に変革を与えます。

  1. 知恵
    愚かなものは「自分を信頼します(35,AMP訳)」しかし、主に信頼する者は知恵ある者です。「すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。それらは、あなたのたましいのいのちとなり、…(21-22)」知恵、知性、思慮は神の近くを歩むことから来るのです。
  2. 平和
    仕事の成功、繁栄、名声は、あなたが平和を持っていなければ価値はありません。平和は神との正しい関係から来るものです。「きよい良心」という枕ほど寝心地のよいものはありません。「あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。にわかに起こる恐怖におびえるな。(24-25a)」何が起こっても、あなたは恐れる必要がありません。あなたは神があなたと共におられ、神の支配にあることに信頼できるからです。

  3. 「助けを受けるにふさわしい人から逃げてはなりません。あなたの手はその人にとっては神の手です。(27,MSG訳)」善を行うすべての機会を用いなさい。もし、あなたが誰かを助ける力があるなら、遅れてはなりません(28)。

  4. 「あなたの隣人が、あなたのそばで信頼確信して住んでいるとき、悪を耕したり、掘り出したり、たくらんではならない。(29,AMP訳)」あなたの隣人を愛するように導く神に信頼しましょう。
  5. 親密さ
    「主は、…直ぐな者と親しくされるからだ。(32)」主が私たちの確信である時、主はご自身の確信に私たちを取り運びます。これは神との親密さがどのようなものであるかの素晴らしい描きです。「主の内密の交わりと秘密の助言(32a,AMP訳)」。
  6. 神は「へりくだる者には恵みを授ける。(34b)」もしあなたの確信が主に信頼することが来るなら、あなたは高ぶることがありません。神はあなたに恵みを与えると約束し、祝福して誉れを与えるのです(33-35)。

祈り:主よ。信仰の生活を生きることができますように。あなたの近くを歩ませてください。そして、あなたに信頼を置き、あなたから自信を得ることができますように。


イエスを信じる

マタイ21:18-32

イエスは「信仰を持ち、疑うことがなければ、・・・そのとおりになります。」(21:21)といわれました。答えは「信じる…信じる…信じる」(22,25,32)です。この一つの語は、一見共通点がないように見える3つの箇所を留めることばです。

  1. あなたの信仰を肥えさせれば、疑いは餓死するでしょう
    イエスは言いました。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」「もしあなたが、この御国の生活を受け入れて神を疑わなければ、わたしがいちじくの木にしたような、ちょっとした芸当だけでなく、巨大な障害物に対して大勝利することができます。…小さなものから大きなものまで、完全にすべてのものは、あなたの信じた祈りの答えとして、神を握りしめたあなたのものとして得るのです。(21-22,MSG訳)」今日、トライしてみましょう。神を求め、信じ、信頼することを。
  2. あなたの行動によって信仰を示す
    いちじくの木は、すると思われていたことをしませんでした。それは実を結ぶことです(18-20)。二番目の息子は、すると思われていたことをしませんでした。父に従うことです(28-31)。同様に、宗教的な指導者たちは、すると思われていたことをしませんでした。それはイエスを信じることです。イエスを信じることよりも、彼らはイエスに疑問を示しました。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。(23)」イエスはバプテスマのヨハネがどこから来たのかという質問で答えました。それによって、バプテスマのヨハネを信頼することが出来なかった宗教的指導者たちの姿が露呈されるのです。彼らは自分たちで話し合って、「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を『信じなかったか』、と言うだろう。(25)」宗教指導者たちの信仰はすべて思考と議論に関してでした。そして、彼らはイエスという人格への信仰を見失っていたのです。
  3. 信仰によって神の国に入る
    イエスは。信じなかった宗教指導者たちと「悔い改め信じた(32)」取税人や遊女たちとのコントラストを描き出します。取税人や遊女たちは最下層の人々として見られていました。(「くすねる奴らと売春婦(32、MSG訳)」)しかし、イエスは彼らの多くがイエスを信じていたので、イエスは先に神の国に入っているのですと言ったのです。一見、「厳格」そうに見える人がしばしばイエスに無関心であることに気づくことがあります。彼らはどのような必要も見てはいないのです。一方、囚人や出所してきた人たちの中にある正直さと霊的な飢え渇きに心打たれることもしばしばあります。私は社会の隅に追いやられた人々と時間を費やしてイエスが愛された理由を実感するのは、刑務所の中に入って行った時でした。彼ら一人一人はしばしばイエスにもっとも応答した人なのです。たとえ、過去が過ちに満ちたものであったとしても、神の国に入るのを妨げるあなたの考え、言葉、行いなど一切ないということを知るのはとてつもない励ましです。望みが断たれる人は誰もいません。放蕩息子のたとえの兄のように、彼に必要だったのは、思いと考えを変えて、父の言ったことをすることでした(29)。ただ、イエスに立ち返り、信じることです。

祈り:主よ。私が悔い改め信じた瞬間、私は神の国に入ったことを感謝します。あなたが「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。(22)」と言ったとおりであることを感謝します。主よ。今日、私は祈り求めます。


試練の中で信じ続ける

ヨブ22:1-24:25

ヨブは、たとえ、自分の人生に起こっていることが何であるかを理解できなくても、「神に信頼する」ことを学びました。「信仰」とは、たとえ、あなたがすべての答えを持っていなくても「神を信頼する」ことです。

困難な時とは、信仰が試されるときです。ここで再び、私たちはヨブと友人たちの際立ったコントラストを見ます。エリファズのスピーチには間違った嫌味が満ちています。このような間違った追及を受けて、ヨブは癪に障ったに違いありません。エリファズは、ヨブが貧しい者、飢えている者、やもめたちに対する仕打ちをしたのだという間違った追及をします。ヨブが苦難に遭っているのは「それが理由だ(22:10,NIV訳)」とエリファズは言いました。それは真実とは程遠い物でした。

エリファズの神学は単純化され過ぎており、欠陥があります。「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。(21)」という主張は皮相的です。人生はそんなに単純ではありません。

対照的に、ヨブは現実の世界で葛藤していました。それはしばしば理不尽で、潔白な者が受ける苦難です。ヨブは苦難の中でうめきながらも、神を慕い求めました(23:2)。ヨブにとっては、神が遥か彼方に遠ざかったように感じられたことでしょう。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。(3)」

ジョイス・マイヤーはこう記しています。「もしあなたが、全く理解しがたいと感じる真っ只中にあるのなら、それであっても、神を信じなさい。そして、自分に言い聞かせるのです。『これはテストに違いない』と。」

ヨブは言いました。「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(10b)」金は熱を加えられ精錬されます。金細工人の目にかなうようになるまで、何度も何度も不純物を取り去るのです。恐ろしい苦難の中で、ヨブは、神がそれをすべての良いことのために用いてくださり、もっと純粋になり、きよくなるということを信頼しました。なんとかして、神にすがるようにして。

私の足は神の歩みにつき従い、
神の道を守って、それなかった。
私は神のくちびるの命令から離れず、
私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。(11-12)

ヨブの人生を見る時、私たちは葛藤を通して力がつくこと、勇気は挑戦を通して開発されること、知恵は傷つくことから熟練することを理解します。神はヨブの信仰を試して、純金のようにされたのです。

祈り:主よ。私が精錬の火の中をくぐらされているような困難な時、私の信仰を持ち続けることができますように。あなたを信頼し、「私は金のように、出て来る。(10b)」と言うことが出来ますように。日々、信頼の生活を生き、あなたに自信を持つことができますように。アーメン。

H.K