神はあなたを驚かせたい
私は18歳のときに新約聖書全体を読破しました。それはキリスト教を論破しようとしてのことでした。私が読んだとき、それが真理だと確信することが出来たことに自分自身で驚きました。そして最終的にしたいと思ったことは、「クリスチャンになりたい」ということでした。それまで、もし信じたら、自分の人生を無駄にしてしまい、いろいろな楽しみを止めさせられて、人生を退屈にしてしまうと思っていました。しかし、それが真理だと深く分かった時に、私はイエスに対して「はい。信じます。」というよりほかはなかったのです。
C.S.ルイスが、彼自身イエスと出会った経験を記述した際の言葉を借りれば、「私は喜びに驚かされた。それからずっと、イエスは私を驚かせることをやめることはない。」それが私が体験したことでした。
神は驚かせる神です。イエスはいつもご自身に従う者を驚かせます。そして、あなたを驚かせ続けたいと願うのです。
神の助けに驚く
詩篇54:1-7
多少、言いがかりがあったとしても正当な理由で攻撃される時でさえ、私たちは誰か知らない人から攻撃されるとすれば驚いてしまいます。ダビデは「見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、…(3a)」と思いもよらぬ者たちからの攻撃について記しています。私はアルファや教会、時に彼個人が、一度も会ったことのない人々によって攻撃されるような記事を始めて読んだ時にどれほど驚いたかを鮮明に覚えています。そのような攻撃の驚きは、隣人や、同僚や、それ以外の人々から来ることもあります。
しかし、さらに驚くべきは、そのような状況で、神が私たちをの助けるために介入してくださることです。「まことに、神は私を助ける方、 主は私のいのちをささえる方です。(4)」そして、神は私たちの問題から解放してくださるのです(7)。
自分自身の体験を振り返り、その解放はすぐに与えられるわけではなく、数カ月かかることもあれば、何年もかかることもありました。しかし、ダビデの応答をするようにとチャレンジを受けるのです。攻撃のただ中で、ダビデは「私は、進んでささげるささげ物をもって、 あなたにいけにえをささげます。 主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。(6)」と言いました。
「進んでささげ物をささげる」というポイントは状況に左右されずささげるということです。ダビデは、もし神が私を助け出してくれるなら、その時はささげようとは言っていません。結果がどのようになろうとも、神のよいお方であるゆえに主を賛美することへと解き放たれたのです。
もしあなたが今攻撃の的になっているなら、神を信頼しましょう。神があなたを助けたいと願っておられることを信じましょう。そして、さらに進んで、主をほめたたえて感謝しましょう。
祈り:主よ。やがて、すべての私の問題からあなたが私を解放してくださったのを振り返って見ることができますことを感謝します。
イエスに驚かされる。
ヨハネ2:1-25
イエスの御業は驚きの連続です。イエスは常にご自身にあってあなたの人生を深めるようにと召しておられます。イエスはあなたを新しい方法で驚かせたいのです。
- 莫大さに驚く
イエスと弟子たちが婚礼に招かれたことに驚くだけでなく、彼らは実際に受け入れ、同行したことに驚かされます。その当時、婚礼は1週間も続くものでした。そこで、人々は最高の衣服を身に着け、喜び、歌い、踊り、話し、笑い、そして楽しむのでした。それはまさにお祭り騒ぎでした。さらに驚くべきは、彼らはもっとぶどう酒が必要であったということです。イエスは水がめの水をぶどう酒に変えると言う奇跡を行いましたが、その量は「八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ(6)」つまり480から720リットルの上等のぶどう酒が生産されたということになります。イエスが為された奇跡はスケールが大きいのです。イエスはあなたにもっともっと人生を充実し、満たされ楽しんでほしいと願っておられます。「ぶどう酒がありません。(3)」と単純にイエスに問題を知らせ、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。(5)」という指示に従っただけで、驚くべき奇跡が起こりました。イエスはただ必要に答えるだけでなく、人が想像したり期待することを超えて答えてくださるのです。「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。(9)」その時、彼は驚いたのです。それは、私たちの人生にも起こる事です。私たちの水のような人生をご自身にあって上等のぶどう酒のような人生に変えてくださるのです。イエスに従うことは、「水の泡」になってしまうことだと、かつてニッキーは考えていました。しかし、実は、まったくその逆です。イエスはいつも私たちを驚かせ、私たちの人生を豊かにしてくださるのです。特に、私たちがここで見るのは、イエスが婚礼をどれだけ豊かなものとし、そして結婚を祝福されたかということです。イエスはみずくさい結婚生活さえ、芳醇なぶどう酒に変えてくださるのです。
イエスは単調でつまらない人生をつくり変え、喜びで満たしてくださるのです。
この奇跡を通して、「イエスは…、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた(11)」のです。多くの点で、これは驚くべき啓示でした。
- 驚くべき情熱
イエスは宮の庭に入って行かれた時、御名を驚かせました。「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり(15)」細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒したのです。イエスは「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。(16)」と言われました。弟子たちは「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした(17)のです。私たちは商業主義や魅惑される映像に取り囲まれています。教会に代わって大規模商業施設が生活の中心になっています。それは金銭や商売を礼拝する危険性をはらんでいます。今日もそうであるように、当時も神を礼拝することを邪魔する拝金主義というひどい誘惑があったのです。
もちろん、神殿においても、現代の教会においても、礼拝には実際的な側面があります。しかしながら、私たちが焦点を合わせるべき対象が金銭になる時、私たちは深刻な問題の中に置かれます。イエスはこのことについていかに情熱的であるかを人々に驚かれたのです。
- 驚くべき住まい
イエスは神殿を再定義なさいました。イエスの体が本当の神殿です。イエスは彼らに言いました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)」本当の神殿は破壊されます。しかし、神は再びそれを復活を通して、3日で立て直されます。彼らは驚きました。そしてこれを理解することができませんでした。彼らはいったい誰がたった3日間でこの神殿を立て直すことができるのかとイエスに問いました。しかし、ヨハネは「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。(21)」と説明しました。神殿は神が住まわれる場所の象徴であることのゆえに重要です。そこで神と人とが会うのです。これらの驚くべきイエスの言葉は私たちに、イエスご自身が新しい神殿であることを見せています。イエスは神がこの地上で住むべき場所であったのです。イエスを通して、あなたは今、神がすむ場所としての家となるように召されています。あなたの体は聖霊の宮なのです(1コリント6:19)。
- 驚くべき知恵
人々がイエスが為さった奇跡やイエスが為したことを見た時、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた(ヨハネ2:23)」のです。「しかし」とヨハネは私たちに続けて言います。「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(24-25)」イエスはこれらの人々をすぐさま信頼されなかったということを読むことは驚くべき事です。特に、私たちが「すべてを信じ(1コリント13:7)」という愛について読む時、それは驚きです。イエスは人間の性質について現実的に知っていました。私たちは完全な伴侶、完全な両親、完全な子どもたち、完全な友人、完全なリーダーや完全な教会を探し求める傾向があります。これを認めることは、私たちがもっと現実的になることを助け、私たちの人間関係においてもっと赦すことができ、もっと失望せずに済みます。私たちは、自分を私たち取り扱うことや、人間関係において、イエスの知恵を必要としています。私たちにはオープンであることと、信頼するという愛ゆえにをバランスさせることが、そして人間の心を理解することが必要です。
祈り:主よ。イエスの感謝します。今日、私の眼をイエスに留めることができますように。イエスは私をご自身の知恵と情熱と愛と豊かさで驚かせてくださるのです。
人間性に驚く
ヨシュア19:1-21:19
ピッパと私は世界各国を旅しましたが、彼らはその度に地域の刑務所に赴くことがしばしばあります。ある国では比較的人権が守られているように見えます。一方で、刑務所の状態や刑罰が非人道的に思えます。
私たちはしばしば、旧約聖書の律法の一部にショックさえ受けるほど驚かされます。イスラエルの民もまた、違った意味で驚かされたことだったでしょう。なぜなら、これらの律法は当時の基準で考えると驚くほど人道的であったからです。
もし、過失による殺人と思える事案が起こった場合、その人はのがれの町に留まることが許されました。もし、さばきの後で、訴える者が故意の殺人であったことを証明することができなかったなら、その後、彼らはそこに住むことができました。(ヨシュア20)
のがれの町という制度は過失によって殺人を犯した者を守るための非常に人道的な仕組みでした。神は一人ひとりの人生を尊厳あるものと見ておられます。もし、過失であったとしても一人の人の命が取り去られる時、それは深刻な事態です。一方、偶発的に人を死に至らしめた人を保護する律法としてこれらの律法には人道的な優しさがあります。この優しさはこの時代において人々を驚かせたことでしょう。
現代の神の民にとして、もちろん私たちも法に沿って、犯罪を防止し減少させ、正義を追い求めるべきです。しかし、私たちはまた、私たちの司法制度が人道的であることに熱心に追い求め確実にすることもすべきです。
祈り:主よ。私の生活にも社会にも正しく人道的な法律が機能しますように。あなたの愛とあわれみを感謝します。アーメン。
H.K