2019年4月29日
第119日
イエスを巡る今日の闘い
私は25年以上、アルファのスモールグループでヘルパーやリーダーに加わってきました。その間に、彼は私たちの文化が推移していることに気づきました。特に若い人々の中にイエスに対する態度に変化があります。多くの人が神を信じると言いますし、聖霊についての考えにさえオープンです。しかし、イエスが悩みの種になることが増えてきました。彼らはこんな風に言います。「イエスはちょっと分かんない。」
ラニエロ・カンタラメッサ神父はしばしばこう言う通りです。「現代の闘いはイエスを巡ってである。」
イエスは全世界の救い主なのか?1世紀当時も同じ闘いがありました。現代人にとって「大勢の中の一人」としてイエスを受け入れることには歓迎です。イエスの唯一性が衝突の原因です。今日の箇所で、私たちは聖書の中に、モーセ、ヨシュア、エリヤ、バプテスマのヨハネなど特筆すべき人々と出会いますが、イエスのようなお方は他にいません。イエスは唯一です。イエスは普遍的な救い主なのです。
イエスのようなお方はいない
詩篇53:1-6
ナポレオン・ボナパルトは言いました。「私は人間を知っている。そして私はあなたに言おう。イエス・キリストはもはや人間とは言えない。彼と世界中のその他のすべての人間との間には、比較する言葉を見つけることは不可能である。」イエスは今まで生きてきたすべての人間とは全く違うのです。
ダビデは「善を行う者はいない。(1)」と言いました。神が天から人類を見るとき「善を行う者はいない。ひとりもいない。(3)」とおっしゃるのです。
ダビデは「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。(6)」救い主の到来を仰ぎ望んでいます。その願いは、もちろんイエスにおいて成就しました。イエスはその完全な善のゆえに唯一のお方です。使徒パウロはこの詩篇を引用し、すべての人に救い主が必要であることを説いています(ローマ3:10-12)。
ユダヤ人と異邦人、道徳と不道徳というこの世界の中の異なる人々をパウロが比較する時、彼は一つの結論に至ります。それは、神が善と義とみなすことができる人は誰もいないということです。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。(20)」
福音の不思議さは、義とされることのなかった私たちがイエスの完全な義によって義とされることなのです。「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(22)」
祈り:主よ。今は、神から義とされることができることを感謝します。それはイエスにある信仰を通して、信じる者すべてに来るのです。
イエスは唯一のお方
ヨハネ1:1-28
イエス・キリストは唯一です。イギリスの小説家アンソニー・バージェスは「イエスは、ひかえ目に言っても、比類ない。もし神がイエスのようなら、神は信じるに価する。」と記しました。
ヨハネの福音書全体は最初から最後まで「イエスとは何者か?」という質問に答えます。そして、ヨハネの答えは、神はイエスのようなお方であるということと、信じるに値するお方であるということです。イエスは完全に比類なきお方です。彼はまさに「ただひとりのお方(14,18,NIV訳)」です。イエスは「一つの種類の神の表現(18,MSG訳)」です。ヨハネの福音書の目的は、あなたをイエスとの友情関係を通して、神との交わりの体験へと導くことなのです。
あなたはイエスの友です。しかしイエスとは誰なのでしょうか?
- 唯一の神のことば
ヨハネの福音書は「ことば」という卓越したイエスの表現を開きました。私たちにとっては、奇妙な概念のように見えますが、ヨハネの同時代の読者たちにとってはもっとなじみのあるものでした。「ことばなる神」という考えはユダヤ人の読者には重要なものでした。ユダヤ人にとって「ことば」と聞くと神は創造の御業をことばによって為されたことが想起されました。また預言者たちは「主のことば」について語ったのです(イザヤ40:6-8、エレミヤ23:29)。
またギリシャ人の読者たちには、「ことば(ロゴス)」という概念に人生の意味を探求することと関連づけたことでしょう。哲学者たちがしばしば用いる「ことば」という語に、まだ知られていない「意味」や全宇宙の「目的」を感じ取ったことでしょう。ヨハネは両者にとって非常に刺激的なことばで福音書を書き始めたのです。
ヨハネは効果的に「これがあったおかげで、あなた方が探し求めてきたものについてあなたに告げましょう。」と言うのです。
ヨハネが「ことば」としてイエスについて記したことは間違いなく明らかです。「ことばは肉と地となりました。そして隣人となったのです。(ヨハネ1:14a,MSG訳)イエスは原初において神とともに居ただけではありません。「ことばは神であった(1)」イエスは神でしたし、今も神です。 - 唯一の創造者
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(3)」
イエスを通して、全宇宙が存在するようになりました。「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1:16)」 - 唯一の世の光
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(4)」
光は善と真理の象徴です。一方、闇は悪と偽りを表します。光と闇は互いに反対の概念です。しかし等価ではありません。一本のロウソクの灯は部屋全体を照らし、暗闇は打ち破られるのです。光は闇よりも強いのです。闇は光に打ち勝ちません。 - 唯一の人生の変革者
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(12-13)」
イエスを信じることは人生最大の著しい変化をもたらします。あなたがイエスをあなたの人生にお迎えする時、神はあなたをご自身の家族の中にあなたを受け入れてくださるのです。 - 唯一の神の顕われ
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(18)」
旧約聖書に描かれた神御自身の全てがイエスを通して顕されました。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(16-17)」これが、私たちが旧約聖書をすべて読むことの理由です。旧約聖書はイエスの光の内に理解する必要があるのです。
イエスはバプテスマのヨハネと対照的です。バプテスマのヨハネは強調されていません。彼は「光(8)」ではなく、「永遠(15)」ではなく、「キリスト(20)」ではなく、「エリヤ(21)」ではなく、「預言者(21)」ではありません。
しかし、イエスはバプテスマのヨハネについて「バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。(マタイ11:11)」と言いました。バプテスマのヨハネはイエスについて「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。(ヨハネ1:27)」と言います。バプテスマのヨハネの務めは、私たち皆も同様に、自分自身を指さすのではなく、ただひとりの御子であるイエスを指し示すことです。そのお方は唯一の神のことば、万物の創造者、世の光、人生の変革者にして、神の啓示なるお方です。
祈り:イエスよ。神のことばなるあなたを礼拝します。今日、あなたが新鮮に分かりますように、そして神の子となることの意味を深く知ることができますように。
イエスは唯一の救い主
ヨシュア15:1-16:10
ヨシュアとカレブは、出エジプトの当初からのメンバーの中で、ただ二人だけが約束の地に入りました。なぜなら、彼らだけが心を尽して主に従ったからです。(ヨシュアという名前は「主は救い」を意味し、「イエス」をヘブル語で表したの形です。)ヨシュアはイエスの予型です。ヨシュアとカレブは傑出した人物ですが、イエスとは違って、彼らは「唯一」ではありません。
カレブにはユダの地、ヘブロンがヨシュアによって割り当てられました(15:13)。しかし、カレブはさらに攻め上りました(14)。同様に、すべてのものの中で最も大いなる祝福である救いは恵みの賜物として私たちのもとに来るのですが、私たちはそれを受け取り、信仰によってそれを保持し続けなければなりません。「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)」それは私たちに与えられた賜物なのです。
聖書の中にあるすべてのやり方として、神はあなたに応答を求めておられるのです。神はあなたに「神を尋ね求める(詩篇53:2)」ことと「神を呼び求め(4)」ることを願っているのです。あなたは、あなたに与えられた賜物を保持しなければなりません。そして、イエスを信じなければならないのです。あなたがそうする時、あなたは神の子となる特権が与えられるのです(ヨハネ1:12)。
イエスは唯一の救い主です。イエスにある信仰によって救いが保たれ、イエスの友となることができることほど素晴らしいことはありません。
祈り:主よ。今日、私はあなたを慕い求めます。恵みとあわれみの満ちたイエス・キリストによってあなた自身を顕わしてくださったことを感謝します。どうか恵みとあわれみに満ちた人生を生きることができますように。私に委ねられた務めを果たすことができますように。どうか恵みとあわれみに満ちた者として語る者とならせてください。アーメン。
H.K
References
Raniero Cantalamessa, Faith Which Overcomes the World, (Alpha International, 2006), p.9
John Vanier, Drawn into the Mystery of Jesus through the Gospel of John, (Darton,Longman & Todd Ltd, 2004)
I have recently been reading Drawn into the Mystery of Jesus though the Gospel of John by Jean Vanier. It’s a wonderful book which I thoroughly recommend. I am deeply indebted to him for some of the material that I have added to the New Testament section of this commentary.