Tokyo Chapel

2019年8月9日

第221日

ただ聖さだけが幸せに導く

雑誌やテレビは裕福さ、美しさ、強さ、といったストーリーに溢れています。私たちの文化はそれらの物事を偶像化し、私たちの多くはそれらを達成することを熱望しています。それらの事柄自体が悪いわけではありません。でもそれらが常に幸せに導くとは限りません。

フランス人の哲学者、ブレーズ・パスカルは偉大さの三段階について語りました。裕福さ、美しさ、そして強さは、最初のカテゴリーである表面的な「物質的偉大さ」に分類されます。

これよりも高い段階として、第二の偉大さがあります。それは、天才、科学、そして芸術の偉大さです。ミケランジェロの芸術、バッハの音楽、アルバート・アインシュタインの聡明さなど、これらは表面的な物質的偉大さの上にあります。

しかしながら。パスカルによれば、第三の種類の偉大さがあります。それは、きよさの次元です。(第二の種類と第三の種類との間には質的にほとんど無限に近い違いがあります。)きよい人は、強いか弱いか、富んでるか貧しいか、知的水準が高いか無教養であるかという事実は、何も加えることも減ずることもありません。なぜなら、その人の偉大さは次元が違うものであり、ほとんど無限に近いほど上回るものだからです。私たちすべての人にきよさの次元において本当に偉大になることが開かれています。

「聖(神聖な、聖なる、きよい)」という言葉、は聖書の中で500回以上現れます。神は聖です。神はあなたに聖霊を与え、あなたをきよめました。そして、あなたは神のきよさを分かち合うように召されているのです。

「聖徒」という言葉の意味は「きよい人」です。新約聖書の中で、それはすべてのクリスチャンにあてはめられています。あなたは「聖徒として召され(1コリント1:2)」ました。きよさはあなたへの贈り物です。あなたがイエスの信頼を置いた時にあなたは受け取るのです。そして神の義と聖霊の賜物を受け取るのです。聖霊の力によって、イエスに倣うことを通して、神の贈り物への大いなる応答としてきよい生活が生まれることを探し求めましょう。


きよい神

詩篇93:1-5

神は万物の創造者です。しかし、神はまたご自身がお創りになった世界とは一線を画しておられます。神は、すべての被造物と比べて、もっと偉大で、もっと主権を持っておられるのです。「大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。(4)」

詩篇の作者の絶頂は、神のきよさに焦点を当てた賛美です。彼はこう結論します。「あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。(5)」New English Bible訳ではこうです。「きよさはあなたの神殿の美しさ…」神殿は壮麗で、印象深い建物ですが、詩篇の作者は神のきよさは、神殿の本当の内なる美しさと栄光であることを認識しているのです。

祈り:主よ。私たちはあなたのきよい美しさに内にあなたを礼拝します。あなたは唯一きよいお方。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。(イザヤ6:3)」


きよい教会

1コリント5:1-13

今日、教会においてきよさについて取り上げることに関していくつかの落とし穴があります。第一に、いわゆる「いかにも聖人ぶった」態度という危険性があります。自己義が上回ることを避けましょう。第二に、潔癖主義という危険があります。ただ神だけが完全にきよいのです。優れたものにするために努力しましょう、しかし、この世の人生で完全に成し遂げることはできません。

私たちのきよさは神のきよさに対する適切な応答です。そして、それは神の賜物と恵みによってのみ可能となるのです。教会におけるきよさは聖霊の賜物を通してもたらされます。(1コリント3:16-17)

教会は聖であるはずなので、パウロはコリントの教会で起こっていることに驚愕しました。「異邦人の中にもないほどの不品行(5:1)」がはびこっていたのです。

パウロは記しました。「そして、あなたがたは困惑することさえせずに、有頂天になっている!これがあなたの心を砕かずにおれるのだろうか?あなたは膝をかがめて涙することがないのだろうか?この人物と彼の指導に対して対峙し取り扱わないつもりなのか?(2,MSG訳)」

教会がきよくなるために、訓練されることが必要です。極度の罪については教会から排除しなければならない罪があります(13)。これらの罪は非常に明白なものです。例えば、「父の妻を妻にしている者(1)」のような度を過ぎた種類の不道徳などの性的不道徳のケースなどです。

パウロは、その関係において訓練される必要のある人々として、「不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者(10-11)」を挙げています。「貪欲な者」とはここでは、盗んだりだまし取ったりという視点での強欲さという感覚で用いられているようです。他の罪については偶像礼拝と中傷(人々を悪口を言ったり、罵ったりして言語的に虐待すること)に関してのことです。

「酒に酔う者」は飲酒を好み、執拗に飲酒するような者を示します。パウロがここで焦点を当てているのは、アルコール依存(他の依存症も含めて)に打ち勝つように勧めているのではなく、教会は拒絶の場所ではなく、癒しの場であるべきだということです。ここでの言葉は、他の不道徳、すなわち暴力や下品な性的に関してです。

パウロは教会の外部の人々について語っているのではないことは明らかです(10)。私たちは最も極端な「罪びとたち」に対してでさえ、関係を断つのではありません。イエスは「罪人の友」でした。イエスはすべての人と関係を保ちました。これらの人々こそ、まさに私たちが届くべき人々なのです。

むしろ、パウロが言っているのは、もし、人々が悔い改めることなしに、これらの過度なそして明白な罪を続けているなら、彼らには教会に居る余地がないということです。もし私たちがこの課題を取り扱わなければ、「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませること(6)」になります。それは教会全体に影響を及ぼすのです。

感謝なことに、赦しは残されています。「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(7)」私たちは誰一人として、神の賜物を通してでなければきよくはありません。イエスは、私たちが赦され、きよめられるために過越しの小羊として死なれました。きよめは神からの賜物です。私たちが過ちを犯したときは、遅れることなく十字架のもとに立ち返り、赦しを受け取る必要があるのです。

祈り:今日、主よ。私はあなたのもとに参ります。そしてあなたの赦しときよめを願います。私をきよい生活に導いてください。あなたの教会が聖である場所でありますように。


きよい神殿

1歴代28:1-29:30

ダビデは聖なる神殿の建設の準備のために召されました(29:2-3)。神殿は聖であったので、ダビデ自身は建設することが出来ませんでいた。彼は「度重なる戦闘のために、あまりにも多くの人々を殺した(28:3,MSG訳)」からです。

しかしながら、神は神殿の建設のための厳正な計画にダビデを導きました。計画は「御霊により彼が示されていたすべてのものの仕様書(12)」に記されました。しばしば神が私たちを導かれる方法はこのようです。神は私たちの思いの中にどうすればよいかを考えの内に示されるのです。

ダビデは自分の息子ソロモンにその仕事を託しました。「全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。(9)」神がソロモンにしたように、神はあなたを、行為を超えて心、動機、思いを含めてきよくあるように召しておられます。

ダビデは、神は、心を探り、正直さを喜ばれる神であると言いました(29:17)。ダビデは「心の直ぐな(詩篇78:72)」男でした。これはきよさの良い定義です。

すべての人は3つの生活を生きていると言われます。公的な生活、個人の生活そして秘密の生活です。きよさは統合された生活を生きることです。それはアンバランスなものではありません。きよさは公的に、個人的に、そして人に見えない領域においても、違わない生き方にあります。また私たちが語ることと行うことに差がない生き方です。きよさ(Holiness)は全人的(wholeness)と結ばれています。神があなたをきよさに召される時、神は「全部がわたしのものであれ」と言われます。

ダビデは祈りました。「わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。(1歴代29:19)」

ついでながら、神殿を建てるために、彼らには多額の金銭が必要であったことは興味深いことです。指導者たちが導いたので、それらは達成されました。全体の指導者がまずささげ(3)、他の指導者が次にささげました(6)。それから、すべての民が「みずから進んで(6)」ささげました。それは「お祝いのような感覚(17,MSG訳)」でした。

神はあなたが進んでささげることを望んでおられます。もし、あなたがそうしたくないなら、こう祈ることができます。「主よ、私が進んでささげる意思を私の内に形作ってください。」サンディー・ミラーは良く言っていたように、少なくともこう祈ることができるのです。「主よ。私に進んでささげる意思を私の内に形作ってくださることを意志することができますように!」

神の民が進んでささげた時、彼らは大いなる喜びに満たされました。そもそもすべてあなたが持っているものは神からのものでした。「そもそも、全てはあなたのものでした。(16,MSG訳)」あなたが自分の持てる物を神の働きのために、気前よく、縛られることなくささげるとき、神はあなたを大いなる喜びに満たされます。

ダビデとソロモンが建設した聖なる神殿は、聖霊が住まわれる教会という聖なる神殿の備えにすぎません。聖霊は教会に住まわれるだけでなく、聖霊はあなたの内に住まわれます。あなたの身体は聖霊の宮なのです。(1コリント6:19-20)

祈り:主よ。あなたの聖霊が私の内に満ちますように。そしてわたしをきよめてくださいますように。アーメン。

H.K

References

Blaise Pascal, Pensees, (Penguin Classics, 1995).