Tokyo Chapel

2019年12月11日

第345日

どれほどあなたは世界に変化をもたらすことができるか

タイム」誌のインタビューで、偉大なスイスの神学者カール・バルトが若い神学者たちに助言したことについて詳しく語っています。「聖書を片手に取り、新聞を片手に取り、両方を読みなさい。ただ、あなたの聖書から新聞を解釈しなさい、」

私たちがニュースを聞いたり読んだりする時、がっかりして落ち込みやすいものです。それは時々、悪が善を打ち負かしたように思えるものです。誰かが、テロの報復、戦争、貧困、不正を話題にするとき、「悪者」の計画が上手くいくように見えます。

これが、私たちが切に聖霊の声に聴く必要があり、神の言葉を聞く必要があることの理由です。私たちがみことばを学ぶとき、私たちは善が悪に打ち勝ったことを知ります。今日の各々の聖書箇所には、私たちは究極的には悪は大勝利することはないということを見ます。終わりの日に、善は勝利するのです。さらに、善と悪の間にあるこの葛藤の中であなたは変化をもたらすことが出来るのです。


大勝利する善のために神に叫び求める

詩篇140:6-13

貧しい者や困窮している者への不正がこんなにもある世界の中で、神は貧しい者に対して正義を保証し、困窮する者の訴えを取り上げてくださいます。最後には、正しい者が神の御名を賛美するようになり、直ぐな人は神の御前に住むことになることを私たちは知っています。(12-13)

ダビデは「問題を起こす者たち(9,MSG訳)」に取り囲まれていました。彼らは「そしる者」であり暴虐の民でした(11)。ある者は肉体的な暴力をもって、またある者は言葉の暴力で向かってきました。どちらも共にダメージを与えるものです。これらの中にあってダビデは叫び求めました。「主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。(8)」

ダビデはこの詩篇を信頼の言葉で締めくくります。「私は知っています。神よ、あなたが被害をこうむる者の側に立っておられることを。貧しい者の権利のためにお世話くださることを。そして、正しい者が個人的にあなたに感謝し、善良な民があなたの臨在の内に安全が確保されることを、私は知っています。(12-13,MSG訳)」

祈り:主よ。私たちが叫び求めます。「『あなたは私の神。』主よ。(私たちの)願いの声を聞いてください。(6)」主よ。あなたの名をそしる者たちが栄えることがありませんように。あなたこそ力強い解放者、私たちの盾であることを感謝します(7)。


善をもって悪に打ち勝つ者になる

黙示録2:18-3:6

私たちは今日も引き続き7つの教会へのイエスの言葉を読みます。私たちは善と悪との戦いが教会とこの世との間にだけに起こるのではなく、教会の内部でも起こります。イエスは悪に打ち勝つ者たちへ尋常ではない、素晴らしい約束を設けます。

  1. きよい生活を送る

    テアテラの教会はその愛、信仰、奉仕、忍耐、個人的成長のゆえに称賛されています。「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。(2:19)」

    しかしながら、イエスはいわゆる「容認」ということについて教会を非難します。今日、「容認」という言葉は積極的な意味で受け取られ大いなる徳の一つと見なされています。寛容さは非常に重要な特質です。しかし、我慢には限度があり、ある種の容認は良いものとは言えません。

    イエスがテアテラの教会を批判したのは教会内の性的な不道徳を彼らが容認していたことについてです。「あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。(20-21)」

    私たちは性的な飽食の文化に生きています。そこでは、私たちは性的な活動や、個人的な「性生活の充実」を追い求めるようにを煽られているのです。聖書は性を非常に高く評価しています。正しい文脈において、喜び楽しむことを勧めています。それは結婚関係において愛し合うことです。しかし一線を越えたもの、すなわち、無分別な相手との性関係、ポルノは破壊的であり、勧められていません。私たちは「イゼベル」の性的不品行がどのようなものであったのかはわかりませんが、これらの節は性的な純潔の大切さを私たちの思いに刻んでいます。

    イエスは彼らがイゼベルの道から悔い改めなかったなら、災難を招くことになることを警告しています(22b)。神の御子は「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような(18)」お方です。そして「人の思いと心を探る者(23)」であり、行いに応じてひとりひとりに報いるお方です。

    これらは単に非難の言葉ではありません。それらは「悔い改め」への招きによって完成します。実際、「イゼベル」でさえ悔い改めの機会が与えられています(21)。性的な罪に陥ってしまった場合、私たちは赦しを受け取ることができることを覚えることはとても大切です。このような箇所の私たちの応答は絶望であるべきではありません。むしろ悔い改めと感謝です。

    教会はきよめに召されています。イエスは約束しました。「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう…わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(26-27)」イエスはご自身の権威を、忠実な勝利を得る者に分与してくださるのです。

    あなたはまたイエスの栄光を分かち合われます。「彼に明けの明星を与えよう。(28)」もし、あなたが罪の暗闇を捨て去るなら、あなたはイエス・キリストの御顔に神の栄光の輝きを見るでしょう。きよさのためのあなたの闘いには大きな葛藤があるでしょうが、やがてこの星であるイエスとともに、あなたは絶対的な永遠の充足に留まるのです。
  2. 正真正銘の者であれ

    きよめは完全な者であることを意味してはいません。それは正直な人生を生きることを意味します。それは偽善の反対です。それは現実であり、正直であり、正真正銘であることを意味します。

    サルデスにある教会は生きているということで好評でしたが、実は死んでいたのです(3:1)。それは一見、活動的でした。目指すべき良い教会のように思えたのです。しかし、それは独りよがりになってしまいました。イエスは彼らに悔い改めを呼びかけます。「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。(3)」彼らは福音を聞き、聖霊を受けていました。それらがどれほど驚くべき素晴らしい特権であるのかを思い出しましょう。そして、それが当たり前のことにならず、独りよがりにならないようにしましょう。

    サルデスに対する訴えは、偽善と本物ではないことでした。召しは現実性と真正性です。教会の中で「その衣を汚さなかった者」は多くありませんでした(4a)。「彼らは白い衣を着て、わたし(イエス)とともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。(4b)」

    もう一度、イエスは打ち勝った者たちに驚くべき約束を設けます。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。(5)」

祈り:主よ。私に容認する限度を知る知恵を与えてください。私自身の生活で罪に打ち勝つことを助けてください。あなたの大いなる愛に自己満足するようになってしまわないようにしてください。あなたに従い、善をもって悪に打ち勝つことができますように。私の名が「いのちの書」に消されることなく記されていますように(5)。


悪を形勢逆転する神を見る

エステル1:1-2:18

一人の人が変化をもたらすことが可能です。エステルはユダヤの国を救った一人です。彼女は孤児でした(2:7)。彼女は美しく可憐でした(7)。「彼女を見るすべての者から好意を受けていた(15)」のです。彼女は育ての親に対して従順でした。「エステルはモルデカイに養育されていた時と同じように、彼の言いつけに従っていた。(20)」彼女の召しは
長期にわたる準備を必要としたということはとても重要です。

エステル記は旧約聖書の中で女性の名を関した二つの書物のうちの一つです。(もう一巻はルツ記です。)エステル記は旧約聖書の中で神の名が記されていない二つの書物のうちの一つです。(もう一巻は雅歌です。)エステル記はユダヤ教の年間の休日であり祭日であるプリム(Purim)の起源について説明しています。時代はペルシャの王クセルクセスの治世(BC 486-465年)にあたります。

食える癖すは35歳の頃、強大な帝国を築き上げました。それは今日のイラン、イラク、エジプト、エチオピアさらにはインドの一部を版図としました(1:1)。

エステル記は、ユダヤ民族の歴史において、彼らが抹殺されることを望む者たちの形勢を逆転させることが出来た時、その瞬間いついて説明しています。

ユージン・ピーターソンは「あなたを殺そうとする者たちがどれほど多くいようが問題ではありません。あなたは、この全地に散らされている神に栄光を帰する、神に仕える、神を礼拝する民のコミュニティーから放逐されることは出来ません。これは今でも最終的で決定的なことばなのだ。」

これか何日間かエステルの尋常ではない特質をさらに私たちは読んでいきます。しかしながら、今日の箇所で、私たちはいかに神の御手が彼女の上にあったかということを見ます。神は彼女を形成を逆転させ、善が悪を打ちのめすための素地を準備しておられたのです。

ジョイス・マイヤーは記します。「私は、神がエステルに与えたように、神が偉大な召しをと目的をあなたの人生に与えておられると信じます。あなたへの課題は国を救い出すことではないかもしれませんが、神はあなたを召しておられるのは非常に重要なことのためです。それがどのようなものであれ、あなたが行動を起こすようになる時のためにに良く整えられた者となるように、準備の過程を受けとめて勤勉でありなさい。」

祈り:統べ治められる主よ。あなたが私の人生も歴史も究極的に支配しておられることを感謝します。イエスを通して、究極的に悪を打ちのめす大勝利が保証されていることを感謝します。善を持って悪に打ち勝つあなたの計画のうちに変化をもたらす者となることが出来るようにお助けください。アーメン。

H.K

References

Karl Barth in Time Magazine, Friday 31 May 1963

Joyce Meyer, Everyday Life Bible (Hodder & Stoughton, 2006) p.752

Eugene Peterson, The Message, ‘Introduction to Esther’, (NavPress, 2006) p.618