2019年1月21日
第21日
神に正直に打ち明ける
多くの議論、熱弁、調査の後で、オックスフォード辞典部門が発表した2016年を代表する言葉は「ポスト真実(Post-truth)」でした。ちなみに、この単語が登場したのは1992年。それが、2016年には使用頻度が前年比2000%まで増加しました。この年のイギリスは、EU離脱があり、アメリカ大統領についての議論が交わされ、多くのイギリス人が、「感情的な訴えが政治的に影響を与える」ことを強く実感したのです。不正直、不正確、疑惑、そしてあからさまな真実の否定に我慢しなければなりません。見え透いた嘘が日常になっています。
しかし、もしあなたが車を買うなら、その車についての本当のことを知りたいでしょう。人間関係で、あなたは真実を知りたいでしょう。私たちは正直さと真実に飢え渇いています。
私たちは今日の聖書箇所で、神は嘘や偽りを好まれないのを見ます。ダビデは言いました。「人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。(詩篇12:2)」イエスはイザヤ書を引用して「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マタイ15:8)」と言いました。私たちは、ヨセフの兄たちが父を騙してヨセフが非業の死を遂げたように見せかけたことを読んできました(創世記37:31-35)。しかしながら、今日、私たちは、彼らが神に対して偽ることが出来ず、心の内を打ち明けることを見ます。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。(42:21)」
神はあなたに正直に打ち明けてほしいと願っておられます。神は率直さを好まれるのです。神は今日あなたの心にあることを聞きたいと願っておられます。
神に助けを求める
詩篇12:1-8
ダビデの心の叫びは「主よ。お救いください(12:1)」でした。ダビデは自分の生きた時代の社会の状態を嘆き悲しみました。社会と言っても今日の私たちの社会とは状況はかなり違いますが。うそ、偽り、傲慢、貪欲、自己中心をダビデは描いています。ダビデは神に嘆願しました。
人々が口で語ることは彼らの心にあることを反映していませんでした。
「すべての人が嘘の言葉を話す。
嘘は滑らかな唇から流れ落ちる。
フォークのように分かれた舌から、でたらめな言葉を並べてしゃべる(2,MSG訳)
神は言葉巧みな賢い人々には心動かされません。最初のダビデの救いを求める叫びは、神が弱く貧しい者を助けると約束し答えられました。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。(5)」
ダビデは神の頼もしさと周囲の空虚な嘘とを対照的に際立たせています。「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。(6)」たとえ周りが嘘で取り囲まれていたとしても、主がダビデを安全に保ち、守り続けるという確信が、ダビデに与えられたのです。「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」
「主よ。助けてください」はあなたが関わるすべてのことを神が導いてくださることをお願いするために、一日を始めるときの偉大な祈りです。
祈り:主よ。助けてください…(今日、あなたが関わるすべてを神のもとに取り運びましょう。)
嵐の中で主に呼ばわる
マタイ14:22-15:9
イエスは一人で祈るために退かれることを好まれました。「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。(14:23)」あなたが完全にあなた自身と神に合わせるとき、あなたは神に正直に、そしてあなたの心の奥底から話すことができるのです。
イエスが水の上を歩くことが出来たのは、それほどに神との近さを生きておられたからです。イエスはペテロにも同じようにすることを励ましました。しかしペテロは「風を見て、こわくなり、沈みかけた(30)」のです。そしてパニックに陥りました。確かにその気持ちが分かります。時々、物事が思いもよらない方向に傾き始めるとき、私はイエスから目を離してしまいます。私の周りの環境に焦点を当てると、私は「沈み」始めるのです。このような状態の真っ只中で、ペテロはパニックの祈りをしました。「主よ。助けてください。(30)」
それはパニックの祈りでしたが、心からの祈りでもありました。すぐさまイエスは彼に手にご自身の手を伸ばし、彼をつかみました(31)。今まで私がしたパニックの祈りを振り返ってみると、それらが答えられたいくつかの方法はとても素晴らしいものでした。
イエスとペテロが舟に戻った時、風は静まり、「舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った(33)」のです。
この一件の結末はすべての弟子たちが心からの礼拝の言葉を叫んだということです。ユダヤ人は一神教ですので、彼らは神だけを礼拝すべきであるという戒めを知っていました。その彼らがイエスを礼拝したのです。彼らはイエスが「神の子」であることを認識したのです。
実は、イエスが水の上を歩いて来た時に弟子たちに語った最初の言葉は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない(27)」でした。この「わたしだ。」は出エジプト記3:14の「わたしはある」という神の名と同じ表現です。イエスは弟子たちにも、私たちにも、ご自身が偉大な「わたしはある」というお方であり、それゆえに恐れることはないと語っておられるのです。これは、あなたが今日、どのような状況にあったとしても、イエスがすべてを支配しておられるという揺るがぬ保障なのです。
あなたは、イエスが為そうとすることや、なぜイエスが生活をこのような方法で導いておられるかを理解していつも落ち着いているというわけではないかもしれません。しかし、あなたはイエスが支配しておられることを知って落ち着くことはできるのです。
人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、癒してくださいと叫びました。「そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。(マタイ14:36)」
次の箇所(15:1-9)では、イエスはパリサイ人に対して本当に「その心(8)」がどこに行ってしまったのかということを問うています。それは、彼らがイエスに弟子たちが言い伝えを破ることについて問うてきたことが始まりでした。しかし、イエスは形成を逆転させたのです。
聖書は、私たちが家族の、特に両親の世話をすることがとても優先されるべきことであることを明らかにしています。パリサイ人たちは、家族を世話するための費用を神にささげることに用いたということによって、両親の世話をすることができないという、もっともらしい理由を思いつきました(5)。
イエスは彼らの偽善を糾弾したのです。「偽善」という原語の字義的な意味は「劇で仮面をつける」です。彼らの仮面は唇では神をほめたたえることです。しかし、実際は「その心は、わたし(神)から遠く離れている(8)」のです。神はあなたの唇よりも心にはるかに関心を向けておられるのです。
祈り:主よ。今日あなたを神の子として礼拝します。私が恐れる必要がないことを感謝します。物事が思いもよらない方向に傾く時、あなたに助けを求めることができ、あなたは私の祈りを聞いてくださいます。
心の底から神に呼ばわる
創世記41:41-42:38
ヨセフは良い晩年を閉じました。しかし、彼の人生は悲惨な始まりでした。彼は「穴(37:24)」に入れられ、「牢(39:20)」に入れられ、最後は「宮殿(45:16)」でした。
聖書の中の多くの人々(イエス、バプテスマのヨハネ、エゼキエル、民数記4章の神殿に仕えたレビ人や祭司たち)のようにヨセフは30歳でその活動を始めました。その歳になるまで、ヨセフは訓練の中にあったのです。今や、ヨセフはエジプト全土の全権を掌握していました(41)。
神は、ヨセフが困難の中にあったすべての時期に、彼の心を見ておられました。ヨセフは17歳から30歳までの13年間、ヨセフは神がどうなさるのかを問い続けなければなりませんでした。彼は多くの拒絶、患難、不正、投獄、失意、その他の試練を通りました。しかし、それらすべてを通して、神は「エジプト全土を支配させ(41)」るための準備をされたのです。
神は彼の心が正しいので、彼が信頼に足るということを知っていました。彼はすべての試練の中でずっと神の傍にとどまり続けたのです。あなたが戦いの時期なのか、祝福の時期なのかではなく、主の近くにとどまり、あなたの心からの交わりがあるかどうかが重要なのです。
ヨセフは二人の子にマナセ「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた(51)」とエフライム「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた(52)」という名をつけました。二つの名前の共通のテーマは「神が私の…された」というフレーズです。「労苦」(マナセ)の時も、「実り」(エフライム)の時も、ヨセフは神が支配しておられることを感謝したのです。
苦難の日々を苦々しく心に残すのではなく、また、成功を自慢するのでもなく、神があなたの人生と状況に主権をもって働かれたことを認めましょう。
ヨセフとは対照的に、兄たちは彼らの欺瞞と罪責感に生きなければなりませんでした(42:21以降)。彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。(21)」彼らは心配(28)しているのですが、その唇では「私たちは正直者だ(31)」と言いました。
ヨセフの最初に見た夢は実現しました。今まで彼が通った困難にも関わらず、彼は神を信頼し続け、忠実であり続けたのです。初めはさんざんでしたが、最後は素晴らしかったのです。
神が与えた夢を決して忘れてはなりません。たとえ、ヨセフのように、最初が「穴」「牢」で始まったとしても、最後は「宮殿」にいるのですから。ジョイス・マイヤーが書いているように、「あなたの始まりがどんなところであったとしても、あなたは偉大な最後を迎えることができます。…あなたがたとえ今穴の中にいたとしても、神はあなたをそこから引き上げ、あなたに対して、そしてあなたを通して、偉大なことをなさることができるのです。」
祈り:主よ。誠実に生きることができるように導いてください。唇と心が互いに一致していますように。私の祈りの中で、私の心の奥底から正直に助けを求めることができますように。あなたは、私の心の叫びを聞きとってくださいますことを感謝します。アーメン。
H.K
References
Joyce Meyer, Everyday Life Bible, (Faithwords, 2013) p.72