Tokyo Chapel

2018年2月6日

第37日

隠されたこと

私が初めてイエスと出会った頃、私は信仰についてのすべての質問の答えを知らなければならないと考えていました。しかしながら聖書を学べば学ぶほど、私はすべての答えを知る必要はないという認識を持つようになりました。いわば、「健全な不可知主義」 というものがあるのです。それは「聖書的不可知主義」と言ってもいいのかもしれません。

私たちが答えを知っている質問があります。しかし、他のある質問は、その答えが「私は知りません」というのが最も良い答えです。「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、 …(申命記29:29a)」

私たちは聖書が明らかにしていることについて、明らかにする必要があります。あなたが知り得ることについては不可知論であってはなりません。同様に、聖書が不可知論的である部分については独断的であってはなりません。

今日の箇所で、私たちは頻繁に尋ねられる大きな質問から3つの例を見ていきます。それらの質問の各々の答えには、それぞれ、私たちが知り得ることと、知らないことが含まれています。


私に用意されている未来はどのようなものか?

詩篇18:34-42

第二次世界大戦の最中、ナチスの手からユダヤ人を助けたオランダ人、コーリン・テン・ブームが幼かった頃、父親にこのように尋ねました。「お父さん、私はイエス様のために生きるための力があるかどうか心配なの…。」すると父は「おまえがアムステルダムに列車で行った時、切符を買うのにお父さんがいつお金を渡したか覚えている?3週間前だった?」彼女が「いいえ。列車に乗るちょっと前だったわ。」と答えると、父は言いました。「そうだったね。神様もいつおまえに力が必要なのかを知っておられるんだよ。主はその時にはピッタリと必要に応えてくださるんだよ。」

神はダビデにすべての敵を打ち破る勝利を与えましたが、ダビデはそれらの戦いを振り返ってこう言いました。「あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。(18:39)」これら戦いを交えた敵がダビデが戦った最後の敵ではありませんでした。山のように敵が待ち構えていたのです。

  1. 私たちが知らないこと
    ダビデのように、あなたは、この先どんな戦いがあるのかを知りません。しかしながら、私たちはほとんど、正確にどんな戦いがあるかを知っていたとしても多分それはあまり役には立ちません。
  2. 私たちが知っていること
    ことわざに「私たちは何が将来用意されているかは分からない。しかし、私たちは誰が将来を用意しているかを知っている。」とあります。ダビデが知っていたのは、神は「戦いのために、私に力を帯びさせ(39)」てくださったので、神は将来もそうしてくださるということでした。あなたは、神はあなたが力を必要とする時、それをあなたに与えてくださるということを知ることができるのです。

祈り:主よ。あなたの聖霊はどんな戦いがあろうとも、時にかなって私に力を帯びさせてくださると確信することができますことを感謝します。


イエスはいつ再臨するのか?

マタイ24:32-25:13

この箇所で、イエスはご自身がお戻りになること、つまり再臨について語っています。イエスは私たちが知ると思われることが確かにあるということ、そして、私たちが知らないことが確かにあることを語っています。(「あなたは、あなたの主が姿を見せるのがどの日なのかは知らない。しかし、あなたは…を知ることができます。24:42-43,MSG訳」)

  1. 私たちが知らないこと
    イエスはっきりと再臨がいつであるのかは誰もわからないことを示されました。「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(24:36)」ここで、「子も知りません」とご自身でさえ、地上にあってその日がいつかは知らないと言われたのですから、再臨の日がいつなのかという質問の明白な答えは「分かりません。」なのです。イエスの再臨する日時を正確に特定しようとすることは多くの時間とエネルギーを浪費することです。いつ再臨があったとしても用意できているように「だから、目をさましていなさい。(42)」という警告が与えられていますが、それは、いつイエスが帰ってこられるのかを知らなければならないという意味ではないのです。これは、「隠されていること(申命記29:29a)」の一つなのです。
  2. 私たちが知っていること
    イエスはいちじくの木から学びなさいと言われました。「葉が出てくると、夏の近いことがわかる(マタイ24:32)」と。イエスは、もし私たちがしるしを見るなら、イエスが来られるのは「近い」ということを「知りなさい」と言われました。それゆえ、私たちは「見張って(42, 25:13)」「用心する(24:44)」のです。私たちはまた、再臨が近くても、それは、イエスの降誕からは長い時間が経ってからであると知ることができます(25:5)。そして、私たちはまた、「思いがけない時に来る(24:44)」ということを知っています。いつ、イエスが帰ってこようとも、それは驚くべきことですが、鍵は、どんな時にイエスが来られてもいいように準備することです。

主の再臨の準備となる証しであることを理解することができるように、イエスは賢いしもべと悪いしもべの違いを描き出しています。賢いしもべは、主人の言いつけに忠実に従い、他の人々の尊厳を大切にして取り扱うことによって主人の帰りのために準備をしました。悪いしもべは主人の言いつけに不忠実で、他の人々をどのように扱うべきかを破壊するものでした。結果はみごとに違いました。(47と51を比較。)言いかえれば、あなたが神を愛し、人々を愛する生活を送っているなら、それはイエスの再臨を準備しているということなのです。

しかしながら、この神への愛と人々への愛が、イエスの再臨の準備となるということの証しとなる鍵の要素であるというすぐ後に、十人のおとめのたとえの中で、眠って準備を怠っていたおとめたちに花婿は、「確かなところ、私はあなたがたを知りません(25:12)」と言いました。私たちはここに違ったタイプの「知る」という鍵があるのを見ます。それは知性的な知識ではなく、人格的知識です。

究極的には、それはあなたが何を知っているかではなく、誰を知っているかです。それは花婿との個人的な関係についてです。最後に、イエスを知ること、これこそが他の何よりも大切なことです。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:13)」

祈り:主よ。最後に最も大切なことはあなたを知っていることです。どうか日々あなたをもっとよく知ることができるように導いてください。


なぜ神は苦難を許すのか?

ヨブ38:1-40:2

いよいよ、ヨブ記のクライマックスに近づいてきました。それまでの章でヨブや友人たちは互いに神についての質問をしてきましたが、ここから神の質問が始まる番です。この箇所は「ヨブの最終試験」として記されています。この問題用紙にはヨブが答えを知らない数多くの質問が記されているのです。

私たちはそれを「なぜ神は苦難を許すのか?」としばしば問われることの答えとして見ます。あるものは私たちは知っていますが、あるものは知らないのです。ヨブの友人たちについての主の不平は、彼らが「知識もない言い分(38:2)」を言い立てたことでした。「私は知らない」と言いながら、彼らはヨブの苦難を説明しようと試み、実は何一つ答えを知ってはいなかったのです。

  1. 私たちが知らないこと
    神は天の万象や自然について49回(それは詩的なことばで)質問しています。多くの質問は「…知っているか(33,39:1-2)」です。あたかも神は楽しんでヨブをからかっているかのようです。神はヨブに「あなたは知っているか。(38:5)」そして「そのすべてを知っているなら、告げてみよ。(38:18)」と。

    神の質問のポイントは、人間である限り、私たちは知りませんということが確実なことがあるという事実を見せるためでした。それは「隠されていること」は、私たちの神、主のものであるということです。これは特に苦難という問題に関連することにおいて真理です。神学者や哲学者は、何世紀にもわたって苦難の問題に苦闘してきました。そして、誰ひとりとして、単純で完全な解決をもたらしてはいないのです。

    あなたが苦難の中にある時、あなたは必ずしもなぜを解決することはできません。神はヨブになぜ彼が苦難に遭っているかを語りませんでした。(私たち読者はこの書の始めでその答えの一部分は知っているのですが・・・。)しかし、神はヨブに良い理由があることを告げています。神はヨブに解決を与えています。それは、ヨブは宇宙の中ではほんの小さな存在であり、それでも神を信頼して呼び求めることができるのだということです。

    ヨブ記はなぜ神は苦難をお許しになるのかということよりも、私たちがどのように苦難に応答すべきなのかということについて語っている書なのです。神学的な専門用語を用いると、それは「神義論(theodicy)《神が善であるならなぜこの世に悪が存在するのかを論じる議論》」よりも「神の顕現(theophany)《神が目に見える姿で自らを現すこと》」に関するということです。

  2. 私たちが知っていること
    明日の箇所になりますが、ヨブがある事柄は「…自分でも知りえない不思議(42:3)」であることを認識しているのを見ます。言いかえれば、ある事柄は「(神には)すべてができること、どんな計画も成し遂げられること(2)」を知ることができるのです。

    あなたは知ることができます。神は究極的に支配しており、それゆえ、あなたは平安に生きることができ、確信をもって、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」と信頼することができるのです。

祈り:主よ。あなたがすべてのことができることを知っています。あなたは目的もなく計画を妨げるお方ではないことを知っています。どうぞ、私が知ることができずに隠されていることについて謙遜になることができますように。そして、私が知ることができることについて確信を持つことができますように。アーメン

H.K