Tokyo Chapel

2019年4月23日

第113日

神の恵み深き御手

人生には色々なことが起こります。人生の大半は単純に置かれた状況の中に自分自身を見出します。たとえば、私たちの両親、私たちの遺伝子、天候、私たちの教育や私たちの政府など、私たちが体験しているすべては「私たち起こった」ことです。これらの事柄はギリシャ語の文法で、「受動態」と呼ばれています。しかしながら、私たちはまた、「物事を起こす」こともできます。私が行動を起こし、何かをする時、これは「能動態」で表現されます。

さて、ギリシャ語には第三の態があります。それは「中動態」と呼ばれます。これは完全に能動的とも完全に受動的とも言えないようなものです。もし私が中動態を用いるとき、私は行動の結果に属しているのです。

クリスチャンの祈りは中動態で語られます。それは能動態ではあり得ません。なぜなら、それは神を儀式で思い通りに動かそうとする異教徒の祈りのように、自分が制御できる行動ではないからです。また祈りは、そして運命づけられた神々の意思に受動的に陥るような受動態でもあり得ません。クリスチャンの祈りにおいて、ユージン・ピーターソンが言うように、「私を創造し、救ってくださった主、そのお方によって始められた行動の中に私は入っていくのです。私はそれですから、神の恵み深い行動の結果に参加する自分自身を見出すのです。」

ある意味で、クリスチャン生活の全体が祈りです。私たちは神の恵みの御手が私たちの生活の及ぶことを歓迎します。そして、神がこの世に為さったことに参画するのです。神はあなたをご自身の計画に含めてくださいます。もちろん、神はすべてご自身ですることができるのですが、神はあなたを含めることを選ばれたのです。神はあなたに、ご自身のコントロールを残しつつ、自由を与えます。


神はあなたを解き放つ

詩篇50:1-15

あなたは、あなたの生活で問題に直面していますか?仕事でストレスが多い状況がありますか?難しい人間関係?心配な健康状態?経済的な課題…。

神は全宇宙を支配するお方です。「神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。(50:1)」

神はすべてを所有しておられます。私たちは些細なことや自分の所有物のことで闘ったり葛藤したりするかも知れませんが、最終的には神はすべてを持っておられます。「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。(10)」

神は人間に頼る存在ではありません。「わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。(12)」

しかしながら、神は恵みをもって私たちに役割を与えてくださっているのです。

  1. 神に感謝する
    感謝のいけにえを神にささげよ。」(14a)
  2. 神に呼び求める
    「苦難の日にわたしを呼び求めよ。」(15a)
  3. 神をほめたたえる
    「あなたはわたしをあがめよう。」(15c)

私は多くの時、詩篇50篇15節に帰って来ます。「苦難の日に」主に叫び求めるのです。振り返ると驚くべきことに、神の恵みの手が彼を解放したことがしばしばあったのです。

祈り:主よ。すべての素晴らしい祈りの答えのゆえに感謝します。今、主よ。もう一度、私を解き放ってください。


あなたの祈りは世界を変える

ルカ22:1-38

あなたは人と比較して悩んだことはありませんか?

イエスの弟子たちでさえ、私たちと同じ多くのことで葛藤していたというのは大きな慰めです。「彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。(22:24)」自分を誰かと比較するということはいつも誘惑です。それは、(もし私たちが比較してうまくできていると思うとき)プライド、嫉妬、ねたみ、(もし私たちが比較してうまくできていないと思うとき)自信のなさを引き起こします。

イエスはこの世界とは対極にある神の国の価値観を指し示しました。「王たちは自分に立派な肩書を付けて、自分の回りや人々に権威づけすることが好きです。あなたがたはそんな道に行くのではありません。年配者は若輩者のようになりなさい。指導者はしもべのようにふるまいなさい。…私はあなたがたの中でしもべの一人として位置づけました。(25-27,MSG訳)」

私たちがこのドラマの中でそれぞれの人々によって演じられている部分を見るとき、もう一度、私たちは、聖書が神の定め(神がすべての事柄を計画されたということ)と自由意志の両方を教えていることを理解します。これはみことばの中に緊張をもたらす奥義です。そして、私たちは人間の組織だった思考でこれを説明しようと試みるとき、当然のように疑念を持つのです。この箇所で私たちは実際にこの緊張をどう取り扱ったのかという3つの例を見ます。

  1. ユダ
    私たちがここで、いかに悪が働くかという恐ろしい記述を見ます。誘惑に影響されない人はありません。ユダはイエスが選んだ12弟子の一人でしたが、サタンが入りました(3)。

    イエスはこのことすべてをすでに知っていた、すなわち、定まっていたと言います。「人の子は、定められたとおりに去って行きます。(22a)」しかし、それが予見されており、定まっていたことがユダの責任を逃すことにはなりません。「人の子を裏切るような人間はわざわいです。(22b)」

    パラドックス(矛盾のようで実は正しい説)はそれは「定められたとおり」であったのですが、ユダは自主的に行動できたのです。ユダは自分の「意思」を持っていました。ユダがイエスを金で裏切ることを相談した時、「ユダは承知し」「イエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた(6)」のです。
  2. ペテロ
    ユダにサタンが入ったように(3)、ペテロもサタンによって「ふるいをかけられ(31)」ました。

    ペテロはイエスが捕えられることなどないと強い確信をもっていました。ペテロは「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(33)」と答えます。しかし、イエスはペテロがそう出来ないことを知っていました。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。(34)」

    それでも、最終的にはペテロの信仰はなくなりませんでした。イエスは言いました。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。(32)」ここにも神の計画と自由意志のパラドックスがありますが、祈りが結果を大きく変えます。なぜ、そしてどのようにそれが働くのかを私たちは十分に理解できません。しかしながら、イエスは祈りが実に大切であることを見せてくださっているのです。あなたの祈りは事態を変えるのです。
  3. イエス
    極めつけに、私たちはイエスの生涯と死において神の定めと自由意志のパラドックスを見ることになります。イエスは「人の子は、定められたとおりに去って行きます。(22a)」、「『彼は罪びとたちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。」(37)と言いました。これほど、イエスの死が神に定められ、神の計画され、決定されていたことを強く宣言していることばはないでしょう。それでも、イエスは自らの意思で死に向かいました。イエスは死ぬことを選択し、ご自身のからだを私たちのために与えてくださったのです(19)。

私たちは、神の役割と私たちの役割のバランスを見ます。聖餐式のときにいつでも、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。…この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(19,20)」と言われたことを心に留めましょう。私たちのために自ら進んで命を犠牲にするということはとても難しい事です。それに比べると、私たちの役割はシンプルです。「わたしを覚えてこれを行いなさい。(19)」

祈り:主よ。あなたが私のためにこのすべてをなしてくださったことを感謝します。あなたが私のためにご自身の体を与え、血を流してくださったことを感謝します。あなたが恵みの手を私に伸べてくださったことを感謝します。


神の意志は驚くべきことを成す

ヨシュア3:1-5:15

あなたは神がともにおられることを知っていますか?そして、もし神があなたとともにおられるなら、あなたが立ち向かうどんなチャレンジにも向かい合うことが出来ることを知っていますか?神はヨシュアに言いました。「…わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいる(3:7)」と。

再び、この箇所で神のパートと人のパートのバランスを学ぶことができます。

  1. 己を備える
    神はまさにご自身の民を通して、神の奇跡を為そうとされていました。その役割を担ったのはイスラエルの民です。ヨシュアは民に自分自身を備えるように言いました「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。(3:5)」

    民がヨルダン川を渡るための準備において、特別な役割を果たす人々を選び、その務めを与えました。(4:1-4)。
  2. 神の備え
    私たちは神の恵みの御手を再び見ます。主は「不思議を(3:5)」を行われました。神がなされた素晴らしい御業の一つは、イスラエルの民がヨルダン川を渡ったということです(3章)。

    神はヨシュアを高めるとは約束しました(7)。ヨシュアは自分を高めようとはしませんでしたが、神は、主のみことばに聞き従ったヨシュアを高め「大いなる者(4:14)」としてくださいました。

    神はすべての民の必要のために備えを与えられました。「彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。(5:12)」神は彼らにちょうど良い必要をご存じで、もう必要がないものも知っておられます。

    これは、物質的安定と自給自足から、そして多分、神に信頼しなかったことから起こったことです。あなたの安定と信頼は神だけに置くべきです。神はあなたにいつも十分にそして余ることなく与えてくださいます。

祈り:主よ。感謝します。あなたが私をご自身の計画に含めてくださるとき驚くような方法を用いられます。今日、私はあなたに私をささげます。あなたが私に驚くことをなしてくださる約束をありがとうございます。あなたは私の必要に応えてくださいます。アーメン。

H.K

References

Eugene Peterson, The Contemplative Pastor, (William B Eerdmans Publishing Co, 1993) pp.91–93