Tokyo Chapel

2018年1月15日

第15日

神は正しく、神はあわれみ深い

新聞の見出しに「犯罪に甘い」と判決を批判する報道がなされることがしばしばあります。被告に対して適切な罰が与えられていないという批判です。

私が法廷弁護士であった頃、寛容な裁判官は、法律家として尊敬されていなかったことに気づきました。私たちは裁判官に対しては正義を行使することを期待します。彼らが、ただあわれみ深いことを期待したりはしないのです。

一方で、私たちは個人的な人間関係においてはあわれみ深いことを期待します。両親が子どもたちに対して愛情深いこと、友人が寛容であわれみを示してくれることを期待するのです。正義とあわれみは通常は相容れないものです。それらは二者択一のものだと認識しており、「正義かまたはあわれみか」と考え、それらが同時に存在することは考えないものです。

ですが、神は「義なる神であり同時にあわれみの神」なのです。この相反する明らかに対照的な性質を神はどのように組み合わせるのでしょうか?その答えはイエスがささげた犠牲にあります。それが神が正義とあわれみの両方を兼ね備えた神であることを可能とさせているのです。

私がイエスと出会った最初の頃に、イエスが十字架の上で成し遂げたこのことを理解するために、次の小さなお話が役に立ちました。幼なじみの二人の男がいました。小さいころから大学まで彼らは仲良しの親友としてともに成長しました。やがてそれぞれの道を歩み、お互いの音信もなくなりました。男の一人は裁判官となりましたが、もう一人は身を持ち崩し、ついには犯罪に加担するようになってしまいました。逮捕されたこの男が法廷に被告として出てみると、なんと裁判官は幼なじみの親友だったのです。犯罪の証拠は確かでした。裁判官は被告が旧友と知ってジレンマに苦しみました。これは、要するに、神が負ったジレンマのようです。

裁判官は正しく判決を出さなければなりません。友人だからといって刑を軽くすることはできません。一方で、彼は友人にあわれみを示したかった。なぜなら彼は友を愛していたからです。判決の日、彼は被告の罪状に見合った確かな罰金刑を課しました。それが正義です。結審後、法衣を脱いだ彼は、被告のもとに歩み寄り、一枚の小切手を手渡しました。その額面は被告が支払わなければならない罰金の額でした。小切手を手渡すと「君の罰金を僕に払わせてくれ」と申し出たのです。それがあわれみ、愛そして犠牲の行動です。

このお話は、神の贖罪を正確には表しきれていません。なぜなら、私たちの罰金はもっと深刻だからです。それは死をもって償わなければならない罪です。また、神の愛はこの二人の男の友情よりももっと深いのです。あなたの父なる神は、あなたの両親、伴侶や子供たち以上にあなたを愛しておられます。そして、払った犠牲はもっと大きかった。それは罰金以上の犠牲です。神ご自身が、イエスという人となってこの地に来られ、私たちの罪の責めを命に代えて支払ってくださったのです。

神は決して「罪に甘く」はありません。私たちの罪に従って正しく裁く神です。そして、御子なるお方によってあわれみと愛がこの地に下されました。イエス・キリストが私たちに代わって罰を受けてくださったのです。イエスの十字架の犠牲を通して、神は正義とあわれみを実現しておられるのです。


神の義に信頼する。

詩篇9:13-20

ダビデは神が「義なる神」であることを知っていました。「主はご自身を知らせ、さばきを行われた。(9:16)」そして、あわれみを求めて叫びました。「主よ。私をあわれんでください。…あなたの救いに歓声をあげましょう。(13-14)」

この詩篇には、正義とあわれみが同時に願い求められています。ダビデは敵に対して神が義を成し、自分自身に対して神があわれみを与えてくださるように祈りました。「主よ。立ち上がってください。…国々が御前で、さばかれるために。(19)」

時に、私たちは、正義を「罰を与える」という観点から否定的な意味でとらえます。しかし、正義はもっと積極的なものです。ヘブル語の「正義(ミシュパト)」という語はものごとを正しくするという意味を持っています。ダビデが「貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。」と確信できたのは、神の正義をそのように理解したからなのです。

祈り:主よ。ありがとうございます。あなたは義なる神です。あなたの義が、今日、世界に至るところで不正に面しているすべての人々に、やがてある日、正しいさばきがなされることを感謝します。主よ、あなたは貧しい者抑圧されている者に正しくあられるお方であることを感謝します。


イエスのあわれみを受け取る

マタイ12:1-21

私たちが小包を送る時「ワレモノ、取扱注意」というステッカーを貼ることがあります。あなたは、今まで、自分自身にそのステッカーが必要だと感じたことがありますか?

イエスはパリサイ人らの律法主義を退けました(12:1-12)。それはホセアの預言の引用であり遂行でした「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない(12:7、ホセア6:6)。」正義と律法主義は同じではありません。むしろまったく逆です。イエスは安息日に病人を癒し、パリサイ的な律法主義的な律法を破り、大きな愛とあわれみを表しました(マタイ12:13-14)。

イエスこそ、義とあわれみを結合したお方です。国々に神の義を顕すために与えられた旧約聖書の約束をイエスは成就しました(18-21)。ここでマタイはイザヤの預言を引用しています(イザヤ42:1-4)。イエスは預言を成就したのです(マタイ12:18-21)。イエスは「彼は異邦人に公義を宣べる(18)。」そして「公義を勝利に導く(20)」という預言を成就したのです。

一方で、イエスはあわれみと愛に満ちておられました「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない(20)」と。いたんだ葦やくすぶる燈心は肉体的、精神的、霊的に「ワレモノ」である私たちのようです。

イエスは、私たちが弱くワレモノであっても、ご自身のあわれみ、愛、同情を今も続けて見せてくださいます。ワレモノゆえに注意深く扱ってくださるのです。

イエスはイザヤ40-55に描かれた「しもべの歌」を引用しました。これらの歌は罪の赦しをもたらすために自分自身を犠牲とした苦難のしもべがモチーフとなっています(イザヤ52:13-53-12)。

これらの「しもべの歌」に、神のあわれみと義とがともに描かれているのです。世界は正され、不義や抑圧は終わり、貧しい者や虐げられた者は解放されるのです。神は罪の赦しのためにいけにえとなられるご自身が私たちの罪の結果を背負われ罰せられました。ご自身の義をうやむやにすることなく、私たちは自由を得たのです。十字架には神の義とあわれみがともに顕されているのです。

祈り:イエス様。ありがとうございます。あなたは苦難のしもべとしてこの地に来てくださいました。そして十字架の犠牲をもって義とあわれみを実現してくださったのです。


神のいけにえを喜ぶ

創世記31:1-55

あなたは今まで、果たされることのない約束を待ち続けたという経験がありますか?また、得にならない仕事を誰からも感謝されることなく、多くの時間を費やしたことがありますか?あなたは妬みの対象となり、いわれのない攻撃を受けたことがありますか?

今日の箇所は、私たち‎に起こりそうな日常にこだましています。フラストレーションと痛みを伴う日々の状況の中で、主がいつも最終決定権を持っておられることを知ることによって大いに元気づけられるのです。

この箇所で、私たちは、まず基本的な家庭生活の崩壊を見ることになります。たぶん、ラバンは義理の息子にありがたみを感ずることなく当然のことと思っていました。確かにヤコブは彼の好意が踏みにじられたと感じたのです。「ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。(2)」ヤコブは自分の仕事を100%の努力をもって取り組みました。「力を尽くして仕えた(6)」のです。

ヤコブの就労条件は非常に過酷でした。義理の父はブラック企業のようにヤコブを働かせたのです。ヤコブは自分の過失から生じた損失は弁償しなければなりませんでした(39)。労働環境は不満足なものでした(40)。

報酬は、何度も変更されたので、ヤコブは騙されていると感じました(7)。ラケルやレアも同じような不満を覚えました。彼女たちは自分たちはヤコブに売られ、ヤコブの成功を父が羨んでいると感じていました(14-16)。

彼らが皆、ラバンに対して憤りを感じていたのは理解できます。しかしながら、彼らの態度はあまり丁寧であったとはいえません。ラバンが留守のうちに彼らはラバンのもとを去ったのです。彼らはラバンに娘や孫たちに別れの挨拶をする機会も与えずに去ろうとしたのです(26,28)。そのうえ、不可解なことに、ラケルは夫に告げずに父から盗みを働きました。

それにもかかわらず、神はヤコブを祝福しました。「しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。(7)」ヤコブはラバンよりも裕福になりました。それは「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。(3)」と約束された神がヤコブを召されたからです。ヤコブは正しく一生懸命働きましたが、彼が取った方法は正しくありませんでした。一方、神はラバンに対しては「あなたはヤコブと事の善悪を論じないように気をつけよ。(24)」と忠告を与えていました。それがなければ、42節でヤコブが言ったように、ヤコブは何も手にすることなく去らねばならなかったでしょう。

最後には、彼らは落ち着くべきところに落ち着きました。これらのやり取りの中に、やがて起こるべきことの予表のヒントを見ることができます。ヤコブもラバンも義なる神(53)を見ていました。そしてそこには犠牲(54)がありました。

彼らが神の義を求めた時、彼らはいけにえを献げました。私たちはもう一度十字架を思い起こしましょう。その場所にこそ、神の義とあわれみがともにあるのです。

祈り:父よ。どのようにあなたに感謝と賛美をささげればよいのでしょう。あなたが正しくあわれみに満ちたお方であることを感謝します。イエスがいけにえとなってくださいました。私が不当な扱いを受けるときにも、あなたを見上げ、守りとあわれみを受けることができます。あなたがあわれみ深いお方であるように、わたしもあわれみの人となることができるように助けてください。アーメン。

H.K