2019年3月15日
第74日
神の恩寵にあずかる
私が18歳で大学1年生の頃、1週間でマタイによる福音書からヨハネの黙示録まで新約聖書全巻を読破しました。そして「これは本当だ!」と確信しました。しかし、すぐにイエスに従うようになったわけではありません。私は人生はとても退屈ですべての楽しみをあきらめなければならないのだろうと考えていました。実は、それとは全く逆でした。思ったよりずっと幸せであることを私は見出しました。
私たちは皆、幸せに生きたいと願います。アリストテレスは「幸福とはだれもが求める目標である、その特徴は、それが究極目標であること、つまりもはやそれが何かほかのものの手段にはなりえない、という点にある」と言いました。しかし、幸福よりも、もっと素晴らしく、もっと偉大で深いものがあるのです。幸福は何が起こるか、つまり状況に依存するものです。喜びはもっと深く、私たちの外面的な状況に依存するものではありません。それは神からの祝福です。喜びとは、まだ母の胎内にいる時でさえイエスと出会った時にもたらされるという性格をもっています。(ルカ1:44)
今日の新約聖書の箇所で「祝福」と訳されているギリシャ語が用いられています。それは神の恩寵を受け取る特権を意味します。それゆえに、幸いを得るのです。詳訳聖書(The Amplified Bible)にはこう記されています。「外面的な状態の如何にかかわらず、神の恩寵と救いのうちに満足し、人生の喜びを持っている者は、幸せであり、羨ましい者であり、霊的に裕福な者です。(マタイ5:3,AMP訳)」
神のすべての恩寵のゆえにほめたたえる
詩篇34:1-10
過去20年あまり、ピッパと私は世界中を旅しました。時々、私たちは今まで見たことも食べたこともないような見慣れない食べ物が出て来る時があります。ほとんどの場合、それはおいしいものでした。それがおいしいかどうかを知る方法は「食べて味わってみる」ことです。
「主のすばらしさを味わい、これを知れ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(8)」これはイエスに従い始めた時に、私が体験したことでした。それ以来、出来る限り、多くの人々にこのメッセージを伝えたいと思うようになりました。これを味わった者は、こう言うのです。「私と一緒にこのニュースを言い広めよう。さあ、一緒に皆に知らせようじゃないか(3,MSG訳)」
ダビデと同じように、あなたの人生に神がもたらされた神との関係という恵みのゆえに神を賛美しましょう。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。(1)」物事がうまくいっている時だけではなく、また賛美したいような気分の時だけではなく、「いつも、主への賛美」をささげましょう。「私は機会があればどんな時でも神をほめたたえる。私の胸は主への賛美で満ちている。私は神に生き、呼吸している。もし出来事がうまくいかない時も、これに聴き、幸せになる。(1-2,MSG訳)」
神を賛美するのは…
- 主は祈りに応えられるから。
ダビデは「私が主を求めると、主は答えてくださった。(4a)」と記しました。神は困難な時、折にかなった助けを与えてくださいます。「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。(6a)」 - 恐れから解放してくださったから。
ダビデは神がこのような時に祈る祈りにどのように応えて下さったかを正確に表現することによって、こう続けます。「私をすべての恐怖から救い出してくださった。(4b)」
神を恐れる者は彼らが被った恐怖から解放されます。「主を恐れよ。(9a)」には「主を探し求めよ」と同じ意味があります。「彼を恐れる者には乏しいことはない(9b)」と「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。(10b)」を比較すると分かります。
ダビデは私たちが乏しくなることはないと言ったのではなく、ダビデは
「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。(10b)」 と言いました。The Message訳では「礼拝は主の良きことへのすべての扉を開く(9b,MSG訳)」と訳されています。 - 顔を輝かせてくださるから。
私がクリスチャンになる前から、ひとつのことを知っていました。それは多くのクリスチャンの顔の表情が輝いていたということです。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください。』(5)」。 - 主は守ってくださるから。
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。(7)」あなたが神に祈り、礼拝する時、御使いの守りを経験するという素晴らしい考えが記されています。
「すべての楽しみは賛美のうちに瞬間敵に溢れる。喜びとはそれが表現されるまでは不完全なのだ。」とC.S.ルイスは記しました。
祈り:主よ。私をすべての恐怖から解放してくださると約束して下さったことを感謝します。あなたの御使いが私の周りを囲んで守ってくださることを感謝します。主よ。私は今日、あなたに賛美と礼拝をおささげします。
神の祝福の約束を信じる
ルカ1:39-56
マリアはとても「恵まれた方(1:28)」でした。御使いは「あなたは神から恵みを受けたのです。(30)」と言いました。
この箇所には祝福が満ちています。エリサベツもマリアも神が彼女たちを祝福する道を認識していたのです。
エリサベツは聖霊に満たされました(1:41)。そしてマリアを称賛しました。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(42-45)」
マリアの状況に対して多くの人々が非常に異なる反応をする時に、マリアの信仰を重要視することは意義深いことです。神が祝福したということはマリアの問題がすべて消えてなくなるということではありません。マリアはまだ結婚していないのに身ごもったのですから、当時の文化において、この状況は非常に困難なものでした。
しかし、マリアは神に祝福される道を選びました。マリアはエリサベツの挨拶を受け取り、「マリアの賛歌(マニフィカト)」として知られる歌を歌いました。その中で、彼女は「救い主なる神を喜びたたえ(47)」「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました(49)」と賛美しました。
マリアに与えられた祝福はいろいろな点でユニークです。「あなたは女の中の祝福された方。(42a)」マリアは…
- 主の母
マリアの胎には神の子が宿っていました。「あなたの胎の実も祝福されています。(42b)」エリサベツが胎内のイエスの臨在に近づいたとき、「エリサベツは聖霊に満たされ(41)」ました。喜びはイエスに対する典型的な反応です。「私の胎内で子どもが喜んでおどりました。(44)」 - 未来の世代への認識
「これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。(48)」マリアは時代を通じて、以来「聖母マリア(the Blessed Virgin Mary)」として知られるところとなったのです。
イエスのDNAはマリアと聖霊の組み合わせで構成されているといえます。イエスは遺伝学的にはマリアの息子でした。きっとマリアに似ていたでしょう。肉体的特徴も幾分マリアに似たところがあったに違いありません。マリアはイエスを養い、イエスをしつけ、教育しました。30年間にわたってマリアはイエスの人生に大きな影響を与えたのです。 - 信仰の頂点
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。(45)」マリアは主が彼女に語られたこと、それは人間的には不可能な類を見ないことでしたが、それが起こると信じました。御使いがマリアに語ったように「神にとって不可能なことは一つもありません。(37)」
マリアにとって、神が約束したことは、為されたことと同じように良いことでした。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。(49)」コーリン・テンブームは言いました。「信仰は見えないものを見ること、信じられないことを信じること、そして不可能を受け入れることです。」と。
もちろん、多くの点でマリアは類を見ない存在です。しかし、いくつかの点で、彼女が語った祝福はあなたや私にも適用されます。「わが救い主なる神(47)」と言うように、あなたは救い主によって祝福されます。「飢えた者を良いもので満ち足らせ(53)」とあるように、神の祝福の約束はあなたの霊的な飢えを満たします。それはあなたにも私にも適用されるのです。
祈り:主よ。マリアの偉大な信仰を感謝します。マリアは人間的には不可能なこともあなたにはできると信じました。マリアのように、私はあなたの祝福を受け取り、あなたを礼拝したいと願います。
神の臨在の祝福を今体験する
民数記2:10-3:51
神の民の中に神の臨在があるという大きな責任と偉大な祝福のゆえに、莫大な配慮が必要とされました。「会見の幕屋(神の臨在が臨む場所)」は「宿営の中央(2:17)」に位置しました。すべての民に役割と責任が与えられました。特にその中からある部族(レビ族)に、「フルタイム」の奉仕が与えられました。「彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司(3:3)」でした。彼らは「すべて神にささげられた(9,NIV訳)」人々です。
神の民の生活は文字通り、神の臨在の周りを囲むものでした。それは、彼らのアイデンティティー、彼らの成功、彼らの祝福のための鍵でした。
しかし、ここで、私たちは、神の民へのご自身の臨在は限定されたものであったことが分かります。彼らは神の臨在の中心である聖なる場所には近づくことはできなかったのです(10)。新約聖書の尋常ではないメッセージとは、この隔てが今は取り除けられたということです。
今、あなたは神の臨在のすべての祝福を経験することができます。神の臨在の祝福と言うテーマはみことばの中に渦巻いています。イエスは私たちに神の臨在を取り運びました(ヨハネ1:14a)。イエスはあなたに聖霊をもたらし、そのお方はあなたのうちに住まわれます(1コリ6:19)。私たちは、ともに集うとき、特に神の臨在を体験します(マタイ18:20)。そしてやがて顔と顔を合わせるように神の臨在へと導かれるのです(黙示21:3,22:4)。
祈り:主よ。あなたの臨在の祝福のゆえに感謝します。あなたがともにおられるので、私の心の霊的な飢えは満たされます。十字架を通して、あなたの臨在に近づくことができることを感謝します。あなたの恩寵を月並みなことのようにすることがありませんように。むしろ、神がその真ん中に住む民としてふさわしい生き方を生きることができますように。アーメン。
H.K
References
Corrie Ten Boom, Jesus is Victor, (Fleming H. Revell Company, 1984).
C. S. Lewis, Reflections on the Psalms, (Fount, 1993) pp.94–95.