2019年4月28日
第118日
終わってはいない
きっと針が落ちる音も聞こえたことでしょう。皆が魔法にでもかかったように魅了されました。ほとんど目が見えない85歳のその人は、1500人の教会のあらゆる年齢の聴衆に向かって語りました。彼はノートを見ることもなく、もちろん、ノートがあっても見ることができないのですが…。彼は、それぞれ1時間づつ、2つの講演を語り終えました。
最初の講演では、息を呑むような旧約聖書全体からの要約を話し、第二の講演では、同じように見事な新約聖書全体からの要約を話しました。よどむことなく、詰まることなく、適切なことばを用いて話しました。生涯を通して主に心を尽して従ったこの人の知恵が凝縮されていました。
レスリー・ニュービギン主教は20世紀において最も注目すべき働きを為した人物の一人です。36歳で南インドの新しい教会の最初の主教の一人として選出されました。彼がインドから戻った時、それから一生の間、何冊もの本を書きました。それは、世界が急速に変化し、神を必要としないかのように見える中で西洋の教会が宣教を成し遂げていくのを助けることが目的でした。
彼の著作や講演は世界中の何千というキリスト教指導者に影響を与えました。しかし、一生の間に数多くの業績を残した、この卓越した人物にとって、それはまだ終わってはいません。彼の自伝には「未完成の課題」という題がつけられています。彼にとって、さらに希望しなければならないこと、もっと成し遂げなければならないものがいつもあったのです。
ビジョンを持つ者に終わりはない
詩篇52:1-9
あなたは悲劇や抑圧の最中にどのように反応しますか?そのような時、人はパニックや引きこもりに陥り、希望を喪失し、そして、あきらめてしまいたくなります。
ダビデはビジョンを持つ者でした。ビジョンとは承服できない状況と、その中で何が可能かという組み合わせの中で生まれるものです。ダビデはビジョンをつかみました。そして、もしあなたもビジョンを持つならば、いつもこう口にすることが出来るのです。「まだ終わってはいない」と。
ダビデはその生涯において多くを成し遂げましたが、いつも圧迫の中に置かれていました。この詩篇は深い挫折の後で書かれたものです。ダビデはサウルから身を避けなければなりませんでしたが、エドム人ドエグは裏切ってサウルに密告しました。そしてダビデが移動した後で、サウルの追っ手がアヒメレクの所に到着し、アヒメレクとその家の者たちが殺されてしまいました(1サムエル21-22)。
欺く者(52:2c)、偽り(3b)やごまかし(4a)によって破壊がもたらされる時に、私たちがどのように状況を取り扱えば良いのかをこの詩篇は教えてくれます。この詩篇を書いた時にダビデがドエグをどう思っていたかを察することができます。ダビデは7節にあるような表現を用いました。「見よ。彼こそは、神を力とせず、 おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。(7)」これは、その当時の状況に響く言葉です。
このような悲劇と圧迫の中にあってダビデは希望を失ってはいませんでした。ダビデは神にあって終わってはいないことを理解していました。「神はおまえを全く打ち砕き、 打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。(5a) 」とドエグに対するさばきは「終わっておらず」、そして「しかし、この私は、 神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。(8a)」とダビデへの神の恩寵も終わっていないという希望を告白したのです。ダビデは神により頼みました。私たちはダビデの応答から何を学ぶことができるでしょうか?
- 神の愛への信頼
「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。(8b)」神の愛は尽きることがありません。 - 神の為される業への賛美
「私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。(9a)」神が扉を開くまで、玄関で賛美しましょう。 - 御名にある希望
「私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。(9b)」神と共にあって、あなたを取り囲む環境があなたを打ち負かすことはできません。まだ終わってはいません。神の御名に希望を置きましょう。
祈り:主よ。私の心にあなたが置いてくださった夢と幻のゆえに感謝します。私がすべての試練や反対に直面する時、あなたの尽きることのない愛に信頼し、将来のためにあなたに希望を置くことができますように。
イエスのために終わってはいない
ルカ24:36-53
イエスが十字架にかかられた時、事態は最悪に思われました。イエスも、弟子たちもすべてが終わったように見えます。
しかし、それは終わりではありませんでした。まだ神は完成していませんでした。神はイエスを再びよみがえらせたのです。この箇所で、イエスは弟子たちに現れ、言いました。「平安があなたがたにあるように(36,NIV訳)」彼らはまだ「取り乱し」「疑い」を持っているようでした(38)。イエスは彼らにご自身が現実に生きているという非常に確かな証明を与えました。
「わたしの手を見なさい。わたしの足を見なさい。現にわたしです。私に触ってみなさい。頭のてっぺんから足のつま先までご覧なさい。幽霊だったらこのように筋肉や骨はありません。(39,MSG訳)」
イエスは二千年前にこの地に生まれ死なれたという歴史上の姿以上のお方です。今日のこの日も生きておられ、ここにおられるのです。
弟子たちはイエスが生きておられることを理解した時に、喜び驚きました(41)。焼いた魚を一切れ食べてから(42)、イエスは彼らに言いました。「あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。(44)」
イエスが彼らに「このようにして彼らの聖書を読む方法(45,MSG訳)」をお示しになった時、私たちにもそのパターンを定めておられます。これが、いつも旧約聖書を読もうとする時にはイエスのレンズごしに読まなければならないという理由なのです。
イエスはご自身の使命のこの部分を完全に成就されました。それらは旧約聖書に先に記されていたことでした。しかし、イエスの課題はまだ達成されていません。
イエスの弟子たちには任務がありました。「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(47)」今、主の弟子である、あなたも私も、「あらゆる国の人々に」イエスについて告げるという務めがあるのです。それは「罪の赦しを得させる悔い改め」について語ることです(47)。この部分の課題を成していく為には聖霊の力が必要です。イエスは「いと高き所から力を着せられる(49)」ことをあなたに約束して下さいました。
新しい課題が設定され、イエスは「手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから(天へと,NIV訳)離れて行かれた。(50-51)」イエスが天に引き上げられた後で、肉体的には存在していないのに、彼らはイエスが彼らとともに居ることを知って、イエスを礼拝したということは興味深いことです(52a)。彼らはそれから「非常な喜びを抱いて(52b)」エルサレムに引き返しました。イエスと彼らの最後の時は、同時に非常な喜びに包まれた最初でもあったのです。
ペンテコステの日に彼らはイエスが約束されたものを受けました。彼らは聖霊に満たされ、イエスの与えてくださった新しい課題が始まりました。今、全世界で、イエスの課題は、イエスの弟子たちによって実行に移されています。それはまだ完成には遠いですが、あなたも私もイエスの未完成の課題を成し遂げていく働きの一部を担うことができるのです。それはまだ終わっていません。やがてある日、それが完成し、それからイエスは戻ってこられるのです。
祈り:主よ。私の人生をあなたの大いなる、未だ達成されていない課題のためにおささげします。聖霊が私を整え、この務めのために力を与えてくださることを感謝します。
「やり遂げる」者のためにまだ終わっていない
ヨシュア13:1-14:15
何かをやり遂げようとする人であるなら、やり遂げなければならない課題を持っているのです。あなたはこう言うことができます。「それはまだ終わっていない。」
私たちは再び、「未完成の課題」というテーマをヨシュアの人生に見るのです。神はヨシュアに「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(13:1)」と言いました。
ヨシュアの例から思い巡らしましょう。ヨシュアは心を尽して主に従いました。またカレブもそうでした。彼は「私の神、主に従い通した」(14:9)という言うことができました。「彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。(14)」
カレブは40歳の時に神に従った(7)だけではなく、85歳になっても変わることなく主に従ったのです。(10,この年齢はレスリー・ニュービギンが圧倒的な講話をしたのと同じ年齢です。)これはチャレンジです。あなたの最初の愛を失うことなく、あなたの眼をイエスに留め続け、やり遂げるために。
カレブがこのように保ちえたのは「力」です。それは肉体的な力のみならず、彼の内面的な人格の力です(11)。しかし、神に全面的に自分自身をささげる全ての人のために、イエスがあなたや私に約束して下さった聖霊の内なる力があるのです。イエスの新しい課題を達成することを探求するように召されたあなたが、それをやり遂げるには聖霊による内なる力が必要なのです。
祈り:主よ。私がやり遂げることが出来るように助けてください。私の人生の最期の時に「私の神、主に従い通した」と言うことができますように。どうかイエスの新しい課題を理解することを求めるため聖霊の内なる力をもって私を満たしてください。そして、すべての国々に主の御名によって福音が告げられますように。アーメン。
H.K
References
John Stott, Issues facing Christians Today, (Zondervan, 2006) p.368.