Tokyo Chapel

2019年7月7日

第188日

危険なプライド

私が法廷弁護士として働いていた時のことです。これは難なく勝訴できると思える非常に簡単な案件がありました。私は祈ったり、主に委ねるまでもないと堅く確信していました。

法廷で彼が立ち上がり話し始めると、判事は数日前に法律が変わったことに気づいていたかどうかを尋ねました。私は知らなかったのです。裁判は不面目な敗訴という結果になってしまったのです。今日の箴言の箇所は警告しています。プライドは失敗の前にやって来ると(箴言16:18)。

大恥をかいて、私は神に助けを求めて叫びました。彼は近々の判例を読み、判決は間違っており、控訴審で逆転すべきであるという意見を書きました。感謝なことに、それが通ったのです。

彼らは法廷に戻り、勝利を収めることができたのです。事務弁護士は私のミスを責めるよりも、むしろ彼が書いた意見に好意をもって親切にも多くの判例を送ってくれました。それは私が学んだ2つのレッスンでした。プライドの危険性だけではなく、人並ならぬ神の恵みの大きさです。「あなたが神に拠り頼む時、物事はうまくいく。(箴言16:20,MSG訳)」

それから私は自分が学んだレッスンを忘れないように心がけています。立ち上がって話をするときはどんな時も、プライドと自分に拠り頼むことの危険性を学びました。同じ間違いを二度と犯していませんが、しかしそれは何度も繰り返し学ばなければならないレッスンであると言いたいのです。

英語で「プライド(pride)」とは良い意味合いを持つこともあります。例えば、自分の子どもたちに誇りを持つことや、自分の仕事に誇りを持つことは間違っていないでしょう。しかしながら、聖書が「プライド」のことに言及するとき、それはこれらとは違った意味であり、それは非常にマイナスの意味を含んでいます。

それは、人が自分の価値や重要性を過度に主張することを意味します。それは傲慢や横柄なふるまいを示唆します。それは「私には神の必要はありません。」と言う独立心です。ほぼ間違いなく、それゆえ、それはすべての罪の根といえます。私たちはどのようにしてプライドの誘惑と危険に対処すべきなのでしょうか?


謙遜さを耕す

箴言16:18-27

神はあなたに強情で高慢に歩まず、謙遜で親切に歩むように願っておられます。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(18)」

私たちは「裕福で有名な人に囲まれて生きるより、貧しい人に囲まれて謙遜に生きる方がよい(19,MSG訳)」のです。

力の欠如は神の国を進展させる最良の方法は何かを考える時、とても欲求不満を感じることでしょう。しかしながら、人間的な視点で見ればイエスは実に力のない人でした。彼こそ「へりくだって貧しい者(19)」でした。

へりくだった霊はプライドとは反対に次のものをもたらします。

  1. 繁栄
    謙遜とは学ぼうと意志することを意味します。「み教えに心を留める者は繁栄する。(20a,NIV訳)」
  2. 幸福
    謙遜は神を信頼します。「主に学び、信頼し、そして確信を持つ者は誰でも、幸いで、祝福され、幸運である。(20b,AMP訳)」
  3. 癒し
    「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。(27)」というような高慢な言葉の反対に、謙遜な人は喜ばしい言葉を使います。「その快いことばは理解を増し加える。(21b)」「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(24)」

祈り:主よ。いつもあなたに頼ることができますように。あなたを信頼することができますように。


仕え、証しする

使徒25:23-26:23

もしあなたがイエスについて証しする機会が与えられたなら、あなたはどうすべきでしょうか?あなたの物語を話すことについてはどうすべきでしょうか?この箇所は、イエスを証しし、自分に起こったことを話す手本を示してくれます。

パウロは、法廷で、イエスが彼に仕えるための任命をお与えになったことを告げました。「あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。(26:16)」イエスが「仕えられるためではなく、仕えるため(マルコ10:45)」に来られたように、私たちも皆、仕え証しするために召されているのです。証人は謙遜に自分自身の向こう側を指し示すのです。パウロはへりくだってイエスを指し示しました。ここに私たちはパウロがこの召しをどう成し遂げたのかを見ます。

獄に繋がれ、訴えられていたパウロは、「大いに威儀を整えて」到着したアグリッパとベルニケの前に顔を合わせることになりました。それはとても威圧的な経験であったに違いありません。

パウロは、ここでも再び、単純明快にそしてへりくだって、自分の体験を話しました。彼はアグリッパ王に対して丁寧で尊敬を払って接しました(26:2-3)。彼は巧みに自分の物語の内容を適宜選択し、話す内容が受け手に理解できるように適切に振る舞いました。

パウロは証しの最初の部分で「あなた」を主語とするメッセージとは逆の「私」を主語とするメッセージを用いました。「あなた」メッセージは傲慢で人を卑下するような印象を与えます。「私」メッセージは、話す内容が威圧的でなく、丁寧であると同時にもっと効果的です。

パウロはこのように言いました。「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。(9-10)」

メッセージが暗示しているのは「私は丁度あなたのようでした。私はプライド、権力、虚飾に満ちていました。私は今あなたがしていることをしていました。私は丁度あなたが私を今迫害しているようにクリスチャンを迫害していました。」ということです。

パウロはそれから、どのようにイエスが彼に現れたか、そして「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(15)」と語られて、クリスチャンを迫害していることが実はイエスを迫害していることだったのだと示されたことを語りました。

イエスはパウロに語りました。「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(17-18)」パウロは、この力強い「私」メッセージで自分の証しをすることを通して、実際には、彼らが暗闇の中におり、悪魔の権力の下におり、彼らの罪は赦される必要があることを言ったのです。

彼らの必要を指し示しただけではなく、パウロはまた赦しの方法をも指し示しました。パウロは「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。(20)」要するに、パウロはこの高慢で権力をもった人々に「あなたは神に立ち返り、悔い改める必要があるのだ。」と言ったのです。

パウロは続けます。「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。(22)」パウロは権力者にも力弱い者にも、すべての人に告げたかったのです。

パウロのメッセージの中心はいつもイエスです。そのお方はダマスコの途上で彼に出会ってくださったお方です。パウロは「キリストは苦しみを受け…また、死者の中からの復活(23)」したことを証しするのです。

祈り:主よ。イエスについて人々に告げるすべての機会を持つことができますように。そしてパウロのように謙遜に仕える手本に倣うことができますように。


プライドを排する

2列王14:23-15:38

たとえば、もし誰かがあなたのために働く立場にあなたがあるなら、また、もしあなたが親であるなら、あるいは、もしあなたがボランティアの人々を指導する立場にあるなら、あなたは「力ある」立場にあります。

プライドは主に誰かに力を振るうことのできる立場にある人にとって誘惑となるものです。その力の出所が立場、成功、有名さ、裕福さなど、どのようなところからであってもです。

イスラエルやユダの王の歴史は権力を握った者にとって、プライドは抗することの難しい大きな誘惑であることを示しています。この時期、ユダの王はイスラエルの王よりまだ良いことを行いました。イスラエルでは次から次へと主の目の前に悪を行う悪王が続きました(14:24;15:18,24,28)。ユダでは、アザルヤもその子ヨタムも「主の目にかなった(15:3、34)王でした。

アザルヤはむしろウジヤの名で知られた王でした(32)。私たちは彼については旧約聖書の他の書でその他の事柄を知ることが出来ます(例えば、アモス1:1、イザヤ6:1f、2歴代26:16-23)。

ここでは、私たちは「彼は…主の目にかなうことを行った。ただし、高き所は取り除かなかった。…彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。(2列王15:3-5)」という記事を読みます。彼の晩年はどうしてこのように散々な結果なのでしょうか?

その理由を歴代志に見ることができます。「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。(2歴代26:16)」

ウジヤはこうして祭司に代わって香を焚こうとしてツァラアトに冒された次第が記されています。これらの顛末を通して、たとえ大きな成功をおさめても高ぶりによって身を滅ぼさないように心に留めましょう。

祈り:主よ。聖書の中にある励ましと同様に、すべての警告のゆえに感謝します。いつもこれらの警告を心に留めることができますように。主よ、徹底してあなたに拠り頼むことができますように。私の目をいつも、力に満ちたお方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとってくださったイエスに留めることができますように。(ピリピ2:6-8)。アーメン。

H.K