人生、山あり谷あり
私はクリスチャンとして歩んできた40年間を振り返ると、聖霊の体験、神の愛、初めてイエスと出会った人々を見る喜び、驚くような祈りの答え、神の国が前進していく様子…など霊的にとても高いと感じることがありました。その一方で、荒野の体験、死別、失望、失敗、試練、反対、健康問題や疲れ切ってしまうこと…など、霊的にどん底のようなこともありました。今日の箇所で、私たちは霊的な山と谷がどれだけ密接に結ばれているかを見ます。
やがて苦難は勝利に呑まれる
詩篇22:1-11
この詩篇はイエスが十字架の上で口にした言葉の背景となりました。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになるのですか。(22:1a)」です。それは、偶然の一致というのではありません(マタイ27:46)。
詩篇22篇にはイエスが成就した十字架の死と復活が預言的に詠われています。人のそしり、民のさげすみ(6b)、あざけり(7)、「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい…(8a)」
これらの描きは十字架で苦難に遭われたイエスと重なります(マタイ27:31-46)。さらに、この苦難は勝利に向かっていきます。
今日の詩篇は谷のどん底にありながら神を信頼することの重要性を教えてくれる詩篇です(22:4-5,9)。イエスは最低の谷、十字架で神を信頼し、死に打ち勝つ力を持つお方に霊を委ねられたのです(ルカ23:46)。
もしあなたが最低の状態にあるなら、苦難で終わりではなく、イエスによって、復活と神の勝利が、最後のことばとして用意されていることを信頼しようではありませんか。
祈り:主よ。私があなたに叫んだ時、救ってくださったことを感謝します。あなたに信頼し、失望しませんでした。患難のとき、あなたを信頼し続けることができますように。
闘いと祝福を通して権威の内に成長する
マルコ1:1-28
ピッパと私は1963年のロサンゼルスでのビリー・グラハム師のビデオを見ていました。それは白黒の映像で、彼はキング・ジェームズ訳(欽定訳)聖書を用いて説教を語っていました。しかし、50年以上の歳月を超えて、そのメッセージには力がありました。最も心打たれることは、彼が権威をもって語っていることです。この権威はイエスの卓越した権威を反映しています。
この箇所に、イエスが体験した祝福と闘いの霊的な山と谷を通して、神がイエスを備えておられたことを見ます。
マルコの福音書は最も短い福音書です。そこにイエスの行動の3週間とイエスの言葉の20の記録がカバーされています。それは最も生き生きとした福音書です。それは息を吞むような興奮する出来事の連続です。それはイエス・キリストのグッド・ニュースの緊急速報です。
マルコは「すると、すぐに」をよく使います。イエスはプレッシャーがきつい生活をよく知っていました。イエスは霊的な山と谷の両方を経験しました。バプテスマの際にイエスは霊的な山を体験しました。イエスは幻を見ました。「彼は天が裂けるのを見た(10b,NIV訳)」イエスは聖霊を体験しました。「御霊が鳩のように自分の上に下られる…(10b)」イエスは神の声を聴きました。 「そして天から声がした。(11a)」イエスは子であることの保証を受け取り、神の愛が深く臨んでいることを知っていました。「あなたは、わたしの愛する子(11b,c)」イエスは神の喜びを楽しみました。「…わたしはあなたを喜ぶ。」(11d)
ここから、イエスはまっすぐに霊的な谷に向かいます。すぐに40日間の荒野での生活とサタンの誘惑に導かれます(12)。
素晴らしい霊的体験の直後に霊的攻撃があったとしても驚くことはありません。私たちはいつも人々にこれについて注意をしてきました。もし、たとえばアルファ・ウィークエンド¹で聖霊に満たされ、あなたが神の子どもであるというあなたへの神の愛の深い保証を受け取った時に、疑いや誘惑という攻撃を受けたとしても驚く必要はありません。それはしばしば後からくるものです。
私も今までの生活を振り返ると、そのことがよくわかります。そのような試練の時はとても辛く感じるものですが、私は今はそれが先に用意されているものがどれだけ顕著な恵みなのかということを認識します。
すべては神の采配のもとにあります。イエスを荒野に導いたのは「聖霊」でした。(12)そして試みたのは悪魔でした(13)。同様に、「荒野」の時と、猛烈な試みは、それは本当に真実だという保証となります。聖霊の体験は本当であり、それと同時に霊的な戦いと試練も激しいのです。
イエスはこの闘いの時期を特別な「権威」によって切り抜けました。
- 宣教への権威
イエスは福音を宣言し、弟子たちに従うように命じました。私たちが真っ先に優先すべきはイエスとの関係です。 - 導きへの権威
イエスが誰かに仕事から離れて神の国のために直接的に働かせたいなら、イエスはその人のところに行き尋ねます(17,20)。最初の弟子たちの生活は魚を取ること中心から、人々を取ること中心に完全に変えられました。 - 教えの権威
人々はイエスの教えに驚きました。彼が「権威ある者のように教えられたから(22)」です。人々は皆、お互いに顔を見合わせて驚嘆しました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。(27)」 - 癒しの権威
イエスは悪霊に憑かれた男を解放しました。悪霊に出て行けと命じる権威を持っておられました。「この人から出て行け(25)」群衆は教えに驚嘆しただけではなく「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。(27)」と驚きました。
あなたがどのようなところを通っているとしても、神があなたに備えをし、神があなたにするように召しておられること何に対してもあなたに権威を増し加えてくださることを信じましょう。
神に聖霊に満たしてくださるように再び求めましょう。キリストにあって、あなたは神の子であることを確かにしなさい。神はあなたを愛しています。神はあなたを喜んで見ておられることを知りなさい。神があなたに「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(11)」とおっしゃっている声を聴きなさい。
祈り:主よ。あなたの聖霊で再び私を満たしてください。私のことばと行動に権威が増し加わりますように助けてください。
谷から山に向かう祈りと行動
出エジプト17:1-18:27
モーセはまさに谷底にありました。民はモーセと争い(17:2)、つぶやき(3)、石で打ち殺されそうになり(4)、アマレクとの戦いも起こりました(8)。しかし神は彼らをどん底から引き上げます。どのようにしてでしょうか?
- お互いに励まし支え合う。
最初モーセは自分のために祈りました。モーセは「私はこの民をどうすればよいのでしょう。…」主はモーセに仰せられた。(4-5)。次にヨシュアと民のためにとりなしました。「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。(11)」「モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。…ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。・・・それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる(12-13,16)」
この箇所はとりなしの祈りの力と必要性を私たちに教えてくれます。また、私たちが弱った時、お互いに助けと励ましを与えあう愛の重要性を思い起こさせてくれます。
- 権限移譲する知恵。
義父のイテロはモーセにいくつかの素晴らしいアドバイスをしました(18:19)。イテロはモーセが権限移譲せず、全部自分でしていることを指摘しました。「このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。(18b)」モーセは義父の言葉を謙遜に知恵深く聴きました。全部自分でしようとするのは「良くない(17)」ことです。それは良いリーダーシップではありません。それだと疲れ切ってしまいます。「あなたは燃え尽きます(18,MSG訳)」それはまた、他の人々の賜物、時間、能力を宝の持ち腐れにしてしまいます。彼らは欲求不満を高め、あなたもそうなります。
しかしながら、権限移譲そのものが問題を解決するわけではありません。私たちには正しいリーダーが必要です。もし、あなたが間違った人物に権限をゆだねたなら、問題解決には届きません。もし、あなたが正しいリーダーに信頼して委ねるなら、あなたは管理から解放され、彼らを元気づけることができます。
モーセはイテロの助言に従いました。彼はリーダーを選ぶ際には三項目を使って選び、指名しました。第一に「能力のある人々(21a,NIV訳)」です。私たちは委譲するひとに信頼をもって委ねることができる能力をその人の内に見出す必要があります。第二に「神を恐れる(21b,NIV訳)」人、すなわち、霊的な基盤を持ったリーダーを選びました。第三はの項目は性格です。私たちは「信頼に足る(21c,NIV訳)」人々が必要です。これらは「忠実」、「分別」、「信頼」です。
モーセはリーダーたちに彼らの能力に見合った様々な責任を与えました。(千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長,21c)モーセはある一定の裁量を委ねましたがすべてではありませんでした。単純な決定は任せましたが、難しいものはそうではありませんでした(26)。その結果、モーセは「もちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに(満足して,NIV訳)自分のところに帰ること(23)」が出来たのです。
祈り:主よ。あなたとの関係を私の生活の中で最も優先することができますように。神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、彼らを働きに解き放ち力づけ、私が持ちこたえることができ、そして、人々が満足して自分のところに帰っていくことができますように。アーメン。
H.K
References
¹ アルファは気軽で格式ばらないでキリスト教信仰を探究するための一連のセッションです。各セッションでは信仰にまつわる様々な質問に関するトークがあり、活き活きとした会話が為されるように工夫されています。アルファは通常10週間で行われ、その間にアルファ・ウィークエンドが行われます。アルファについての詳しい説明はアルファ・ジャパンのサイトをご覧ください。
Alpha is a series of sessions exploring the Christian faith in a relaxed and informal environment. Each talk looks at a different question around faith and is designed to inspire conversation. Alpha typically runs over ten weeks, with a weekend away. For more information or to find an Alpha near you, visit alpha.org