目に見えないものに目を留める
あなたは今まで失望したことがありますか?あなたは時々、「これって本当にやる価値あるのかな?私たちは一体どこに行くのだろう?」と感じることがありますか?あなたは今まで「心が折れた」ことがありますか?もし、あるなら、あなたは独りぼっちではありません。パウロはほとんど心が折れかかっていました。そして、同じような試練に遭っている他のクリスチャンたちに書き送ったのです。
それでもパウロは、私たちが「勇気を失う(2コリント4:1,16)」ことがないようにと書いています。「私たちはお手上げとあきらめません。そして仕事を放棄してはなりません。(1,MSG訳)」なぜでしょう?パウロは、それはイエスにあって私たちは「宝」を受け取ったからだと説明します(7)。宝とはイエスのメッセージです。パウロが宣べ伝えなければならないメッセージは「それゆえ…私たちは勇気を失いません」と最初にも最後にも(1,16)言うほどに素晴らしいものだからです。
しかし、その宝は内なるもので、目に見えません。パウロはそれを「土の器(7)」と描写しました。私たちの文化は外面的で目に見えるものを強調します。メディアはお金、所有物、家、車、食べ物、美貌、外面的な成功が主役になっています。聖書はそれとはとても違います。聖書は目に見えないものの重要性を重視します。私たちの内面の目に見えない特徴である思考、信念、態度が私たちの外面的な振る舞いを決定づけるのです。「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(18)」目に見えないものは永遠です。
内面と目に見えない思考
詩篇104:31-35
もしあなたが心配の仕方を知っているなら、あなたは瞑想の仕方を知っています!あなたがする必要があるのは、あなたが何について考えるかを変え、クリスチャンの瞑想を練習することです。
「心の思い(瞑想,34,NIV訳)」はあなたが思いめぐらせること、あなたが自分の思考に住まわせる事柄を意味します。あなたの行動とあなたの言葉は生きています。それはただあなたの行動と言葉というだけではなく、主を喜ばせることも喜ばせないことも出来ます。あなたの内面と目に見えない瞑想も同様です。
詩篇の作者は創造された宇宙全体のゆえに神を賛美します。作者は言います。「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。(33)」そしてこう祈ります。「私の瞑想があなたを喜ばせますように(34,NIV訳)」
これは具体的にはどういう意味でしょうか?使徒パウロはいくつかの良い助言を与えています。「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)」
祈り:主よ。私の行動、言葉、そして考えが、今日、あなたを喜ばせることが出来ますように。
内なる目に見えない宝
2コリント4:1-18
あなたは世界で最も力強いメッセージを持っています。イエスにある信仰は、今も永遠にも、徹底した変革を与えます。「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。(14)」あなたは永遠に生きるのです。
私たちは皆、その内側に「宝(7)」を持っている「土の器(7)」です。それは内面にあり、目には見えません(18)。宝とはイエスのメッセージです。それは神のあわれみによって与えられました(1)。
このいのちは終わりません。目に見えるものは一時的ですが、目に見えないものは永遠です。「私たちが見ることができない、そのものは永遠まで続きます(18,MSG訳)」
世俗主義は世へと向かわせます。― そして今は教会でさえ ―「永遠」を忘れています。私たちは、自分が見え、取り扱うことができるものに焦点を合わせ、価値を置くのです。永遠はメッセージのいのちの部分です。
イエスのメッセージを宣べ伝える中で、私たちが「いいえ」と言わなければならない4つのことがあります。
- 秘密ではない
「私たちは秘密を捨て(2,NIV訳)」「私たちは仮面をつけることを絶って(2a,MSG訳)」私たちがするすべてのことにおいて、オープンであることが必要です。「私たちはすること、話すことすべてにおいて、隠し立てせず、すべての真理を表し続けなさい。(2b,MSG訳)」 - 恥ではない
「恥ずべき隠された事を捨て(2)」…もし自分が恥ずかしいと思うような事柄が発覚したとしても、何も隠し立てすべきではありません。 - 騙さない
「私たちは欺瞞を用いません(2,NIV訳)」「私たちは舞台裏でこそこそと、操ったり、操作したりしません。(2,MSG訳)」 - 歪めない
「神のことばを曲げず(2)」「私たちは神の言葉を自分に都合よくねじ曲げません。(2,MSG訳)」私たちはもっと受け入れてもらいやすいようにとメッセージを変えてはなりません。それとは対照的に、パウロは「真理をはっきりと明らかにする(2,NIV訳)」と書きました。
福音は目に見えず内面のものなので、すべての人に分かるわけではありません。「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(3-4)」私はそのような者でした。私はメッセージを聞いたのですが、何だかさっぱりわかりませんでした。
神がご自身の光を私たちの心に灯してくださった時、初めて私たちは見えるようになるのです。神は私たちに「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(6)」
メッセージはイエスそのものです。「キリスト、私たちが入手できるであろう最高の神の絵を私たちに与えてくださる。(4,MSG訳)」「覚えておきなさい。私たちのメッセージは自分のことについてではありません。私たちは主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。(5,MSG訳)」)
イエスのしもべである私たちは、世界で最も大いなる宝を内に持つ土の器なのです。神は土の器の中に意図して宝を置かれたのです。「私たちは、自分たちの通常の生活である飾り気のない土の器にこの貴重なメッセージを帯びて運んでいるのです。神の比類なき力が私たちと共にあることを誰も勘違いすることのないようにです。(7,MSG訳)」
この器は衰え果てていくものなのですが、そして、「外面的にはそれはしばしば欠けやすいように見えますが、内面的には神は新しい命を形造り、神の次々に明らかになる恵みが開かれない日はないのです。(16,MSG訳)」あなたは経済的な「圧迫」や他のプレッシャーの中にあるかもしれません。そしてあなたに起こって来る事柄によって、途方に暮れているかもしれません。また、あなたは批判され、「苦しめられ」、時に「打ちのめされる」かもしれません(8-9)。
しかし、「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。(16-17)」「この困難な時は、やがて来る素晴らしい時に比べれば、どうっていうことはない。有り余るほどの祝宴が私たちのために用意されているのです(17,MSG訳)」
ですから、パウロは記します。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(18)」ラニエロ・カンタラメッサ神父が記すように「新しい物差しとなる基準は十字架によってもたらされました。ですから、試練は軽く、つかの間のように思えるのです。永遠に…。」
祈り:主よ。イエスにある永遠のいのちを私たちに与えてくださったことを感謝します。私たちの目を見える者にではなく見えないものに置くことが出来ますように。
内なる目に見えない力
ミカ1:1-4:13
あなたは、神によって大いに用いられることが出来ます。あなたは主の霊の力に満たされているのですから、あなたの人生には大きなビジョンがあります。
預言者ミカが言ったことは私たち皆にとって真理なのです。「私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち…(3:8a)。」力は、内面の目に見えない、聖霊の働きからもたらされます。
ミカは大いなる力によって語りました。彼は社会的に恵まれていないことを大義として支持されました。ヨナの場合のように、ミカの警告は心に留められ、破滅は回避されました。(エレミヤ26:18参照)
ミカは不正と貪欲をいさめて語りました。ほとんどの罪のように、それは内面で目に見えない計画から始まります。「ああ。悪巧みを計り、寝床の上で悪を行う者。(ミカ2:1a)」
彼らは思いに蒔き、行動に刈り取るのです。「朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人とその持ち家を、人とその相続地をゆすり取る。(1b-2)」(現代において「土地収奪」と記述されることを極めて正確に書き表しています。)
ミカの言葉は特に「首領たち(3:1a)」に向けられました。「あなたがたは公義を知っているはずではないか。あなたがたは善を憎み、悪を愛し…(1b-2a)」ミカは彼らが人々を獣のように取り扱うことを糾弾します(2-3)。ミカはもし彼らが貧しい者たちを不正に扱うなら、神は彼らの祈りを聴いてくださらないと警告します(4)。
金銭が不正の根源であったように思えます。よくあるように、不正に導くのは貪欲です。
「裁判官は高値をつけて判決を売り、
祭司はその教えを大量市場に出回らせ、
預言者は高額で言葉を売る。
いつも神に頼っているように
うわべだけ見せ掛けているだけだ。(11,MSG訳)」
ある日、神は物事を正されます。「主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。(4:3)」平和がもたらされるのです。「国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(3b)」正義もまたもたらされるのです。土地は公正な分配がなされます。「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。(4a)」
究極的には神の内なる目に見えない思考が大切なのです。「…しかし彼らは主の御計らいを知らず、そのはかりごとを悟らない。(12)」
祈り:主よ。あなたがやがてすべての間違いを正してくださること、そして永遠の平和をもたらしてくださることを感謝します。それまでの間、主の霊に満たし、私の目をあなたに留めることができるように助けてください。アーメン。
H.K