Tokyo Chapel

2019年7月10日

第191日

目には見えない、かけがえのないもの

毎週月曜日の朝、彼は私たちのオフィスに電話をかけます。彼はその週に行われるイベントや礼拝などについて、そしてそれらに関わっている人々について尋ねます。10年もの間、チャールズと彼の祈りのグループは忠実に祈りによって教会を支えています。彼らは私たちの教会の中で私たちをとりなして祈る手本となっています。彼らの祈りは目には見えません。しかし、それはまたかけがえのないものです。

「とりなし」という言葉は普通誰かのために祈ることを意味します。(しかしながら、それはまた自分のために祈ることにも用いることができます。)私たちは、とりなしに召されています。使徒パウロはテモテに「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(1テモテ2:1-2)

イエスは偉大なとりなし手です。イエスは「多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:12)」イエスは「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34、またヘブル7:25参照)聖霊もまた私たちのためにとりなし、そして私たちを通してとりなします。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。…御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:26-27)

今日の旧約聖書の箇所で、私たちはイザヤがとりなし手としての役割を果たしているのを見ます。誰かのためにとりなすことは、預言者の務めの一部なのです。とりなしはまた、たとえば、ダビデ、ソロモン、ヒゼキヤなどの王によってなされます。あなたもまた、この見えない、しかしかけがえのない務めに召されたのです。


求道者のために祈る

詩篇83:1-18

この詩篇はとりなしの詩篇です。人々が終わりの日の前に主に立ち返って、神の擁護を受けることが出来るという知識を持つことのためにとりなしているのです。

周りの国々は神の民を破壊したかったのです(4)。それは一つの国を侵そうとすること以上に、神に対する反抗であると詩篇の作者は見ていたのです。詩篇の作者は彼らのことを「神の敵ども(2)」、「逆らう者ども(5)」と見なしました。このことは神の民を攻撃する者は、究極的には神を攻撃しているのだということを銘記するのです。

この詩篇の祈りは、神の敵はやがて打ち負かされるようにということです(9-15)。しかしながら、悔い改めのためのとりなしも為されています。「主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。(16)」私たちの内には、人が唯一真理の神なるお方を慕い求めるようになりますようにと願う思いが潜在的にあるのです。「こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。(18)」

祈り:主よ。私はアルファに普段続けて来られている方々皆のために祈ります。彼らはあなたのお名前を探し求めています。あなたは黙っておられません。人々があなたこそすべての地の上にいと高き唯一のお方であることを知ることができますように。


癒しのためにとりなす

使徒28:1-16

時々、クリスチャンはもはや肉体的な癒しのために祈るべきではないということを示唆することを耳にします。癒しの奇跡はイエスの時代とイエスの死と復活の直後の一時期だけのものであるものとして議論するわけです。ある人は使徒の働きで描かれている時代に奇跡はすでに終わってしまったとさえ言う人もいます。しかしながら、それは明らかに事実とは違います

まむしがパウロの腕に巻き付いた時、彼は火の中にまむしを振るい落としました。そして何の害も受けることがありませんでした(3-5)。今日の箇所は使徒の働きの最終章ですが、ここにイエスが「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。(マルコ16:18)」という預言の例を見ることが出来ます。

パウロとその一行はマルタ島でポプリオという領主と出会いました。彼は三日に渡ってもてなしました(7)。「さて、その場所の近くに、島の首長でポプリオという人の領地があった。彼はそこに私たちを招待して、三日間手厚くもてなしてくれた。たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。(7-8)」

ここに私たちへのとてもシンプルな手本があります。第一にパウロはポプリオの父が病気であることを知りました。そこで、パウロは信仰を働かせました。パウロは神がこの父親を癒してくださると信じたのです。「そこでパウロは、その人のもとに行き…(8)」

第二に彼は大胆に行動しました。ポプリオの父は恐らくクリスチャンではなかったでしょう。しかし、パウロは人々の前で大胆に父親に手を置いて祈ったのです。その時、「祈って治らなかったら…?」また「うまく出来なかったと思われるのでは?」「まずは信仰を持つことを勧めるべきでは?」と考える誘惑があったかもしれません。しかし、パウロはあえてリスクを選び取りました。彼は信仰を働かせたのです。彼は祈り、手を置き、神の癒しが起こりました。「このことがあってから、島のほかの病人たちも来て、直してもらった。(9)」

終わってしまったどころか、使徒の働きは最初から最後まで癒しの記事が爆発しています。ルカは明らかに教会生活の中に引き続きこのような事柄が流れていることを伝えているのです。本当に尋ねなければならない質問は「神は今日も癒しをなさるのか?」ではなく、「神は今日祈りに答えられるのか?」です。もし、神が答えられるなら、なぜ、私たちは健康について祈ることを除外することができるでしょうか?癒しのために祈ることは重要なとりなしの課題です。

ピッパと私は何年もの間、数多くの人々のために祈って来ました。祈ったすべての人々が癒されたわけではありません。彼らは「すべて」の人が癒されるために祈るのではありません。彼らが祈るのは、イエスが私たちにそうするように言われたので祈るのです。ここ何年か、彼らは尋常ではない癒しを時々見てきました。失望してはなりません。信仰と大胆さを持って、愛と配慮をもって祈り続けましょう。

祈り:主よ。私たちが病にある人々の上に手を置いて、彼らの癒しを祈る機会を与えてください。あなたは今日も癒しをなさる神であることを感謝します。


解放のためにとりなす

2列王19:14-20:21

時には、あなた自身の人生の中で圧倒されるような問題に直面することがあるかもしれません。これは、そのような時にどう対処すればいいのかを教えてくれます。ヒゼキヤは絶望したり、パニックに陥ったり、あきらめたりしませんでした。彼は神に向かって祈ったのです。

ヒゼキヤの祈りと神の解放の御業は3か所旧約聖書に記されています(参照:イザヤ36-39、2歴代32)。さらにこれらの時代の記録はバビロニアの資料によって確かめられています。

ヒゼキヤが脅しの手紙を受け取り、大変ショッキングな問題に直面したのですが、その時、「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。(19:14)」ヒゼキヤは神に祈りました「主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。…主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。…私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(15-19)

ヒゼキヤのとりなしは、神がどなたであるかを意識的に認識することから始まります。私たちがとりなして祈る時、私たちは「地のすべての王国(15)」を支配するただ一人の神に向かって語りかけるのです。神は圧倒されそうになるこれらの問題を解決する力をお持ちなのです。

ヒゼキヤの祈りは神の栄光と誉れのための祈りでした。「そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。(19)」イエスは私たちに「御名があがめられますように(マタイ6:9-10)」と祈ることから始めるように教えてくださいました。

「ヒゼキヤは、…それを主の前に広げた。(2列王19:14)」という表現は素晴らしいものです。ヒゼキヤは神に問題を開示して語ったのです。預言者イザヤはヒゼキヤに神はこの祈りを聞かれたというメッセージを伝えました。神はヒゼキヤのとりなしの答えとしてアッシリアの脅威から人々を解放したのです。

ヒゼキヤはまた、自分自身の癒しのためにも祈りました。彼は死の時期が定められ、病気になりました(20:1)。その時、彼は自分のためにとりなして祈りました。「そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。(2)」再び、神はこのとりなしにも答えました。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。…あなたの寿命にもう十五年を加えよう。」(5-6)

ヒゼキヤは彼のとりなしの答えとして神の驚くべき祝福を体験しました。しかしながら、この箇所の最後には警告が記されています。バビロンからの使者たちが来た時、ヒゼキヤは彼のすべての宝物を見せました。(12-15)ヒゼキヤは主が彼に与えたすべての栄光を示したのです。イザヤは彼がしたことに対する結果として「何一つ残されまい(17)」と言いました。もし、私たちが主が私たちに与えた栄光を自分のものとするようなことがあれば、それは自分を危機にさらすことになるのです。

祈り:主よ。私たちが世界や国や町を見るとき、私たちはあなたの解放の必要を覚えます。あなただけがすべてのこの地の王国にまさって支配するお方です。あなたが天と地を御創りになりました。主よ。耳を傾け、目を開き、ご覧になってください。再び、あなたの聖霊を注いでください。人々があなたの御名を求めるのを見ることができますように。私たちがあなたの癒しの奇跡を見ることができますように。私たちがこの国が福音に満たされていくのを見ることができますように。教会にいのちが与えられ生き生きとし、社会が変革されていきますように。どうかこの地のすべての国々がただ一人神だけが主であることを知ることができますように
。アーメン。

H.K