Tokyo Chapel

2019年8月8日

第220日

お金:祝福かのろいか?

ラウレンティウスは教会の会計を担当していました。彼はまた執事でもありました。いつも彼の周りでリバイバルが起こり「ローマ市民が皆クリスチャンになった」とさえ言われました。

その結果、AD 250年頃、ウェレリアヌス帝のもとで迫害が勃発しました。財産を持っているクリスチャンは、教会のお金や宝物を町の貧しい人々に分け与えました。

ウェレリアヌス帝はすべての司教、司祭、執事を捕えて死刑にするように命じました。皇帝はラウレンティウスに、もしすべての教会の宝物がある場所を見せるなら、逃がしてやろうと持ちかけました。

ラウレンティウスはそれを一か所に集めるので、3日間待って欲しいと願いました。ラウレンティウスは目の見えない者、貧しい者、障がいのある者、病人、老齢者、寡婦、孤児を連れてきました。ウェレリアヌス帝が到着した時、ラウレンティウスは扉を勢いよく開けると、こう言いました。「彼らこそ教会の宝です!」

ウェレリアヌス帝は大層腹を立て、斬首ではラウレンティウスを恐怖に陥れるのには十分ではないと考え、この勇気ある男を生きながら熱した鉄格子の上で火あぶりの刑に処することを決めました。ラウレンティウスはAD 258年8月10日に処刑されました。彼は処刑されるときに「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」と伝えたといわれています。彼の勇気はローマのリバイバルに大きな影響をもたらし、処刑の様子を見ていた元老院の議員さえも含む多くの人々がクリスチャンになったのです。

聖ラウレンティウスはイエスのメッセージを深く理解していました。彼は貧しい者は真の教会の宝であるということを知っていたのです。

私たちの貧しい者たちへの態度はどうあるべきでしょうか?富む者に対する態度はどうでしょうか?貧困は祝福かのろいか?裕福さは祝福かのろいか?福音は繁栄を約束しているのでしょうか?


お金がすべてではない

箴言19:13-22

箴言は富裕と貧困を際立ってバランスよく理解しています。全く良いとも全く悪いとも見ていません。それらは人生の幅の広い生地の一部分として理解されています。そして、賢く用いるように励ましています。

「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。(14)」家も財産も悪いものではありません。しかし、もっと大切なことが人生にはあります。正しい結婚相手を見つけることは多くのお金を得る事よりもはるかに大切なことです。

お金や他のゴールを追い求めて働き過ぎるという誘惑に際して、神の主権を覚えることは重要です。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(21)」「安息する休み」や休日を持つことはあなたが神の主権を信じているしるしです。

富は人生で最も大切なものではありません。また貧困はあなたに起こり得る事柄で最悪のものにはなり得ません。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。(22)」私たちは富を必要とするよりもはるかに愛を必要とします。人格的に整うことの方がお金よりもはるかに大切です。

他方、この箇所は貧しさを美徳として称えてはいません。時に貧しさは自業自得の場合もあるからです。「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。(15)」

どのような理由で貧しくなったにせよ、貧しい者に優しくしましょう。「よるべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。(17)」

これは驚くべき素晴らしい約束です。神は誰の借り主でもありません。あなたが貧しい誰かに親切な何かをするときはいつも、あなたは主に貸しているのです。そして、主はそれに利子をつけて返してくださるのです。しばしば、貧しい人、ホームレス、受刑者に多くの時間を費やして奉仕している人々の生活が驚くほど祝福されているのを私たちは見るのです。

祈り:主よ。私は私の経済と将来をあなたにお委ね致します。すべてにおいて気前のよい人生を送らせてください。とくに貧しい人々に…。


使徒の貧しさ

1コリント4:1-21

コリントの教会の人々は、外見では、人々は裕福で、栄誉を受け、強いのですが、内部では全く悲惨でした。パウロは、彼らが傲慢で、自慢げで、嫉妬心が強いことを指摘しています。彼らは性的な不道徳に陥っており、そして互いに裁判で訴え合うような状況でした。

使徒パウロはこれらの課題のいくつかに挑み始めます。パウロは彼らの生活にある富んでいることへの傲慢を見ます。彼らは自分の物質的繁栄を誇りました。パウロは極めて簡潔になぜ誰も誇るための理由を持っていないのかを説明します。「あなたが持っているものはすべて、そしてあなた自身のすべては、完全に神からの贈り物ではなかったのか?このすべての比較と競争には一体何の意味があるのか?あなたはすでにあなたの必要のすべてを手に入れた。あなたは自分で切り盛りするより、神にもっと近づくようになったのだ。(7b-8,MSG訳)」

彼らは王のように富んでいます。「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。(8a)」ここに皮肉のヒントが隠されています。彼らは全く支配など出来ていなかったのです。「いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。(8b)」

パウロは彼らの物質的富裕と、自分自身のそして他の使徒たちの貧しさを対比しているのです。「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び…、(11-12)」

パウロは今まで、最も影響力のあるクリスチャンの一人です。彼の働きはいつもあらん限りの「大成功」を収めていました。しかしながら、それは物質的繁栄がもたらしたものではありません。全くその逆です。パウロは物質的には貧しかったのです。十分な食事も摂らず、立派な衣服も持っていませんでした。また、彼には家はありませんでした。

彼の貧しさは、彼の怠惰が原因ではありません。「私たちは苦労して自分の手で働いています。(12a)」しかし、現代の多くの貧しい人々のように、彼は虐待を受けることになったのです。彼は「はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」と言いました。

パウロは偉大な愛を書き記しました。彼らを恥じてはいませんが、彼らに警告を与えます。パウロは彼らを自分の子どもたちを見るような目で見つめています。(14-15)「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」

パウロの心は良い父親のようでした。父の心は、優しく、親切、養う思い、訓練、人々を耐え忍んで決してあきらめない。これは牧師の態度でもあるべきです。すべての人間の父親は完全とは言えません。しかし、あなたは天の完全な父に愛され、養われているのです。そして神の天のモデルを基礎にして他の人の親となることを願い求めることが出来るのです。

祈り:主よ。この世界が与えるどんなものよりもイエスを通してはるかに多くを受け取ることが出来ましたことを感謝します。どうか「キリストのために」愚かであることを意思することが出来ますように。私をパウロの手本に倣わせてください。


王の豊かさ

1歴代 26:20-27:34

パウロが「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。(1コリント4:8)」と書いたとき、彼が心に描いていた王は、多分、ダビデ王のような王だったのでしょう。

ダビデは裕福でした。彼は大いなる「宝物」(1コリント26:;22)を持っていました(1歴代26:22)。彼は「宝物倉(27:25)」を持っていました。「ぶどう畑」や「ぶどう酒の倉」を持っていました(27)。「オリーブの木といちじく桑の木(28)」を持っていました。「家畜の群れ(29)」、「らくだ」と「ろば」(30b)そして「羊の群れ」と「所有する財産」がありました(31)

財政は「霊的ではない」というのとは違います。たとえば、神の礼拝は通常、建物の中でおこなれます。建物には費用が掛かります。財政をやりくりするのは教会の大切は役割です。「レビ人のアヒヤは、神の宮の宝物倉および聖なるささげ物の宝物倉をつかさどった。…エヒエル人の子孫、その兄弟ゼタムとヨエルは、主の宮の宝物倉をつかさどった。(20,22)」「シェブエルが宝物倉のつかさであった。(24)」

物質的繁栄は旧約聖書ではしばしば神の祝福のしるしとして見られます。神のご性質としてそれは今も真実です。勤勉、信頼性、忠実さ、正直さ…、これらは成功と物質的繁栄を導くことができる特徴であると言えます。しかしながら、今日の新約聖書の箇所で私たちが見たように、これは全体像ではありません。

何年にもわたってニッキーは非常に裕福なクリスチャンと接して来ました。その人たちの中にはまさしく神の人と言えるような神に献身し切った信者がいました。彼らの裕福さは神の祝福のしるしである必要はありません。しかし、悪いもののしるしでもありません。鍵となることは、あなたが自分のお金をどのように見ているか、そして、あなたがどうそれを使うかです。

祈り:私たちの教えと実際のライフスタイルに正しいバランスをもたらしてください。あなたが物質的繁栄をもって祝福しておられる人を羨んだり、不平を言ったり、裁いたりすることがないようにしてください。私たちが気前よく、与えることに自由であり、飢えている者や渇いている者のところに赴くことを意思することができますように。あなたに仕えるために、もし必要なら、身寄りのない人や家の無い人のところに行かせてください。アーメン。

H.K