Tokyo Chapel

2019年3月18日

第77日

救い主

世は救い主を探しています。カナダのミュージシャン「ライツ」はこれを「救い主(Savior)」という彼女の歌の歌詞に表現しています。

その夜は静まり返っていった
沈黙を聴くとき
私はひざまづく
私は何かを失ったことを知る

遅かれ早かれ、私には救い主が必要だ
私には救い主が必要だ…

レクレー・ムーアはラッパーであり、企業家であり、レコード・プロデューサーであり、俳優です。彼は私たちの多くにこう語っています。「僕はクリスチャンじゃない。だって僕は強くなんでも持っている。僕はクリスチャン。だって僕は弱く、救い主が必要だって認めている」

キリスト今日の驚くべき真理は、イエスにあって、あなたは救い主を持つことができるということです。このあり得ないほどの良きニュースにあなたはどのように応答すべきなのでしょうか?


救い主なる神に呼び求める

詩篇35:1-10

どんな時でも、神に助けを求めることが出来ます。

人生は闘いの連続です。もし、神の御旗を掲げるなら、敵対する勢力と向かい合う覚悟が必要となります。ダビデは神に、自分が向かい合っている敵と戦ってくださるように祈っています(1a)。

「私と戦う者と戦ってください。…私を助けに、立ち上がってください。…私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ』(1b-3)」とダビデは祈っています。The Message訳では「私を安心させてください。『わたしがあなたを救う』とおっしゃるのを聞かせてください(3,MSG訳)」

あなたが攻撃にさらされている時、すぐにそれが自分の過失だと感じるものです。しかし、ダビデは「ゆえもなく」と2度繰り返して、彼らが罠を仕掛けたと言います(7)。時に、自分に怠りがないにも関わらず、苦難に遭う時があります。また時には、自分が正しいにも関わらず…ということもあるでしょう。ダビデは神に助けを求めて祈っています。「こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。(9)」

向かい合う敵は、自分よりも強いと感じるかもしれません。ダビデは「野次馬」「いじめっ子」そして、「背後からナイフで襲いかかる殺し屋」(1,4,MSG訳)に向き合っていたのです。しかしダビデは神を「彼よりも強い者から救い出す方。(10)」と呼びました。
神の究極の救いはイエスにある救いです。私はベン・フィールディングとリューベン・モーガンが作詞した、この救いを歌う「Mighty to Save」が好きです。この歌詞を祈りと礼拝に用いましょう。

祈り:
救い主
彼は山をも動かせる
私の神は力あるわざをもって救う
彼は力あるわざをもって救う
永遠に、救済の主
彼はよみがえり、死に打ち勝った
イエスは死に打ち勝った
(Ben Fielding & Reuben Morgan「Mighty to Save」より)


あなたの救い主としてイエスを見る

ルカ2:21-40

イエスは世の救い主です。御使いは「救い主(2:11)」の誕生を告げました。この箇所では「主は救い」という意味の「イエス」と名づけられたお方の8日目の様子が描かれています。

「モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。…主の律法に…定められたところに従って犠牲をささげるためであった。(22-24)」イエスは旧約聖書にしるされている犠牲といけにえの究極の成就です。

  1. 平和を受け取るためにイエスを見る
    シメオンはイエスをその腕に抱き「私の目があなたの御救いを見た(30)。」と言いました。イエスを見ることは救いを見ることです。そして、シメオンの心は平安に満ちました(29)。
  2. 神がどのようなお方かをイエスに見る
    イエスは神を啓示する光です。「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(32)」イエスがご自身を啓示することなしに神を知ることは不可能です。神はそれをイエスにおいてなされたのです。イエスだけが神がどのようなお方であるかを啓示してくださるお方です。「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」イエスはすべての人々に神を完全に啓示するのです。
  3. 恵みとまことのためにイエスを見る
    イエスは光栄をもたらす光です。「御民イスラエルの光栄(ルカ2:32b)」です。「光栄」という語は神の卓越性、美、偉大さ、完全さを語る言葉です。神は光栄に満ちています。イスラエルは光栄を持っています。なぜなら、神は最初は荒野で幕屋において(今日の旧約聖書の箇所に記されているように)、そして、その後エルサレムの神殿に、神は彼らの内に住まわれたからです。イエスによって、イスラエルは神の栄光を最も真実に最も満ち満ちた感覚で分かるようになるのです。ヨハネはイエスについて「この方の栄光を見た。」と言い、「この方は恵みとまことに満ちておられた(ヨハネ1:14)」と記している通りです。イエスは私たちのうちに住むために来られた神であられるので、イエスはイスラエルに、そして私たちに栄光をもたらされるのです。

悲劇的なことに、多くの人々は神であるイエスの啓示と栄光を拒絶します。シメオンはこのことを次のように預言しました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。(34-35)」

イエスがもたらす大いなる祝福に深く関わる者には、同時にイエスが負われる苦難にも関わります。あなたには家族、親しい友人、あなたが関わっている他の人々がいるかもしれません。そして、彼らはイエスに敵対したり無関心であるかも知れません。私たちが彼らからイエスを信じることをなじられたり、揶揄されたりするとき、マリアの心痛のほんのわずかばかりを私たちも味わっているのです。「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。(35)」

マリアはイエスの成長と「強くなる」様を喜びをもっと見つめていました。「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった(40)」のです。この大きなマリアの苦難は、そのあとに続いているものでした。「知恵」と「恵み」は救い主の特徴です。そして、それは私たちが人生の中で慕い求め倣うべきものなのです。

祈り:主よ。シメオンのような眼を私たちに与え、世の救い主にある救いを今日見せてください。恵みと知恵を今日私たちにお与えください。私の決断に、出会いに、そして会話に。


世の救い主を礼拝する

民数記7:1-65

多くの新しく親になった人々は、神が彼らに赤ちゃんを与えたことに深い感慨を覚えます。マリアとヨセフが、彼らに与えられた奇跡の赤ちゃんを神におささげするために神殿に向かった日は、なおのこと深く感動したことでしょう。

救い主イエスの誕生は歴史の中で最も重要な出来事でした。シメオンはイエスをその腕にだき、「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもの(ルカ2:30-31)」と言いました。イエスの到来の預言と備えがこんなにも詳細に、また綿密であったことは驚くに当たりません。

この民数記の箇所に、幕屋での礼拝がどのような方法でなされていたかが記されています(民数記7:1-10:10)。すべての部族がそれぞれ、自発的にささげ物を主の前に持ってきました。それぞれが等しく分かち合われました。彼らは神に、主のしもべモーセを通してささげたのです。すべての神の民が幕屋の奉献に包含されました。

この箇所の最初に、現代の読者にとって、不必要に思える技術的な内容が記されています。しかし、幕屋における神の贅沢なささげ物(民数記7章)は、宮の中でイエスの表わされたこと(ルカ2:22)の美しい投影となっています。この旧約聖書の箇所は単なる古代の会計係りの記録などではないのです。

この贅沢なささげ物は幕屋の落成と奉献のためのものでした。幕屋はイスラエルの民にとって神の臨在の場です。それは神の民であることの象徴的な場でした。それは彼らのうちにある神の恵みと臨在に対する応答です。いわば、彼らのささげ物は救い主なるお方への感謝と礼拝の表現であったのです。

しかし、それと同時に、これらのささげ物はまた、幕屋の最終的な奉献のための準備の一部であったといえます。彼らは神の臨在のためにふさわしいものを造っていました。綿密な準備、贅沢なささげ物、そしてそれらについての詳細な記録は、彼らのうちに表わされる神の臨在の驚くべき祝福を物語るものなのです。

モーセの律法におけるすべてのささげ物と犠牲は、救い主の誕生と死のための準備であり、予表です。幕屋はもっと偉大なものを指し示しているのです。もはや神は天幕の中に住んではおられません。神は私たちの中に住んでおられ、私たちと一つとなっておられるのです。イエスは律法にしたがってささげられました。しかし、イエスは律法の目的そのものを成就してくださろうとしたのです(22-24a)。「さて、彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、…。」(39a)

それから何十年もたって、救い主イエスは「ただ一度(ヘブル10:1-10)」ご自身の体をいけにえとしておささげくださったことによって、旧約聖書のすべてのいけにえやささげ物を必要のないものとして廃止されたのです。(ヘブル10:1-10)

シメオンが世の救い主をその腕に抱いたことを認識したとき、「神をほめたたえ(ルカ2:28)」たことは驚くに値しません。ハンナも同様に、「神に感謝をささげ(38)」ました。救い主イエスは、すねての賛美と感謝の焦点となるものです。

私はまたベン・カンテロンが作詞した曲も好きです。それは救い主イエスについて今日私たちが読んだすべてのことを祈りと礼拝のうちに応答するのに相応しいものです。

祈り:
主は私たちに道、私たちを救う道を設けるために、
イエスは世界の救い主となられた
だから、私たちは彼の名声を高め叫ぶ
主をほめよ主を賛美せよ
世の救い主、イエス
(Ben Cantelon「Saviour of the World」より)

H.K

References

Ben Cantelon, ‘Saviour of the World’. From Everything in Colour, 2010 Thankyou Music/Adm. by Capitol CMG Publishing excl. UK & Europe, adm. By Integrity Music, part of the David C Cook family, songs@integritymusic.com.

Lecrae, @lecrae on Twitter, 23 August 2012, https://twitter.com/lecrae/status/238677876927504386 [last accessed February 2016]

Lights, ‘Saviour’, from The Listening, Songwriters Salter, Thomas / Poxleitner, Valerie. Lyrics © Sony/ATV Music Publishing LLC