Tokyo Chapel

2019年11月23日

第327日

神はどこにいる?

エリ・ヴィーゼルはルーマニアでユダヤ人家庭に生まれました。彼がまだ十代の頃、彼と家族はナチスに捕らえられ最初はアウシュヴィッツにそれからブーヘンヴァルト強制収容所に送られました。彼の著書「夜(Night)」に、彼が経験した恐怖と彼が忍耐した日々増し加わる戦慄を克明に説明しています。両親の死、そして8歳の妹の死、そして野蛮な手によって彼の純真さが損なわれていくことです。

本の前書きで、フランソワ・モーリアックがエリ・ヴィーゼルに出会ったことを記しています。「あの恐ろしい日々のうちでも恐ろしい日、この子どもはもうひとりの子ども…彼が言うには、不幸の天使のような顔をしていたとのことである…に対する絞首刑(そう、文字どおりの!)に立ち会ったのであるが、彼はその日自分のうしろでだれかがこう言って呻くのを聞いた。『神はどこだ。どこにおられるのだ。』そして、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えていた。『どこだって? ここにおられる・・・・ここに、この絞首台に吊るされておられる。』」

フランソワ・モーリアックはさらに続けて、「そして、神が愛であると信じる私は、私の若い対談者に何か答えがあっただろうか…わたしは何を彼に語ったのだろうか?私は他のユダヤ人について、つまり彼とよく似ている、この十字架につけられた兄弟について彼に言っただろうか?そしてその兄弟の十字架が世界を勝ち取ったことを?」

「彼の信仰にとってつまづきの石となったものが、私にとっての礎の石となったということを私は彼に説明しただろうか?そして、十字架と人間の苦難の間にあるつながりには、私の視点では、彼の少年時代に信じるものが失われたということの中にある底知れない謎への鍵はまだ残っている。…それが、わたしがそのユダヤ人の子どもに向かって言うべきことであった。しかし、ただ私が出来たのは、彼を抱き寄せ泣く事だった。」

彼の言葉は「どこに神はいる?」という質問に対して神はキリストの内におられるという最も深遠な答えが指し示されています。イエスは私たちの罪をその身に背負って十字架にかかられました。今、十字架はご自身の民の内にあります。イエスがただあなたの為に十字架にかかられただけでなく、今イエスはあなたと共に十字架にあるのです。

旧約聖書において、幕屋(そして後には神殿)は人々が神と会う為の場所でした。これは、今日私たちが旧約聖書の箇所で見るように神の家でした。(エゼキエル43:5)

しかし、新約聖書の箇所のメッセージは、神の栄光と臨在はイエスの内に最高に見出されるということなのです。イエスが拒絶され十字架につけられた、まさにその瞬間にこそ、民のうちにある神の臨在は最終的に完全に理解されるのです。その時点から目に見える神殿はもはや必要なくなったのです。新約聖書で教会が建てられるということは、その礎石であるイエスを土台としてその上に人々を立て上げることについてだけ語られています(エペソ2:20-22)。新約聖書における聖なる神殿は「生ける石(1ペテロ2:5)」によって建てられるのです。言い換えれば、あなたや私のような人々です。これが神の新しい家なのです。


神の家を見出す

詩篇132:1-18

ダビデの心の願いは神に栄光を帰することであり、それは何にもまして物質的な安泰をしのぐものでした。「私は家に帰ることはない。そして私はベッドに就くことはない。私は眠ることはない。休む時間を取ることすらしない。私が神のための家を見出すまでは(3-5,MSG訳)」

人々は言いました。「さあ主の住まいに行きましょう。主の足台で礼拝しよう。立ち上がってくださり。おぉ主よ。そして、あなたの休み場に来てください。…主はシオンを選ばれたので、主はシオンをご自身の住みかとして望まれる。(7-8)」神は言いました。「…これはいつも私の家となるだろう。(14,MSG訳)」

祈り:主よ。私はあなたの臨在を切に望みます。あなたの足台で礼拝することはなんと素晴らしいことでしょう。ペンテコステの日に聖霊が注がれた時、あなたの臨在はあなたの民の中に住むために来られたことを感謝します。


イエスに神を見出す

1ペテロ2:4-25

イエスがすべてを変えます。

イエスは、民によって建てられた新しい家の礎石です。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。(4-5a)」

イエスは礎の石でもあり、つまずきの石でもあります(7-8)。今日も未だに多くの人々にとってイエスはつまづきの石です。しかし、もしあなたがイエスをあなたの人生の礎石として、あなたの信頼をイエスに置くなら、あなたは「決して失望させられることがない(6)」のです。

ペテロは、私たちはイエスの周りに建てられる霊的な家を構成する生ける石として召されているのだと、すべての信じる者たちに言っているのです。神の家族としての教会のこのイメージに最近私は心打たれました。あなたがイエスに出会う時、あなたはに帰ってきたのです。

これらの節はこの移り変わりの全体を様々に描写しています。「しかし、主のためにこの働きをし、呼ばわる神の道具として、何もないところから何かを、拒絶から受容を、あなたのために主が創られた月とすっぽんほども違う変化を、他の人々に告げるため、あなたは神に選ばれた一人です。祭司的な働きのために高度に召されたために選ばれ、聖なる人々として選ばれたのです。(9,MSG訳)」

この光の中で、あなたを取り囲む世界に異なる者として生きなさい。「友よ。この世はあなたの家ではありません。ですから、そんなところでくつろいでいてはならないのです。(11,MSG訳)」

私たちは神の民です。あなたはあわれみを受けました(10)。今、あなたは自分の手で戦うのです。それはとても現実的です。あなたはあなたの魂に反する戦いである罪深い欲求を慎まなければなりません(11)。

悪行を責められることにあえて驚くにたりません(12)。神に栄光を帰する人生を生きることを追い求めなさい。これは権威を尊敬すること(13)、善行をすること(15)、あなたに出会うすべての人を尊厳を持って接すること(17,MSG訳)、あなたの霊的な家族を愛すること(17,MSG訳)、報復しないこと(23)、良いことのゆえに迫害されること(20)そして、「正しくさばかれる方(23)」を信頼することを含みます。

私たちが罪深い人間である時、これはどのようにして可能となるでしょうか?ペテロの答えはイエスを指し示しています。「彼(神)は、私たちが罪を追い払うことが出来、正しい道に生きるように解き放つように、ご自身のしもべの身体を十字架で私たちの罪を担わされるために用いられました。彼の打ち傷はあなたの癒しとなりました。(24,MSG訳)」

イエスはすべてを変えます。ペテロはイザヤ書53章から描きます。それはメシアがご自身の民に代わって死ぬであろうことを予言しています。これは礎の石が拒絶され、これがあなたの信仰の土台となることを、そして、これがあなたがどのようにして神の臨在に戻っていくことができるのかを意味しています。十字架という、苦難の場所は救いの場所となったのです。

祈り:主よ。私が神の臨在を経験できる、あなたが建てられた新しい霊の家のゆえに感謝します。


主の「家」で神を見出す

エゼキエル43:1-44:31

神の霊はイエスをあなたにとって現実のお方にします。「霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。(43:5)」

イエス・キリストは神の栄光です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

この幻の中で、エゼキエルは、「イスラエルの神の栄光(エゼキエル43:2)」であるイエスを見たのです。「その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。(2)」イエスがいるところは、その周りのものが輝くようになります。イエスの臨在にあって、私たちに皆できることは、ただひれ伏し礼拝することです(3)。「私が眺め、見ていると、主の栄光が主の家に満ちた。そして私の顔に降り注いだ。(4,AMP訳)」

たとえば、日曜日の礼拝など、礼拝に集う神の民にはいつでも、「主の栄光」が家に満ちることが期待できます。これが教会がエキサイティングで力強く、人生を変えることができる理由です。

旧約聖書の中で、彼らの罪のためにささげられなければならなかったいけにえのすべてについてあなたが読むとき、ヘブル人への手紙がそれは型であると言っていることを覚えましょう(ヘブル9章)。それらは天にあるものにかたどったもの(23)であり、後に来るすばらしいものの影(10:1)です。彼らは、「血を取って(エゼキエル43:20)」、「祭壇をきよめ、そのための贖いをし(20)」、「罪のためのいけにえ」をささげなければなりませんでした(19)。傷のない雄やぎを罪のためのいけにえとしてささげました(22)。

これはあなたのためにささげられたイエスの完全な犠牲をすべて予型しています(1ペテロ2:24)。

エゼキエル書44章の聖なる祭司は1ペテロ2:5に描かれた聖なる祭司の予型です。これは今、すべてのクリスチャンの務めです。あなたの「祭司」としての最初の務めは、自分自身をきよくすることです。それはあなたが主によって用いられることができるように自分自身をきよく保つことです。第二の務めは、あなたが教え、手本となることによって他の人にも同じようにすることを助けることです(エゼキエル44:23)。

神は今どこにおられますか?神はご自身の聖霊によってあなたの内におられます。神は、ご自身の名によって私たちが集まりお、主の前にひれ伏し礼拝し、崇め、賛美する時、そこにおられます。

祈り:主よ。私が、あなたの霊によって住んでくださる聖なる神殿であることを感謝します。きよい生活を送るためにあなたの助けがどうしても必要です。アーメン。

H.K

References

Elie Wiesel, Night, (Penguin, 1985), p.xxi.

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