主の臨在の力
ウェリントン公爵はかつてナポレオンについて次のように語りました。「ナポレオンが戦場にいるだけ4万人の兵士たちは全く違ったと決まり文句のように言ったものだ。」強力な指導者の存在は心強いものです。神の臨在の力ほど目を見張るインパクトをもたらすものがあるでしょうか。
私たち皆の心には深い霊的な飢え渇きがあります。それはただ神ご自身がおられることによって満足を得るのです。アダムとエバは自分たちの罪のために神の臨在のこの感覚を失ってしまいました。それ以降、神の臨在はそれ以前のようにはわからなくなってしまいました。
神は聖です。私たちは神の臨在を当然のものと思ってはなりません。神の臨在に至る方法はイエスの十字架と復活を通してのみであり、賜物としてあなたのうちにおられる聖霊がそれを可能にしてくださるのです。今、あなたは主がともにおられることを知ることができるのです。
神の臨在は私たちの隠された罪をあらわにする
詩篇90:1-10
私はアルファのスモールグループにいた一人の男性が「自分は罪という概念を理解することが出来ない」と言ったことを覚えています。なぜなら、彼は「素敵な生活を送っているし、自分の生活に何一つ間違ったと思えることはないから」と言いました。数週間後、アルファ・ウィークエンドで、彼はイエスに出会い、聖霊に満たされました。彼は涙を流しました。彼は今までの彼の生活がどれほど罪深いか、そして自分が赦されたことがどれほどかが分かったと言いました。
神の臨在の光は私たちの心の暗闇、すなわち「自分自身にさえ隠したいと願う罪」を照らします。詩篇の作者は言います。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。…あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に(あなたの臨在の光の中に,NIV訳)置かれます。(1,8)」
神の臨在の内に私たちが時間を費やせば費やすほど、光はより輝き、私たちの罪をより際立たせます。使徒パウロは初期には自分自身を「使徒の中では最も小さい者(1コリント15:9)」と書き記しましたが、のちになると自分を「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私(エペソ3:8)」と呼び、ついには、「罪人のかしら(1テモテ1:16)」と自分自身を書き記しました。
パウロは時と共に悪くなっていったというのではありません。神の臨在の偉大な力を通して、彼は自分の心を照らす光がもっと強くなり、もっと自分を知るようになったことに他ならないのです。それは一見とても否定的に見えますが、実のところパウロにとっては全く反対でした。彼の圧倒されるような感覚は感謝と賛美でした。なぜなら、たとえどんな間違いを犯しても、彼は自分が赦されており、神との関係を知ることが出来たからです。
クリスチャンとして、私たちは永遠まで続くその関係を楽しみにすることができます。神は永遠です。「とこしえからとこしえまであなたは神です。(詩篇90:2b)」しかし、私たちは人間の命のはかなさをもまたよく知っています。詩篇の作者は私たちが死ぬべき運命にあり、ちりに帰る(3)存在であることを思い起こさせます。青々と茂る草のようでも、夜にはしおれて枯れてしまうような存在であり(5-6)、私たちの寿命は通常、七十から八十歳ほどのものです(10)。
神の永遠性はご自身の特質の一部です。私たちにとっては、永遠の命は自動的ではありませんし、自然なことではありません。「罪の支払う報酬は死です。」しかし、永遠の神からの賜物が「私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命」なのです(ローマ6:23)。
祈り:主よ。イエスの血が私をすべての罪と不義をきよめてくださったことを感謝します。イエスを通して、神の偉大な臨在につながることができますことを感謝します。
神の臨在は聖霊の力を通して来る
ローマ15:14-33
神の臨在は私たちの人生と他の人の人生を劇的に変化させます。神は私たちの言葉と私たちの行動の両方に力を与えます。神はしるしと不思議をもって働かれます。これは初代教会の特徴でした。これは今日、私たちの教会の特徴でもあるべきです。
パウロがこの偉大なローマ人への手紙を締めくくるにあたって、彼は自分自身の個人的な召しについて話しています。「神が私に与えた任務に特に焦点を当てると、ユダヤ人ではない外部の人の霊的必要に仕える祭司的な福音のこの働きは、それゆえ彼らは神に受け入れられるささげものとなることが出来るのですが、きよい神の聖霊によって、保全され聖とされたのです。(16,MSG訳)」
数ある中でも、祭司は民の代表として神に向かい、神の代わりに人々に向かう人です。このような感覚において、私たちは皆、今は祭司です。あなたが神からのメッセージをこの世界に取り次ぐ時はいつでも、そして、あなたが、教会外の人々がキリストのもとへ来るように神にとりなし祈る時は、あなたは祭司的な奉仕をしているのです。そして彼らがそのようにするとき、彼らは「聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物(16)」となるのです。
パウロが熱望したことはキリストをまだ知らない場所で福音を宣べ伝えることでした。ですから、彼は他人が据えた土台に建てたくはなかったのです(20-21)。彼はそれを「神に従って異邦人を導くこと」によって行いました(18)。彼は「キリストの福音をくまなく伝えた(19)」のです。
彼の福音宣教は全般的でした。イエスのように、言葉で告げ知らせることには、神の国がすでに入り込んでいることを示すことと一緒にでした。それは三つののことがらを含んでいます。
- .ことば(Word)
福音は世界で最も力強いメッセージです。パウロは福音を宣言しました。「…ことば…により(18)」 - 働き(Work)
福音宣教はただことばだけではなく、行動によることが含まれます。「ことばと行いにより(18)」たとえば、パウロはここで私たちが見るように貧しい者に代わって行動しました。彼は記します。「聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。…物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。(26-27) - 不思議(Wonders)
パウロの福音宣教は聖霊の超自然的な力を示すことも含まれました。「しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。(19)」
人々は彼らが聞いたことによってよりも見たことによってより関心を持ちました。ことわざに「百聞は一見に如かず」とある通りです。パウロは、施しと奇跡という目に見える二つを与え、一つの耳で聞こえることばの福音を与えました、
ペンテコステの日に聖霊が注がれたことは、神の臨在の大いなる注ぎをもたらしました。神はご自身の民の中にご自身を顕します。神はあなたの心に臨在を与えます。最高なことに、神はご自身の共同体の集いに顕してくださるのです。(たとえば、マタイ18:20)
祈り:主よ。あなたは私たちのうちにご自身の偉大な力を顕し、今日のあなたの教会を回復してくださるように私は祈ります。再びあなたの聖霊を私に注いでください。私が語ることば、私が為す業、そしてしるしと不思議の力によって人々があなたのもとに来て、あなたに従うようになり、劇的な人生の変化を見ることができますように。
神の臨在は尊敬を求める
1歴代12:23-14:17
神の臨在を当たり前のことだと思ってはなりません。主はあなたと共におられます。今も、いつでも、それはあなたの内におられる聖霊によるのです。
網はご自身の民にこの尋常ではない特権を準備されました。旧約聖書で、神の箱は神の臨在の象徴です。私たちはこれがどれほど重要なのかをこの箇所で見ます。
ダビデは彼のリーダーたちに助言を求めました。「もしも、このことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら、…私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。…すると全集団は、そうしようと言った。…ダビデと全イスラエルは、…上って行き、…神の箱を運び上ろうとした。…ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。(13:1-8)」
神の箱は金で覆われており、他の物と一緒に、十戒が書かれた石の板が収められていました(ヘブル9:4)。神殿を中心とした礼拝の制度すべてにおいて神の箱はもっとも聖なる物でした。それは基本的に神の偉大な臨在の象徴として供され、神の栄光の雲がその上にとどまりました。(1歴代13:6、参照として出エジプト25:22、1サムエル4:7)。
一方で、神の臨在は大いなる祝福をもたらしました。神の箱がオベデ・エドムの家に三か月間とどまった時、「主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。(1歴代13:14)」他方、その扱いは敬意を払うことが求められ、不遜に接するなら裁きを受けることになりました(9-10)。
ダビデは神と神の臨在への大いなる敬意と畏れを持っていました。その結果、神は彼の家族と「彼に属するすべてのものを祝福された(13)」のです。ダビデは彼の指導者としての立場は主から来たものであると知っていました(14:2)。彼は常々から、自分は何をすべきかと神の導きを尋ね求めました(10,14)。それで「神は彼に仰せられた(14)」のです。
その結果、「ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。(17)」のです。「恐怖」という言葉は「大いなる尊敬」を意味します。ダビデは神の臨在を尊んだので、神は、皆がダビデを尊敬するという方法によって、彼に栄誉を与え、彼に油注ぎを与えたのです。
祈り:主よ。感謝します。私たちの主イエス・キリストの血潮によって、私は大胆に確信をもって御座に近づくことができます。聖霊によって、あなたは、私があなたの臨在の中にいつもとどまることができるようにしてくださいましたことを感謝します。アーメン。
H.K