Tokyo Chapel

2018年7月20日

第201日

あなたの新しい命を楽しむ

テイラー・スミス主教は、かつての従軍牧師長でした。彼は一人の青年とこんな会話を交わしました。
スミス主教:「あなたがキリストの十字架について考えるとき、何が見えるかね?」
青年:「私はキリストと二人の強盗が両側に十字架にかけられたのを見ます。」
スミス主教:「他には何も見えないかね?」
青年:「兵士たちがくじを引いているのが…。」
スミス主教:「もし、あなたが見えたのがそれだけなら、あなたのクリスチャン生活には問題が起こるだろうと思います。私が十字架を見るとき、それらすべてともに、私は古きテイラー・スミスが見えるのだよ。はキリストとともに十字架につけられたのだから。」

今日の新約聖書の箇所で、使徒パウロは「キリストとともに十字架につけられた」ことの意味を詳しく述べ、説明しています。私たちは「キリスト・イエスにある」のです。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)」「私たちは新しい恵みの国に入国しました。新しい地にある新しい命です!(6:3,MSG訳)」

私はイエスと出会ってしばらくして、次のように記しました。「私は1974年2月に死んだ。私の古い命は葬られた。これからは新しくされた命に歩む。それは実にこんな感じだ。今までの人生とは全く、完全に違うものとなったのだ。」

イエス・キリストの死と復活を通して、あなたは生きることができ、「新しい命」を楽しむことができます。今日の箇所で、私たちは旧約聖書で予見されていたことがどのように新約聖書で成就したのかを見ます。


新しい歌

詩篇87:1-7

これは賛美の詩篇です。詩篇の全篇の中でも最も問題のあるものの一つと言われており、理解するのが難しい詩篇です。それは詩的な言語で記されています。

詩篇の作者は将来の予見で締めくくっています。「踊りながら歌う者は、『私の泉はことごとく、あなたにある』と言おう。(7)」この溢れる水のイメージは豊かな人生を彷彿とします。それは旧約聖書の中では神殿における神の臨在の顕れとしてしばしば用いられます。(たとえば、エゼキエル47章)

しかしながら、イエスはこのすべてはどこかの場所においてではなく、人のうちに成就すると言われました(ヨハネ7:37以降)。心の奥底から命の水が川々となって流れるのです。私たちは今、主に向かって新しい歌で礼拝することができるのです。詩篇の作者が言うように、「私の泉はことごとく、あなたにある」のですから。

祈り:主よ。あなたの命の水の流れが私に溢れ、そして今日、私から流れ出しますように。


新しい自由

ローマ6:1-14

邪悪で影響力があったロシアの僧、ラスプーチンは彼の従者たちに回心したならば、もっと神の愛を感じることが出来、もっと赦されるように、出かけて行き、もっと罪を犯すべきだと教えました。ラスプーチンは恵みが罪を犯す弁解ではないということを理解していなかったのです。むしろ、罪を犯さない理由なのです。

パウロは実にこの課題を取り扱っています。もし、恵みがすべての罪に及び、罪が増し加わるほどに恵みが増し加わって大きくなるのであれば、私たちは「神が赦し続けるようにと罪を犯し続ける(1,MSG訳)」べきなのでしょうか?

パウロは答えています。「そんなことを願うべきではない!もし、私たちが罪が支配する国から離れたのであれば、どうして依然としてそこにある古い家に住み続けることができようか?あなたはそこを引き払って、良いことのためにそこから去ったということを認識していなかったのか?(2,MSG訳)」

今、私たちは自由です。私たちは罪を犯すという態度が過激に変えられたのです。そのように、命と死の間の違いを、過激に変えられた者である私たちは、どのようにして、いつまでも罪の中に生き続けることができるでしょうか?かつて私たちが罪の奴隷であったとき、罪の命令に従わなければならなかったものでした。しかし、今は私たちはそこから自由になったのです。

この箇所で、私たちは救いの3つの時制を見ます。

  1. あなたは罪の「罰」から「もはや」救われたのです
    パウロは過去形で次のように記します。「私たちの古い人がキリストとともに十字架に『つけられた』のは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。『死んでしまった』者は、罪から解放されているのです。(6-7)」

    私たちのための十字架の上でのイエスの死を通して、過去は完全に赦されました。あなたの罪責は取り除けられたのです。あなたのすべての罪の(それは過去、現在、未来の)はすべて「支払われた」のです。あなたはすでに自由にされたのです。

  2. あなたは罪の「現実」から「やがて」救われるのです
    パウロは「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(5)」と記します。

    あなたの救いはまだ完了していません。未来形の救いがあります。ある日、あなたは主よ一つにされ、ともによみがえり、罪の現実から永遠に自由になるのです。そして、永遠に神の臨在から何にも邪魔されることなく楽しむようになるのです。

  3. あなたは罪の「力」から救われ「つつ」あるのです
    パウロは「今から、こんな風に考えなさい。罪は死語を話します。それはあなたにとって意味のないことです。神はあなたに母国語で話しかけます。そしてあなたはすべての言葉を理解します。あなたは罪に死に、神に生きています。それがイエスがなさった業そのものです。

    それはあなたはあなたの人生をあなたが指揮するのに、罪に投票する必要はないことを意味します。一日の時間をそれに充ててはなりません。古い生き方に繋がれて使いっ走りしてはなりません。あなた自身を心を尽くしてフルタイムで投げ出しなさい。あなたが死からよみがえらされたことを思い出しなさい。何をするにも神の方法でするのです。(11-14,MSG訳)」

    イエスはあなたを自由にしました。それは罪の罪責からだけではなく、中毒的なからもです。あなたはもう罪を犯す必要がありません。「罪はもうあなたの主人ではありません(14,NIV訳)。」あなたは罪に対して死んだ者であり、神にあって生きたものだと思いなさい。あなたは罪の悪い欲求に従う必要はないのです。これは現在形の救いです。あなたは、義の道具として、イエスのからだの一部としてささげられた者として、罪の力から自由にされているのです。

祈り:主よ。あなたは私に新しい命を楽しむことができるように自由を与えてくださいました。私は今日、私のからだをおささげします。そして、私を義の道具として用いてくださるように祈ります。


新しい愛

ホセア1:1-2:23

神はあなたを無条件で、心を尽くして、ずっと続けて愛しておられます。あなたが何をしたとしても、あなたは新しい出発をすることができます。新鮮なスタート、新しい命と新しい愛です。

「ホセアは愛の預言者です。」とユージン・ピーターソンは記します。「…しかし、私たちが想定したり夢に描いたりするような愛ではありません。彼は神がご自身の民を愛することの比喩でした。かれは神の啓示として生き、それを実践的に行って見せたのです。いわば、「比喩を生きた」のです。それは心底、圧倒されるような話です。預言者は娼婦と結婚することを命じられ、そして彼女との間に子をもうけるのです。それはさらに圧倒されるメッセージです。神は私たちをこのように愛してくださるのです。私たちを得るまで、最低な私たちを追いかけて、本当の愛を何も知らなかった私たちと睦み合うようになるのです。」

ホセアはアモス(約 750-722 BC)の時代のすぐ後の時代に預言活動しました。彼がゴメルと結婚したのは神とイエスラエルの関係の類比することができます。神はホセアに語り掛け、言いました。
「娼婦を見つけて、その女と結婚しなさい。
この娼婦はあなたの子どもたちの母としなさい。
そして、それはなぜか。この国全体は
神である私に対して不忠実な娼館となったのだ。(1:2,MSG訳)」

イエスラエルの失敗は神よりもモノ(食物、ぶどう酒、ファッション、宝石、香水…)を追い求めたことでした(2:5,8,MSG訳)。彼らはそれらを供給してくださるのは神であることを見失っていたのです。神が求めたのは、あなたがたは第一に神を求めるべきだということです。

私たちが神よりもモノを追い求めている時、私たちの心に定まっているモノを獲得することを許してくれないと、神の答えは、私たちに欲求不満を感じさせるものです。神は言います。

「彼女は愛人狩りに出て行くだろう。
しかし、一人もしとめることはない。
彼女は上を下をと見回して
しかし、一人も見つけることはないだろう(7a,MSG訳)」

神はあなたに、夫と妻との近しさと同じように、主との関係に生きて欲しいと切望しておられます。主は言われます。「わたしは彼女をくどいて(14a)」いるのです。彼は彼女を荒野に連れ出します。荒野はしばしば神の声を聴く場所でありました。そして優しく語り掛けます(14)。「その日、―主の御告げ― あなたはわたしを『私の夫』と呼び、…わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。(16,19)」

これは、イエスとご自身の教会との関係の予型です。神は新しい愛の関係をご自身とご自身の民との間に約束しておられます(19-20)。彼らは主を知る(認める)ようになるのです。

それは愛とあわれみの関係となるのです。神は言われます。「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。(23)」

祈り:主よ。イエスの死と復活をとおして、あなたを知ることができるようにしてくださったことを感謝します。私はあなたとともに愛の関係の内に日々を歩むことができることを感謝します。あなたがご自身の愛を私たちに示してくださり、私たちをあなたの民と呼んでくださることを感謝します。私があなたを「あなたこそ私の神」と呼ぶことが出来ますことを感謝します。アーメン。

H.K

References

Eugene Peterson, The Message, ‘Introduction to Hosea’, (NavPress, 1993) p.1221.