Tokyo Chapel

2019年5月23日

第143日

あなたの人生の愛

1977年2月、フェスト・キヴェンゲーレ主教は教会指導者のグループの一員として、当時ウガンダで横行していた暴力、独断的な殺人、説明なき連行に反対する声明を記した、独裁者イディ・アミンに抵抗する書簡を届けました。翌日、フェスト・キヴェンゲーレの友人であり指導者であった、ジャナニ・ルウーム大主教はイディ・アミンの手にかかり殺され、フェスト主教は身を隠さざるを得ませんでした。

すぐその後で、フェスト・キヴェンゲーレは「私はイディ・アミンを愛する」という題の本を出版しました。尋常ではないこの題名の説明をその本の中でしています。「聖霊は、私の霊では受け取ることが困難なことを私に見せてくださいました。…それで、私は主からの赦し、そしてアミン大統領をもっと愛するための恵みを求めざるを得ませんでした。…これは私の疲れ切った魂のための新鮮な風でした。私は主を見ていたこと、そして解放されていたことを知りました。愛が私の心に満ちました。」

愛は感覚や感情以上のものです。それは、お互いをどう取り扱うかについての決断です。イエスは世界の歴史において最高の愛の模範です。イエスは私たちに神を愛すること、お互いに愛すること(ヨハネ13:34-35)、隣人を自分自身のように愛すること、そして、敵を愛することについて告げています。イエスはこれをご自身の全生涯を通してお見せになりました。(今日の箇所で私たちが見る、イエスを裏切ったユダに対してでさえです。)そして愛のうちに私たち皆のためにご自身のいのちを投げ出してくださったのです。


神を愛する

詩篇66:13-20

あなたが困難の中にある時、「もし、神があなたの祈りに答えてくださったら、何かをします(…あるいは、もう何かを再びしません!)」と約束したことはありませんか?詩篇の作者は、そのような約束をしました。そして、その祈りが叶えられたとき、その約束を果たしました。彼はこう書きます。「私は…私の誓いを果たします。それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。」(13-14)

神はあなたを愛しています。神はあなたにご自身を愛を留保なさいません。詩篇の作者は神を賛美します。「神は私にとどまってくださった。ご自身の愛に忠実に。(20,MSG訳)」神へのあなたの愛は、そして他者への愛は、神のあなたへの愛への応答です。「神がまず私たちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)」

神は、あなたへのご自身の愛をもって、あなたの祈りを聞き、答えてくださいます。もし、あなたが神の愛を十分に楽しみ、祈りが叶えられることを体験し、神へのあなたの愛を表したいのなら、一つの避けるべきことがあります。詩篇の作者は記しています。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)」

もし、過去に犯した罪があるなら、あなたはそれを告白することができます。そして、それを悔い改めて赦されるのです。神との関係の本当の妨げとなるものは、故意に将来罪を犯そうと計画することだけです。そうであるなら、私たちは神の臨在のもとにきよい良心をもって、来ることができないのです。これが主の愛の経験を妨げるのです。

神は愛をもって、「確かに、…聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた(19)」ので、その応答として詩篇の作者は他の人々にも神に聞いてほしいと願うのです。「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。(16)」人生において、神が為されたことについて誰かが証しするのを聞くことはとても励ましになるものです。それは、私たちの霊性を高め、信仰を強めるものです。

祈り:主よ。あなたの赦し、あわれみ、愛を感謝します。私の祈りに耳を傾け、聞いてくださった多くの時のゆえにありがとうございます(19)。「ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(20)」


互いに愛し合う

ヨハネ13:18-38

クリスチャンの間に愛がないことほど、イエスのメッセージが妨げられてしまうことはありません。もし私たちの国が変えられ、もし人々がイエスに従うように立ち返るようにしようとするなら、私たちは互いに愛し合うことからスタートすべきです。これは、異なる教会、教団教派、伝統、価値観を持つクリスチャンを愛するということを意味します。

それは地域の教会の中でお互いが愛し合うことを意味します。不一致は破壊的です。愛は一致です。愛は人をイエスの人格へと引き付けます。神を愛すること、そして、イエスの名によって互いに愛し合うことは、私たち皆にとって、全体としての大志となるべきです。このような愛が世界を変えることができるのです。

ここに、私たちは、イエスとの関係において、違ったタイプの関わりをもった三人の過激な男たちを見ます。それはユダ、ペテロ、ヨハネの福音書の作者であるヨハネです。彼らは私たち各々に、私たちの人生の異なる瞬間を見せてくれます。

ヨハネは、愛された弟子で、非常に親密な方法でイエスの愛を知っていました。ほかのどの弟子たちよりも、彼はイエスの親しい友でした。彼はイエスの隣に居ました(23)。4回、彼は自分が記した福音書に「イエスに愛された弟子」と紹介しています。(23、十字架29:26、空の墓で20:2、復活のイエスとともに21:20)。ヨハネはイエスとの親密な交わりに私たち皆を招いています。

この親密なイエスの愛の経験から、ヨハネの福音書とヨハネの手紙には、たくさんの愛についての記述があります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(13:34-35)

人はいろいろな理由で愛することを損ないます。ユダはイエスのそばにいたにもかかわらず、イエスを裏切りました。「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた(18)」のです。サタンが彼に入りました(27)。ここで私たちが目にするのは愛とは真逆のものです。ユダは愛を憎みました。ユダはイエスに逆らって、反感を抱きました。それでも、イエスはユダを愛し続けたのです。

ペテロはイエスを愛しました。しかし、彼はイエスとイエスの使命に対して、まさに人間的なビジョンをもっていたので、性格が輻輳していました。ペテロはイエスのために命を捨てても構わないといいました(37)。しかしイエスは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(38)」と告げました。そして、イエスの言葉通りのことをペテロはしたのです。(18:15-18、25-27)それでも、イエスはペテロを愛し続けたのです。

イエスはあなたの前にこの驚くべきチャレンジを設定しました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)。イエスはあなたをご自身のいのちを投げ出すほどに愛してくださいました。イエスはあなたに、ご自身の手本にならって従うように、そして自己犠牲の愛を見せるようにとおっしゃるのです。これは本物のクリスチャンの品質保証マークです。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(35)」

愛は伝道の最も効果的なかたちです。人々が本物の愛を見るとき、彼らは神を見るのです。イエスについて誰かに話し始める最もよい方法は、彼らを愛し、他のイエスに従う者たちを愛することです。

一般的に、この世では、人々は同じ方向性を持つ、自分の好みの人々のグループに自然と引き寄せられます。私たちは全く異なる者にならねばなりません。イエス・キリストの教会は、異なる背景を持つ、異なる関心を持つ、異なる年代の、異なる民族、人種、見方、生活スタイル、意見、価値観をもつ様々な人々と一つにしようするのです。

祈り:主よ。あなたが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことができますように。地域、国、世界のすべての教会、教団教派・伝統を持つクリスチャンたちが互いに新しく愛することを見ることができますように。私たちの愛によって、世界が変わりますように。


神のように愛する

1サムエル13:1-14:23

病気、誘惑、あなたの信仰への攻撃などの問題によって、多勢に無勢と感じることが人生にはあるものです。しかし、神はあなたに代わって行動してくださるとき、あなたを救うことがお出来になります。

神を信頼することは物事がうまくいっている時だけではなく、むしろ困難な時にするのです。神はそのように主に信頼する者を求めています。

サムエルは「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。(13:14)」と言いました。

神の思いは愛、あわれみ、義、創造性に満ちています。神はご自身に似た者を探しておられます。つまりイエスに似た者です。ただ、あなたのうちに住んでおられる聖霊だけがあなたをイエスのように変えてくださるのです。

サウルは失敗しました。神はサウルにサムエルから到着を待つように語りました。サムエルが遅れた時、人々はそわそわし始めました。サウルは神が思っていること以上に、民が考えていることを心に留めてしまったのです。私たちもしばしば陥りますが、サウルは忍耐しきれずパニックに陥りました(6-12)。神がなさろうとしておられることを待つことにもっと忍耐力を養わなければなりません。ちょっと間違ったことがあってもパニックにならないように。

一方、ヨナタンは、神の愛のうちに究極的に信頼しました。彼は言いました。「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(14:6)」

祈り:主よ。私にあなたのような心、愛の心をください。あなたの尽きることのない愛を信頼することができますように。あなたの愛が、あなたが与えてくださった聖霊によって私の心に注がれていること(ローマ5:5)を感謝します。今日、あなたの愛を私の心にどうぞ注いでください。アーメン。

H.K

References

Festo Kivengere, I Love Idi Amin, (Marshall, Morgan and Scott, 1977).