Tokyo Chapel

2019年4月27日

第117日

勝利の生活を生きる方法

数年前、ホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会の一人の青年が、イギリスの大手新聞社の資料室に勤め始めました。新聞社には著名人の切り抜き記事がファイルされていました。そして膨大なファイルは書架にところ狭しと並べられていました。そして「生きている人」と「死んだ人」とが区別されていました。

ある日、この青年は死んだ人の棚の中に「イエス・キリスト」というファイルを見つめました。彼は周りに誰もいないかぐるっと見回してから、そのファイルを「死んだ人」の棚から「生きている人」の棚にさっと移したのだそうです!

イエス・キリストは生きておられます。イエスは死からよみがえられました。もし、死んだ人の棚から、この方のファイルを探している人がいるならば、天の御使いはきっとこう言うでしょう。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:5-6)」

「勝利」とは汚い言葉ではありません。イエスは打ち勝ちました。かつて英国のレスリーニュービギン主教が言いました。「復活は敗北からの逆転ではない。勝利の顕れである。」十字架は敗北ではありません。イエスは十字架を通して罪と死と悪魔の力に打ち勝たれたのです。


主の勝利の恩恵を受け取る

詩篇51:10-19

このダビデの祈りは愛すべきものであり、自分自身の祈りに適用することが出来ます。ダビデは、私たち皆と同じように、失敗の苦しみの中にありました。彼は赦しを叫び求めましたが、今は勝利を叫んでいます。私たちが罪を犯した時、私たちは救いを失うわけではありませんが、救いの喜びを失ってしまいます。(12a)。ダビデは罪を繰り返すことで打ち負かされたくはなかったのです。

これらすべては「砕かれた霊。 砕かれた、悔いた心(17b)」から始まります。このようにして主の前に来る者を主が退けることがないことは確かです。「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(17b)」

ダビデは主が与えて下さる勝利の生活を飢え渇いて祈り求めました。彼の悔い改めは、個人的な内面の回復だけでなく、エルサレムの回復をも包含するものでした。「どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、 エルサレムの城壁を築いてください。(18)」

祈り:主よ。私はきよい心(10a)でゆるがない霊(10b)
をもって、神の臨在を(11a)
、あなたの聖霊で(11b)救いの喜びが回復されるように祈ります。

あなたの霊により頼み(12b)
祈ります。どうか神の道を教え(13a)、人々を神に立ち返らせ(13b)ることが出来ますように。私はあなたをほめたたえます。「あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。(14b-15)私はこの世界の変革のために祈ります(18)。


イエスとイエスの勝利を認める

ルカ24:1-35

どのようにして、今日イエスと出会うことが出来るのでしょうか?

イエスの復活は歴史的事実であり、本当に起こったことです。 しかし、単に歴史的事実だけではありません。その当時、人々が復活のイエスを体験したように、今、私たちもイエスとの出会うことが出来るのです。それはどのように体験されるものなのでしょうか?今日の箇所はその答えに光をもたらします。

この日は歴史を全く変えてしまう日でした。「週の初めの日の明け方早く(1)」イエスはよみがえられました。それゆえに、日曜日は礼拝と安息の日となったのです。

この箇所で、私たちはイエスが死に打ち勝たれた2つの鍵となる証拠を見ます。

  1. イエスのからだはなかった
    「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。(2-3)」

    御使いは「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(5-6)」と言いました。実に、イエスが「三日目によみがえらなければならない(7)」と予見して言われた通りにです。(新約聖書では、イエスが死から「よみがえった」という記述が、しばしば受動態で「よみがえらされた」と表現されています。)

    女たちの証言した時、弟子たちは信じようとしませんでした(11)。しかしながら、私たちはペテロがとっさに反応したのを見ます。「ペテロは、立ち上がると走って墓へ行き」ました(12)。そして、彼もまた、イエスのからだがなくなっているのを見ました。「かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。(12b)」墓にはイエスのからだはなかったのですが、 何もかもなくなっていたのではありませんでした。

    その瞬間からペテロはイエスが死を打ち破り勝利したことを悟らなければなりませんでした。イエスは確かに死にました。しかし、死は終わりではなかったのです。そして、死は取り消されませんでしたが、まさに勝利にのまれたのです。
  2. イエスは生きていた。
    イエスは姿を現しました。それは霊的に存在したのではなく、新しいからだを持ってよみがえられ、弟子たちにそのお姿を現されたのです。ルカは、復活のイエスに出会った出来事の最初の記述としてエマオの途上にあった二人の弟子に姿を現されたイエスを描いています。イエスは二つの方法で二人の弟子にご自身を顕されました

    第一にイエスは聖書にみことばを通してご自身を啓示しました「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた(27)。」これは世界の歴史の中で最も驚くべき聖書研究です。イエスは聖書全体を通してご自身を説明されたのです。

    あなたは今まで、聖書の説明を聞いて、または、あなた自身が聖書を読んでみて、「心が燃やされる(32)」体験をしたことがありますか?時々、私は聖書の説明を聞いたり、自分で聖書を読んでいる時に、あたかも私に直接語りかけるように、突然、神が私に、そして私の生活の中にご自身を啓示されたと感じることがあります。その瞬間、私は心が燃やされているのを感じます。アルファのスモール・グループの参加した若い女性は、最近、人生で初めて聖書を読んだそうです。その時、彼女は聖書の言葉がまるで言葉が聖書のページごと心に飛び込んできたようだったと言いました。

    この弟子たちは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか(32)」と言いました。私たちは毎日、そのようにして聖書の説明を聞く時に啓示されたイエスを味わうのです。

    第二に彼らの目が開かれたのはイエスがパンを割いた時でした。「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。(30-31)」その後、彼らは「パンを裂かれたときにイエスだとわかった(35) 」と説明しています。

    この出会いをルカがつとめて記述したのは、最期の晩餐で主が語られた内容を響かせようとしたからでしょう。それは、私たちが共に聖餐式でパンを割く時にイエスと出会うことが出来るという励ましを与えてくれるのです。

    聖書の言葉と聖礼典は、今日私たちがイエスと出会うための二つの方法なのです。イエスは私たちが聖書を開く時に、そして聖餐式でパンが割かれる時に私たちにご自身を顕し続けておられるのです。もし、あなたが、イエスの臨在を体験したいのなら、私たちの日常の基礎にこれらのことを確かにすることです。

祈り:父よ。イエスが今も生きておられること感謝します。私が聖書の言葉を学ぶとき、彼らがイエスと出会った時のように心を燃やしてください。私がパンと杯を頂く時、彼らのように目を開いてくださり、イエスだと分かりますように。


イエスの勝利を反映する

ヨシュア11:1-12:24

私はイエスがエマオの途上で、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた際に「ご自分について書いてある事がら(ルカ24:27)」として今日の箇所をも語ったと想像することが好きです。

この箇所には、引き続きヨシュアの勝利のテーマが描かれています(10:10)。ここでどのように敵の王たちが合同でイスラエルに対抗して戦ったかが分かります(11:5)。しかし主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない。(6)」と語り、主の言葉通り、「主が彼らをイスラエルの手に渡された(8)」のです。神はヨシュアが行くところすべてに勝利を与えました。「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。(23)」

イエスはヨシュアの軍事的戦略を今日の私たちに模範として教えようとはなさらないだろうと思います。それよりも、神がイエスの死と復活を通してもたらされた、非常に異なるタイプの大勝利を、その型としての側面を教えられるのです。ヨシュアはキリストの型です。実に、ヨシュアはギリシャ語では「イエス」と訳され、その意味は「主は救う」なのです。

明日、読むことになるのですが、ヨシュアの勝利はまだ終わってはいません。主はヨシュアに言われました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(13:1)」イエスだけが完全に勝利をもたらしてくださったお方です。聖書のあらゆる箇所がすべて指し示しているのはイエスだけです。イエスこそが偉大な勝利者であり、私たちの生活の中にもたらされる勝利の源なのです。

祈り:主よ。死と罪と悪しきすべての力に打ち勝ったあなたの偉大な勝利のゆえに感謝します。今日の私の歩みが、この勝利を反映するものでありますように。さらに、私の個人の歩みにだけでなく、私たちのコミュニティー、町や国にまで及びますように。アーメン。

H.K­

References

Lesslie Newbigin, The Open Secret (Eerdmans B Publishing, 1995), p.36.