Tokyo Chapel

2019年5月31日

第151日

あなたには神のエネルギーがある

世界はエネルギーによって活動しています。石油、石炭、ガスなどなど。私たちはどのようにして生活を維持するための効率的なエネルギーの供給を確保することができるでしょうか?このエネルギーをどこに見出せばよいのでしょうか?今、私たちは気がかりになり「上から」の力を調べようとしています。つまり、ほとんど無尽蔵といえる太陽のエネルギーを利用しようとしているのです。

私たちは皆、物理的環境と同様に、霊的なレベルにおいても問題に面しています。あなたは選択肢の前に立たされているのです。あなたの知性やあなたの起業精神に基づいて、自分自身の中にあなたに必要なエネルギーを探そうとするのか、それとも義の太陽であり、よみがえられたキリストからの「上から」のエネルギーを探そうとするのかです。

今日の箇所で、私たちは神のエネルギー、力、強さの拡がりについてみることになります。物理的なレベルで私たちが太陽の力のおこぼれさえ利用しようと葛藤している一方で、神はあなたにイエスの復活と聖霊の賜物を通して、無限のエネルギーに全面的につながることが出来るようにしてくださったのです。


それはどこから来るのか?

詩篇68:28-35

エネルギー、力、強さは神から来ます。この詩篇の締めくくりにダビデの確信が宣言されています。「イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。(35)」驚くべきことに、神はご自身の力とご自身の強さをあなたに与えると約束しておられるのです。

ダビデは「神よ。御力を奮い起こしてください。私たちのために、事を行われた神よ。御力を示してください(28)」と祈ります。対照的に、ダビデはその他の力を探し求めようとするどのような試みも卑下します。そして、この世の悪しき力に言及します「銀の品々を踏み汚す戦いを喜ぶ、国々の民を散らしてください。(30)」彼は究極的にはそのような力が神に屈服することを知っています(31)。ダビデは自分自身の経験から神の力は自分自身のすべての必要よりももっと大きいことを知っていたのです。

祈り:主よ。感謝します。あなたはご自身の民に「力と強さ」を与えてくださいます。今日、あなたのエネルギー、力、そして強さで私を満たしてください。


それはどのようなものか?

ヨハネ19:28-20:9

神はあなたに、イエスを死からよみがえらせるのに用いたエネルギー、強さ、力を同じように与えておられます。

私は教会のリーダーのためのカンファレンスで話をした時のことを記憶しています。毎日数時間の話を続け、すっかり疲れ果ててしまいました。休憩時間にエペソ人への手紙の1章19~20節をThe Messageの翻訳で読みました。「主を信頼する私たちのうちにあるご自身の全く贅沢なほどの働き、すなわち、無限のエネルギー、無限の力!キリストからすべてこのエネルギーが流れ出る。:神は死からイエスをよみがえらせた。」私は上から再びエネルギーが注がれるのを感じました。

この箇所で、ヨハネはイエスが本当に死んだことを強調しています。イエスがご自身の御業を「完了した(ヨハネ19:28a)」時、それによって、聖書のみことばを成就し(28b)、イエスは「完了した」と叫んだのです。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった(ギリシャ語では「パラドーケン」)のです(30)。

イエスの最後の行為は霊の賜物を与えることでした。イエスはご自身の霊を息を吐きだすようになさいました。やがて、イエスは弟子たちに息を吹きかけ、そしてまた、ご自身の霊を与えられたのです。

十字架にかけられた者は足の骨を砕くことによって死期を早めることが出来ました。イエスの場合、それは必要ありませんでした。なぜなら、すでに死んでいたからです(33)。「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。(34)」死に際して、血液の凝固、血清の分離が起こります。それは血と水のように見えたことでしょう。ヨハネは、イエスが本当に死んだことについて、実に医学的な証拠を提供しているのです。

イエスは本当は死んでおらず、死んだように見えただけだという議論はその当時もそして今も依然としてあるかもしれません。このような見方は「ドケティズム(仮現説)」として知られています。これは「のように見える」という意味のギリシャ語のドケオーに由来します。ムハンマド(マホメット)はドケティズムの影響を受けていました。コーランにはこう記されています。「彼らは彼(イエス)を殺さなかったし、十字架につけなかった。ただそうしたように見えただけだ。」(スーラ4:157)

ヨハネはイエスが本当に死んだことを強調しています。ヨハネは生理学的な証拠を与えています。彼はまたイエスの死が聖書の中に啓示された神のみ旨に従ってなされたものであることを示しています。「この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない』という聖書のことばが成就するためであった。また聖書の別のところには、『彼らは自分たちが突き刺した方を見る』と言われているからである。(ヨハネ19:36-37)」

イエスの脇腹から血と水が分かれて流れ出たことは、私たちには希望の象徴に思えます。「血」は私たちに注がれたご自身のいのちを象徴しています。「水」は聖霊を象徴しています。イエスの中心から流れ出る水は癒しときよめとエネルギーを私たち皆に与えるのです。

イエスの身体は、34kgの香料と亜麻布で包まれました。もし誰かが遺体を盗もうとしたなら、確かに全部盗んで行ったことでしょう。盗人が盗む価値のあるものはそこには残されていたのです。人間的に考えれば、イエスは自分で亜麻布を脱ぐことは確かに不可能でした。しかし、弟子たちは「亜麻布がそこに置かれており、頭を包んでいたスカーフは亜麻布とは別の所に、きちんと折りたたんで置かれていた。(6-7,MSG訳)」のを見つけたのです。

カンタベリー大主教であったウイリアム・テンプルは、ここで用いられている言語は非常に生々しいと指摘しています。「それはでっち上げられたようなものでも、心に思い浮かんだ幻覚でもない。」

この証拠をもって、弟子たちが見た時に、彼らが「見て、信じた(20:8)」ことは少しも驚くべきことではありません。この時点では誰もよみがえったイエスをまだ見てはいません。しかし、墓の状況証拠とイエスの身体がなかったことで、彼らには復活したことが十分に確信できたのです。

彼らは以前からイエスがメシヤ(救い主)であると信じていました。しかし、彼らの考えとは異なっていました。彼らはイエスを死からよみがえらせる神の力とエネルギーを「見て、信じた」のです。イエスは再び生き返りました。これは予期せぬ日差しです。冬は終わり春が来たのです。

新約聖書が神の愛を語る時、その焦点は十字架です。新約聖書が神のエネルギー、力、強さを語る時、その焦点は復活です。(エペソ1:19-20)私たちは正しく神に属する力について考えます。しかし、私たちは簡単に、神の力が「信じる者に働く」ことを忘れてしまうのです。(19)

イエス・キリストを死からよみがえらせた同じ力とエネルギーはあなたの内に働いているのです。

祈り:主よ。あなたの人並み外れた愛を感謝します。あなたは私のために死ぬことを意志してくださいました。あなたの復活を感謝します。そして同じ力が今私の中に生きています。今日、そのエネルギーで私を満たしてくださるように祈ります。


どのようにして私たちはそれを受け取るのか?

1サムエル29:1-31:13

あなたは、あなたが直面している問題に対処する糸口がつかめず、意気が上がらず、疲れ果てたことがありますか?

神の民にとってそれはおぞましい時です。ダビデは自分の人生で意気が上がらない状態に達しました。彼はイスラエルに対抗してペリシテ人のために闘う立場に置いたのですが、しかし、ペリシテ人でさえ、彼を必要としないと決めたのです。

ダビデが戻ってみると、アマレク人たちが彼や彼の臣下の妻たちや息子や娘たちたちを連れ去っていたのです。悲しみと怒りが入り混じった思いが爆発しました。起こった出来事に居並ぶ面々は半狂乱となり、ダビデの従者たちは不満をダビデにぶつけ、ダビデを石で撃ち殺そうと言い出しました(4-6)。

しかし、この問題の真っただ中で「ダビデは自分自身を神に信頼することによって力づけた(6b,MSG訳)」のです。これはダビデの人生の転換点となりました。ダビデのように、最も深い苦悩から神に立ち返った人々は、自分の将来を変えることが出来る速度に繰り返し驚くのです。

男たちが闘いから帰ってきた時、その幾人かは、疲れ果ててついていくことが出来なかった者たちに、彼らが取り戻してきたものを分かち合うことをしたくありませんでした(21-22)。しかし、ダビデはすべての者が神の働きの一部を担ったのだと理解する賢さを持っていました。ダビデは答えました。「兄弟たちよ。主が私たちに賜った物を、そのようにしてはならない。…戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。(23-24)」大して目立たない働きをした者も、知れ渡るような大活躍をした者もともに大切なのです。

サウルとその息子の死に記事を私たちが読むとき、彼らが生きていた世界がなんと荒々しかったのかということが明らかになります。サウルは、辱められることを避けるためにサムソンがしたような方法で自ら命を取り去ったのです。そのような危険と蛮行に面して、ダビデにとって「神に信頼して」自分を力づけることは大きな意味を持っていたのです。

ダビデの例に倣いましょう。神に力づけて頂くために時間を取りましょう。再びエネルギーを与えて頂き、心を尽くして神に信頼し、主の例によってあなたの内に神が住んでおられることを信じ、主を通して、する必要のあることは何でもできるのだと信じるのです。

祈り:主よ。大きな試練に直面し、気力を失ってしまっても、生活の通常の葛藤にただ面している時であっても、私たちの神である主の内にすべての力とエネルギーを見出すことができることを感謝します。アーメン

H.K

References

William Temple (ed), Readings in St John’s Gospel: First and Second Series (MacMillan, 1963), p.360.