Tokyo Chapel

2019年6月28日

第179日

力の対決

数年前、デイビッド(仮名)という若い弁護士が、アルファでニッキーのスモールグループにいました。最初の夜、彼は無神論者で、ここに来た唯一の目的は、スモールグループをかく乱するためだと言いました。そして彼が来るときはいつも彼はそのように振舞いました。そのような態度は多くの参加にとって好ましいことではありませんでしたが、彼はコース全体を通して態度が変わることがありませんでした。

「悪に対抗するには」のトークのあとで、サラ(仮名)というクリスチャンではない若い女性が、「私は悪魔の力なんて全く信じられない。」と言いました。これは彼女がクリスチャンになることの大きなつまづきの石となっていたのです。

しかし、その夜の後半に、デイビッドが理由もなくとても怒り始めたのです。そして、まるで悪霊に憑かれたような状態になり、スモールグループのヘルパーの一人に襲い掛かろうとしました。サラはその様子を見ていました。彼女はヘルパーの落ち着いた、優しい反応に神の力が働いていることが分かりました。彼女の眼は霊的な世界の全容に開かれたのです。その夜、彼女はイエスを信じる信仰を決心することができました。

ジョン・ウィンバーは「力の対決(パワー・エンカウンター)」を神の国とサタンの国の衝突と定義しています。

使徒パウロは記しました。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」あなたの内にある神の力は悪魔の力よりももっと大きいのです。


悪しき者の性質を知る

詩篇78:32-39

神は私たちに失敗から学ぶことを望んでおられます。そして、同じ罪を何度も何度も繰り返すことを望んではおられないのです。神の民の歴史は、「このすべてのことにもかかわらず、彼らはなおも罪を犯し…(32a)」ということです。

神はご自身の愛のゆえに私たちの自由を重んじられます。神は私たちの自由を覆す事がお出来になりますがそうなさいません。神はご自分の民の代わりに超自然的に働かれます。しかし、彼らは「このすべてのことにもかかわらず、…神の奇しいわざを信じなかった(32b)」のです。

神はご自身に立ち返ることを願って、その民を訓練しました(34)。「しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。(36-37)」それでも神は深いあわれみをもって「彼らの咎を赦して、滅ぼさ」ないのです(38)。

神の力にもかかわらず、どうしてこうも悪が優勢であるように見えるのでしょうか?この箇所はその答えの一端を示しています。霊の戦いとは単に神の超自然的な力とサタンの力の衝突ということではありません。人間と、人間の自由は戦いの均衡を左右する要素なのです。使徒ヤコブが「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。(ヤコブ(1:14)」という通りです。

あなたがこの詩篇で神の力を読むように、聖霊を通して、あなたの内に今その力が宿っていることを覚えましょう。

祈り:主よ。あなたのあわれみと赦しと私の内におられる聖霊の力を感謝します。いつもあなたに忠実であれるように助けてください。(詩篇78:37)


悪に打ち勝つ権威

使徒18:9-19:13

聖霊の力に満たされて、使徒パウロは悪の力に対抗しました。「ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗(12)」したのです。「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』と言われた。(9-10)」「それで、彼(パウロ)は最後まで忍耐することが必要だったのです。(11,MSG訳)」

おそらく、でっち上げられた罪状で再び法廷に引っ立てられるという、パウロを恐れさせ、語るのをやめさせ、黙らせようとする悪にパウロがさらされていたので、主はパウロにこのようにして語ったのでしょう。反対に直面した時あきらめてはなりません。

パウロは善と悪の力の対決を見ました。「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。(19:11-12)

パウロの働きにおける神の力はとても強烈な印象を与え、クリスチャンではない人々でさえ、悪霊に憑かれた人に向かって主イエスの御名で悪霊を追い出そうとしました。彼らは「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました(13)。明日、私たちはこのアプローチの危険性について見ていきます(14-16)。ユダヤ人の魔よけ祈祷師たちがイエスの御名の「力を利用する」ことを試したことは悲惨な結果をもたらしました。

パウロは奇跡を行い、イエスの力を通して、悪の力に打ち勝ちました。それはパウロのミニストリーにおける多種多様な聖霊の働きの一部分なのです。

  1. 教え
    「そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。(18:11)」
  2. 育成
    パウロは「すべての弟子たちを力づけ」ることに時間を費やしました(23)。パウロに育成された弟子たちの中に多分アクラとプリスキラもいました。パウロによって育てられた彼らが、今度は良き育成者になりました。

    たとえば、プリスキラとアクラはアポロを育てました。アポロは「素晴らしい話し手で、雄弁で力強く聖書を説教していました。彼は、教師として有望でよく教育を受け、熱心さは燃えるようであった。(24-25,MSG訳)」

    プリスキラとアクラは彼を脇に連れ出しました。「プリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。(26)」それによって、彼はより有能な人となりました。「彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。(27)」
  3. ミニストリー
    私たちは聖霊の力による「ミニストリー」の例を見ます。「パウロが彼ら(エペソの人々)の上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(19:6)。」アルファ・ウィークエンドの度に、私たちは誰かの上に手を置いて祈るという大きな特権を得ます。そして聖霊によって彼らが満たされるように祈るのです。
  4. 議論
    パウロは「毎日ツラノの講堂で論じた。(9)」アルファのスモール・グループのディスカッションはたぶんコースの中で最も重要な部分です。人々は探究する機会が与えられ、課題を話し合うことを通して、彼らの疑問の答えを見出し始めるのです。
  5. 弁証
    議論することには、「弁証(apolpgetics)」することが含まれます。この言葉は「アポロギア(apolpgia)」に由来します。彼が法廷でこの言葉を用いています。「あなたの前で弁明(apolpgetics)できることを、幸いに存じます。(26:2)」それは、キリスト教信仰への反論や間違った陳述に対して、合理的な根拠を示すことを意味します。

    パウロは「ユダヤ人たちと論じた(18:19)。」「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。(19:8)」アポロもまた「聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破(18:28)」しました。私たちはここで、ミニストリーのいくつかの異なる領域を見ます。それらは訓練を必要とします。私たちは、神学校や、訓練学校、教会での訓練などでカバーされる必要があるのです。

祈り:主よ。神のみことばを宣言し、イエスの御名によって悪しき力を打ち負かしたパウロのミニストリーのように、私たちも聖霊にあって仕えることができますように。


悪に立ち向かう備えをする

1列王20:1-21:29

ほとんどの人は立ち向かいたくはありません。しかし、時に神は悪に立ち向かうように召されます。

この箇所で、アハブについて私たちは読みます。「アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。(21:25)」

最初に、私たちは悪と悪との対決について読みます。アラムの王、ベン・ハダデがアハブを攻撃しました。悪者の口から、知恵ある言葉が出てきます。「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。(20:11)」これから起ころうとすることについて豪語することは決して良いアイデアではありません。それは後から聞く方がよいことです。

それで、私たちは神の力はアラムの力に比べてどれほど大きなものであるかを見ます(20章)。

次に、私たちはアハブやイゼベルがナボテから強奪するあくどい手口を見ます(21章)。彼のぶどう畑を奪うために、彼らはナボテに故なき罪を負わせ彼を石打にして、ぶどう畑をかすめ取り、ナボテを殺すことを画策したのです。そしてまんまとぶどう畑を奪取しました。

エリヤは並外れた勇気を持つ人でした。かれは、恐れることなく、この悪事に立ち向かったのです。神はエリヤに行け、そして「アハブに立ち向かえ(18,MSG訳)」と言いました。エリヤは恐れず王が殺し盗んだことを「神を侮る、悪行だ!(20,MSG訳)」と責めました。エリヤは、神の裁きがアハブに下されることを警告しました。

エリヤの言葉は力強く、アハブは悔い改めました。「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた(27)。」神の驚くべきあわれみによってアハブは命拾いしました(29)。神の前に悔い改めるのに遅すぎることはないのです。

祈り:主よ。エリヤや使徒パウロのように、恐れずに悪の力に立ち向かうことができますように。悪に対抗する勇気を私たちに与えてください。あなたの聖霊で私たちを満たしてください。アーメン。

H.K