Tokyo Chapel

2019年2月23日

第54日

神に聴く方法

私が通りを歩いていて彼を見た時に、私は彼を避けようとして道を横切りました。大学に入学してから1週間目にすでに彼と会っていました。彼は輝くような満面の笑みを湛えていました。今まで、彼と同じような笑顔の人に一、二度会ったことがありました。そのことが私をとても疑い深くしたのです!

それから数ヵ月後に、私はイエスと出会いました。そして、彼らの顔が輝いていたのは、彼らがイエスと共に時を過ごし、神の語りかけを聞いていたからだということを見出しました。モーセのように、神が語りかけるのを聞いた後で山から下って来たとき、彼らの顔は光を放っていたのです。

イエスは言いました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ4:4)」私たちは肉体のための食物だけではなく、霊的な食物が必要なのです。そして霊的な食物は神のことばを聴くことから来るのです。


神の導きを聴く

詩篇25:8-15

自分が立てた予定を計画通りにしたかったり、やりたいことのために無理したりすると、霊的に落ち着かない感覚を持つことがあります。ジョイス・マイヤーはこの落ち着かない様子を、足のサイズに会っていない靴を履くことにたとえています。

私たちが礼拝と従順の生活に生き、神の方法に従うとき、「しあわせの中(13)」に守られます。それは楽に生きることができるというのとは違います。しかし神の計画に従って生きることを始めるとき、ピタッとサイズに合った靴を見つけたように落ち着くことができるということです。

何度も何度もこの詩篇の中で、主は道を「道を教え(8,12)」、「導き(9a)」、「教え(9b)」、「親しく、ご自身の計画を知らされる(14)」ことを思い起こさせます。

  1. 神が導く人々
    ダビデは驚くべきことに、神が「罪人」でさえ道を教えられると説明しています。「それゆえ、罪人に道を教えられる。(8)」ダビデでさえ、その「不法」は「大きく」、彼は自分の咎を赦され、神によって正しくされることを知っていました(11)。感謝なことに、あなたは神の導きを聴くために完全でなければならないという必要はありません。しかし、あなたには謙遜な態度が必要です。「主は謙遜な者を正しさに導き、彼らにご自身の道を教えられる。(9,NIV訳)」「神の友情は神を礼拝する者のためのもの。彼らは神を信ずる者たち。(14,MSG訳)」
  2. 導きの目的
    神がただ「正しさ」を行うことを求めておられるのを、あなたは、はっきりと知るでしょう(9a)。神からの導きであるかどうかのチェックポイントは、あなたがしようとすることが「恵みとまこと(愛と忠実,NIV訳)」(10a)であるかどうかです。神はあなたに無慈悲で不忠実なことをするように願ってはおられません。「主の小道はみな恵みと、まことである。(10a)」

祈り:主よ。あなたの導きを求めます。今日、あなたは私を導き、教え、ご自身の計画を知らせてくださいます。


神のことばを聴く

マルコ7:1-30

イエスは、神のことばが人間の伝統に取って替ってしまったといいました(8)。伝統が悪いわけではありません。伝統はとても大切であり、価値あるものであり得ます。しかしながら、伝統は神のことばに優先すべきものではないのです。神のことばに従うことを退けるために伝統を用いていたパリサイ人たちをイエスは糾弾したのです。「あなたがたは、宗教的な装いに従うことに不都合になるので、神の命令を取り除いてしまったのです。(9,MSG訳)」

その一例として、年老いた両親を支えることは時に、不都合なことになり得ます。そして、その必要に応えるべきではないという弁解を見つけようとする誘惑に駆られます。パリサイ人たちは、もしあなたが、神へのささげ物として献金するなら、両親を経済的に支援することを免除されると言ったのです(11)。イエスはこのようなことをするのは、「あなたの父と母を敬え(10a)」という神の命令に従わないことだと言いました。「こうして」イエスは言いました。「あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。(13)」

パリサイ人たちは外見的には神を敬っていました(1-5)。正しいことをすることも、正しいことを言うことも比較的に簡単です。私たちはコミュニティーのすべての規則に従うことができますが、同時に神から私たちの心が遠く離れてしまうこともできるのです(6-8)。

神は外面的に現れている事柄についてではなく、その心にについて関心をもってられるのです。イエスは言いました。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(21-23)」これらが私たちの生活を汚すものであり、神との関係を台無しにするのです。

イエスは言いました。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。(14)」これが人生の鍵です。すなわち、イエスに聴くことです。

イエスは続いてスロ・フェニキアの女の心のうちにあったことを引き出しています。ジャン・カルヴァンはスロフェニキアの女に対するイエスの態度を「イエスの冷たい態度は女の信仰を消すためではなかった。むしろ、彼女の熱心さと情熱をかき立てるものだったのだ。」と記しています。

イエスはまずユダヤ人のために来られ、それから異邦人に向かいました(27-29,参考としてイザヤ49:6,ローマ1:16)。女の信仰の偉大さは彼女がイエスが何者であったかそして、イエスの天からの力を認識していたからだけではなく、カルヴァンが続けて言うように、彼女は「恐怖心を起こさせるような反対の中を揺るがずに進んだ」のです。彼女は冷笑的でない、そして忍耐ある信仰の偉大な例を私たちに示しています。

祈り:主よ。私の心の態度にチャレンジを与える神のことばの力のゆえに感謝します。今日、私の心をきよめてください。私は祈ります。私に情熱と、冷笑的ではない、忍耐強い信仰を与えてください。


神の計画を聴く

出エジプト33:7-34:35

あなたは神の友となることができます。イエスは、ご自身に従う者を友と見なします(ヨハネ15:15)。モーセは神の友でした。もしモーセが神の友であったなら、新約聖書は今あなたもまた神の友になれると告げるのです。

神はモーセにご自身の計画を見せました。モーセは普通以上の神との関係を持っていました。モーセは主に出会うために会見の天幕に向かいました。「雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。(出エジプト33:9)」「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。(11a)」ここには神とモーセとの近しさと主の声を聞く親密さが記述されています。モーセは祈りました。「どうかあなたの計画を説明してください。(13,MSG訳)」

モーセが肉体的な意味で「顔と顔とを合わせた」のではないことは明らかです(20)。神の臨在はあまりにも栄光に満ち、聖いので、誰ひとりとして顔と顔を合せて生きていることはできないからです。これはとても近しく接し、親交を持ったことの比喩的な表現です。神が話すのを「顔と顔をとを合わせて」聴くために、そして主との関係を成長させるために、これは日々私たちが必要とするものです。

モーセは他の何よりも「神の臨在」を求めたのです。それが私たちの人生でとても必要としているすべて、つまり主の臨在と主の平和です。主はモーセに約束しました。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。(14)」これが同じようにあなたに神が約束しているものです。

モーセは言います。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。(15)」他の人々と神の民を区別するのは神の臨在なのです(16b)。私たちを取り囲む世界から、私たちを区別するのは他の何物でもなく神の臨在なのです。

モーセが主の臨在のうちに時間を過ごす時、「彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放った(34:29)。」これが。コリント人への第二の手紙3章にあるパウロの卓越した言葉の背景です。パウロはモーセが経験したものよりはるかに偉大なものを楽しむことができると言っているのです。

「そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。(2コリント3:10-11)」

あなたはモーセより強くなることができるのです。「そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。(13)」パウロは記します。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(16-18)」

御霊の働きに加わることができるということは素晴らしい特権です。たとえば、アルファ・ウィークエンドではいつも、人々が神の臨在を経験し、聖霊に満たされるのを見ます。そしてしばしばウィークエンドの終わりに人々の顔が輝いているのが分かります。しかし、これはモーセの顔の輝きのような偶発的な経験を意味するのではありません。

聖霊を通してあなたは「神の臨在」を体験することができるのです。「神が私たちのいのちに入る時、私たちのいのちは段々と明るくなり、さらに美しくなるのです。そして、私たちは主のようになるのです。(18,MSG訳)」

祈り:主よ。わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。(出エジプト33:14)というあなたの約束を感謝します。あなたの声を聞き、友としてあなたと顔と顔を合わせるように話すことができますように。あなたの栄光を反映し、あなたに似た者と創りかえられ、さらにあなたの栄光を増し加えることができますように。アーメン。

H.K

References

John Calvin, as quoted by The Cambridge Greek Testament Commentary, Ed. C. F. D Moule, (Cambridge University Press, 1957)