Tokyo Chapel

2019年11月12日

第316日

信仰とは何か?

私は大学で法学を学びました。そして何年間か法廷弁護士を務めました。私は多くの刑事訴訟に携わりました。そこでは判事は陪審に評決に出すように求めます。しかし、彼らは、「彼らが確信を得るに足りる」までは有罪判決を出すことはできません。そのようなすべての評決は信念の証となる行為です。陪審は犯行現場には居なかったのです。彼らは証拠を信じなければなりません。

信仰と「確かなもの」は反対のものではありません。ヘブル人への手紙の作者は言います。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11:1)」聖アウグスチヌスは書きました。「神は私たちに、理由もなく神を信じることに服従することを期待していません。しかし、私たちの理由のまさに限界が信仰を不可欠なものとするのです。」


信仰は真の満足への道

箴言27:15-22

「私は満足を得ることができない」と1965年にミック・ジャガーは歌いました。そのローリング・ストーンズの歌は人間の心をこだましているようです。私たちはやってみて、やってみて、やってみる。しかし、人間の目は「飽くことがない。(20)」どこに満足を見出すことができるのでしょうか?

この箇所は実際的な知恵に富んだ内容を持っています。それは「口論好き」に対して警告します(15-16)。いかに友情が私たちの効力を高めることが出来るかを指摘します。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。(17)」

信仰は主に仕えること、すなわち私たちの主に気を配ることを意味します。「いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉れを得る。(18)」

作者はさらに続けて、「よみと滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。(20)」「地獄はがつがつした食欲を持っている。そして、情欲は絶えることがない。(20,MSG訳)」真の満足はイエスにある信仰を通してもたらされます。イエスは言いました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」

作者は賛辞をどのように取り扱うかという重要性について、興味深いことを指し示します。「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。(箴言27:21)」

信仰の人は、私たちが得るどのような成功も神がいつもその出処であることを認識しています。神が私たちを創造し、私たちにもたらされる賜物と機会を与えるのです。

人々があなたを誉める時、それをあなたの頭に冠してはなりません。人々があなたを非難するとき、あなたの心に持って行ってはなりません(19)。

祈り:主よ。私が信仰の命を生きることができますように。あなたを私の主として見つめ、日々あなたにすべての栄光を帰し、あなたに仕えることができますように。


信仰は神を信頼すること

ヘブル11:1-16

「存在の基本的な事実とは、この神への信頼、すなわちこの信仰が、生きる価値を人生にもたらす、すべてのものの堅固な基礎です。それは私たちが見ることが出来ないものを把握します。信仰の行為とは、私たちの先祖を区別したもので、彼らを群衆よりも上に挙げました。(1-2)」

この信仰は具体的にどのようのものでしょうか?

  1. 信仰は理解を導く
    「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(3)」聖アウグスチヌスは指摘しました。「信仰とは理解への第一段階である。理解は信仰の報酬である。それゆえ、あなたが信じることができるかもしれないものを理解しようと探究するのでなく、あなたが理解できるかもしれないものをあなたは信じるのです。」
  2. 信仰は神を喜ばせる
    エノク神を喜ばせました。その結果、彼は「完全に死を飛び越して(5,MSG訳)」いきました。作者は続けて説明し、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。それはなぜでしょう?神に近づきたいと願うものは誰でも、神が存在することと、神を探し求める者に神が十分に応えて面倒を見てくださることの両方を信じなければならないからです。(6,MSG訳)」
  3. 信仰は神との親密な関係を導く
    「信仰によって、ノアは渇いた土地の真ん中に船を建造しました。彼は、彼が見ることのできなかったことを警告しました。そして、彼が語られた通りに行動しました。…その結果、ノアは神との親密な関係に至ったのです。(7,MSG訳)」
  4. 信仰は神に「はい」ということを意味する
    「信仰の行動によって、アブラハムは、やがて彼の家になるであろう知らない所に旅をするようにという神の召しに『はい』と言いました。そして、彼が言われたことを行ったのです。彼が旅立った時、彼はこれからどこに行くのかを知らなかったのです。(8,MSG訳)」真の信仰は従順へと献身させます。

    アブラハムが栄華を極めるカルデアのウルを旅立ちました(2006~1950 BC)。彼は神の召しを聞き、そして「従い」「行きました」(8)。彼は「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。(8)」しかし、彼は、誰が彼と一緒に行くのかを知っていました。彼の信仰は自分に、家族に、国に、そしてあなたと私に祝福をもたらしました。

    彼は、証拠が反対方向を指さしている時でさえ神を信頼しました。アブラハムの最も大きな失意は自分の妻が長い家系を引き継ぐための子を儲けることが出来なかったことでした(創世記11)。私たちはアブラハムの家族が「死んだも同様(ヘブル11:12)」であったのを読みます。

    アブラハムは神を信じました(ローマ4章参照)。それは彼が全然疑わなかったということではありません。実際は、人間的な意味では神の約束の成就を待つのに飽き飽きし、疲れ果てていました。感謝なことに、神は私たちを、私たちのしくじり、失敗、へまを土台にして裁くことはないのです。神はアブラハムの確立した信仰の態度をご覧になったのです(ローマ4:3,18)。
  5. 信仰はこの人生の向こうを見る
    アブラハムは長期的な視野を持っていました。私たちは「インスタント」の文化に生きています。すべてのものが即時的な満足についてです。アブラハムのその中に長年生きていました。彼は「他国人のよう(9)」でした。

    彼は天幕に住みました。しかし、彼は神が彼を召したところを知っていました。彼は、彼の信仰の足取りを通して彼が残してきたものを振り返ろうとしませんでした。むしろ「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。(10)」

    アベルの信仰もまた、持続的な影響を与えました。「…彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(4)」

作者は締めくくります。「これらの人々はみな、信仰の人々として、約束のものを手に入れることなく、しかし信じて死にました。…あなたはなぜ神がそれほど彼らを誇りにしたのかが分かります。そして彼らが待っていた都があることが分かるのです。(13,16,MSG訳)」

祈り:主よ。私は今日あなたに喜んで欲しいのです。私は熱心にあなたを探し求めます。


信仰とは忠実であり続けることを意味する

エゼキエル22:23-23:49

もしあなたが神に背を向ける社会に住んでいたら、あなたはどうしますか?あなたの周りの人々が不忠実出会った時、どのようにしてあなたは神に忠実でおれますか?あなたはあきらめて、彼らに加わるでしょうか?あなたは彼らを裁き、非難するでしょうか?それとも神の民には他の道があるのでしょうか?

神の言葉が再びエゼキエルに臨みました。神の関心は典型的です。「ゆすりはおびただしい。盗みは蔓延している。貧しいものや困窮している者は虐待され、寄留者は意のままに粗末に扱われている。誰も正義とつながることなく(22:29,MSG訳)」

彼はエルサレムとサマリヤの罪を「もっと、もっとしたい(23:19)」「情欲に狂った(12,MSG訳)」というようになった二人の娼婦のように描いています。

罪の性質と依存症は、それに満足できないということを意味します。行動がもっともっと過激になっていくのです。人々は神を愛するため、そして神に忠実であるように生まれてきたのです。その代わりに間違ったことをしたいという欲望に焦がれたのです。

聖書の中にこのような衝撃的であからさまな描写があることに驚かされます。しかし、神はこれらの不快なイメージを通して人々が自分たちの罪の実態のすべてを把握することができるようになさり、神がそれを見ることがどれほど痛みを覚えるかを示されたのです。

問題の根は彼らの主に対する不忠実さです。「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分のみだらな行いと、淫行の責めを負え。」

神を忘れることは信仰の正反対です。それはこの箇所に描写されているおぞましい結果へと導くのです。

しかし、エゼキエルは神に忠実でした。彼は続けて神のメッセージを告げ知らせました。神が探していたのは彼らの為にとりなしする誰かでした。そして「わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者(22:30)」でした。これは神の民のための忠実な方法でした。

多くの人々が、何年にもわたって私たちのために定常的に祈っていると言ってくれることは本当にありがたいことです。私たちは教会に24-7祈りの部屋を持っています。祈り、とりなすために人々が駆り立てられるやり方に、私はワクワクします。

祈りは本当に違いを生み出します。とりなしはあなたが出来る最も重要なことの一つです。祈りととりなしはあなたの生活の中で優先しましょう。

性的な欲求は、根本にあるものは親密さのための欲求であり、私たちと神との関係を通してのみ満足することが出来るのです。エゼキエル書のこの箇所は、現代、多くの人々にとって、まさに問題である性的な依存のあらゆる形態に合致するものです。「神を求める者には報いてくださる方であること(ヘブル11:6)」を信じて祈ることは、その答えの重要な部分です。

あなたの目をイエスから離さず、イエスを信頼しましょう、イエスにとどまりましょう。あなたの心を尽くしてイエスに仕えましょう。信仰の生活を生きましょう。イエスに忠実であり、他者のために誠実に祈りましょう。これが本当の満足に満ちです。信仰は神を喜ばせるのです。

祈り:主よ。私の信仰を増してください。アーメン。

H.K

References

Rolling Stones, ‘(I Can’t Get No) Satisfaction’, (Decca Records, 1965), Lyrics by Keith Richards and Mick Jagger, Published by ABKCO Music and Records Inc.