Tokyo Chapel

2018年12月29日

第363日

あなたの王冠がやって来る

女王エリザベス二世の戴冠式は1953年6月2日にウエストミンスター大聖堂で行われました。女王は、カンタベリー大主教から聖書を手渡され、祝福され、王冠を戴きました。

女王のダイヤモンド・ジュビリーは国の内外から女王の治世60周年記念として盛大に祝われました。その最高潮は2013年6月の終末に、街角でのパーティーやコンサート、特別な感謝礼拝、過去300年の中で最も盛大な女王のテムズ川下りの渡御が行われました。国全体が女王の60年間の統治をともに祝ったのです。2017年2月6日、英国王室始まって以来初めて65年の君臨を記念してサファイヤ・ジュビリーの記念祭を祝いました。

新約聖書によれば、すべてのクリスチャンはやがて冠を戴きます。そしてさらに長きにわたって統治します。この地上のどんな支配者よりもさらならる大いなる祝いと喜びが巻き起こるのです。あなたはキリストと共に統治するのです(黙示録20:4,6)。これは何を意味するのでしょうか?誰が主と共に統治するのでしょうか?いつこの統治が始まるのでしょうか?


主によって冠を与えられた名誉を楽しむ

詩篇149:1-9

神の民は、彼らの主権者なる創造者を祝うように召されました(2,MSG訳)。それはこのお方を踊りと音楽を奏でてほめたたえるためです(2-3)。

「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。(4-5)」というのがその理由です。「神を愛するすべての者たち」は「名誉ある座に就きます。(9,MSG訳)」ここに、ご自身の民が冠を受け、キリストとともに統べ治めるヒントがあります。

神はあなたにご自身の祝福を分かつことを喜ばれます。そしてこれらの節はあなたがすでに主から受け取ったものがどれほどのものであるかを思い起こさせます。あなたは、救いの「冠」を受け、それを喜ぶことが出来ます。そして主との関係の内にある誉をもって喜ぶのです。

詩篇の作者は続けて神の民が裁きを為すことについて語ります。(「彼らの手には、もろ刃の剣がある」,6b)今日の私たちの新約聖書の箇所には、神の民がキリストと共に裁きに就いているのを私たちは見ます(黙示録19:11以降)。武器は字義通りの剣ではなく、神のことばというもろ刃の剣です(ヘブル4:12)。

この大いなる責任と名誉は高ぶりにつながりやすいものです。しかしながら、主は「へりくだった者に冠を与える(詩篇149:4,NIV訳)」のです。私たちは自分の努力で救いを得ることは出来ません。それは贈り物です。私たちは自分の努力でキリストと共に正しい統治を為すことは出来ません。これもまた、尋常ではない贈り物、特権、そして名誉なのです。

祈り:主よ。あなたが救いをもって私に冠を与えてくださったことを感謝します。あなたと共に統べ治めるように召されていることを感謝します。あなたが私の王であることを感謝します。そして、あなたが私をキリストと共に共同相続人として召してくださっていることを感謝します


あなたとキリストとの統治を今経験する

黙示録20:1-15

私たちはこの箇所の詳細な解釈をしますが、素晴らしい知らせは明らかです。それは、キリストが戻って来られること、サタンが投げ落とされること、そしてあなたがイエスと共に統べ治め、永遠のいのちを経験するということです。これを祝わずしておられるでしょうか?

これはヨハネの黙示録の中で難しいことで有名な箇所です。多くの書籍、注解書そして小説が「千年王国」と「携挙」が起こることについて記しています。この主題の見解が熱心に取り扱われてきました。そして、悲しいことにそれが教会を分断してきたのです。それゆえ、いくつかの不安を覚えるので、私はここでこのテーマの私の仮説としての見方を示します。

ミレニアム(millemnnium; millenniaの複数形)は千年に相当する期間です。この言葉はラテン語の「(mille)」と「(annus)」が語源です。幾度も「千年」という期間として言及されています(2-7)。この千年という期間はいつを指すのでしょうか?広く言われているの事には3つの見解があります。

  1. 後千年王国説(Postmillennialism)
    これは、キリストの再臨は、教会によって人間の歴史の中で千年間、神の王国が設立されるまで起こることはないとする見解です。
  2. 前千年王国説(Premillennialism)
    これは、キリストの再臨に続いて、サタンが縛られ、「携挙」される聖徒たちがよみがえって、この地上において千年間キリストの一時的な王国に加わるという見解です。この千年王国は最後の反逆と最後の審判によって終わります。
  3. 無千年王国説(Amillennialism)
    これは、千年とはキリストの最初の到来と第二の到来との間の期間を指しているとする見解です。この立場は千年という期間は比喩的であって字義通りではないものであると捉えます。そして携挙はキリストの再臨の時に起こると考えます。

この説を巡ってクリスチャン同士の間に異なる主張があることは疑いの余地はありません。個人的に、私は3つすべての見解に難しさがあると思います。しかしながら、私たちがこの箇所を新約聖書の残りの部分、そして聖書全体と照らし合わせて読む時、私は反対するすべての議論があることを承知したうえで、「無千年王国説」が最も当てはまるという見解を取っています。

私たちが見てきたとおり、ヨハネの黙示録で用いられる言葉は「黙示」としての言語です。そしてそれは字義的に解釈されることを意図されていません。「千年」とは非常に長い期間を指しており、期間を限定してはいないのです。千年の期間がすでに始まったという証拠はどこにあるでしょうか?

第一に、サタンが縛られる(2)ことです。悪魔は古代の蛇である「竜」として描写されています。それが悪魔あるいはサタンです(2)。イエスの到来によって、彼はサタンを打ち滅ぼします。イエスは「強い人」を縛ります(マルコ3:27、マタイ12:29)。十字架の上で、サタンは打ち負かされ、「底知れぬ所に」投げ込まれました。そこに「閉じ、その上に封印」されるのです(黙示20:3)。

第二に、この期間の間もはや国々は欺かれないのです。「千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。(3)」これは、福音がすべての国々に告げ知らされるという、教会の時代です。何億もの人が、そして今や、何十億もの人がキリストの名を告白するのです。彼らの眼はイエスの良き知らせに開かれているのです。

第三に、使徒パウロによれば、私たちはもうキリストと共に統べ治めているのです。復活した殉教者と神の民がキリストと共に千年統治するのです。「私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。…彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(4)」聖パウロの言葉を借りれば「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:6)」

第四に、あなたは「神とキリストとの祭司(黙示録20:6)」として統治するように召されています。すべての信者のこの祭司の務めはすでに始まっています。私たちは「聖なる祭司」として召されているのです(1ペテロ2:5)。実際、ペテロは私たちを「王である祭司(9)」と見なしています。

この期間の最後に、「サタンはその牢から解き放され(黙示20:7)」ます。そして最後の衝突が起こります。もう一度言いますが、私たちはここで全く衝突とは言えないありさまを見ます。むしろ、イエスがすでに成し遂げた勝利が完遂するのです。悪の破滅は完全になされるのです(8-10)。それから最後の審判が行われるのです(11-15)。

祈り:主よ。あなたはキリストと共に私たちを引き上げ、天のところにともに座らせてくださることを感謝します。すべての機会を用いて、国々に良き知らせを宣べ伝えることが出来ますようにお助けください。


神があなたに責任をもって与えた権威を行使する

ネヘミヤ9:38-11:21

旧約聖書の多くの箇所がそうであるように、ここで、私たちは将来の前味を得るのです。神はご自身の民を喜ばれます。神は私たちに、支配と統治の権威を行使する立場を与えます。しかしながら、私たちは従順と責任をもって(10:35,NIV訳)この権威を行使するように召されています。

神の民は堅い盟約を結び、それを書きしるしました。そして、リーダーたち、レビ人たち、祭司たちはそれに印を押しました(9:38)。彼らは律法を守ることを約束し「主のすべての命令、その定めとおきてを守り行うための、のろいと誓いとに加わった。(10:29)」

彼らの問題は、私たちと同じように、律法を守ることが出来なかったことです。それゆえ、私たちは、イエスが神ののろいを私たちに代わって十字架の上で担ってくださらなければ、私たちは神ののろいのもとにあったのです(ガラテヤ3:13)。

私たちは勤労と休息という生活のリズムのバランスへと招かれています。

神の民は安息日を、そして七年ごとに土地を休ませ、すべての負債をキャンセルすることを守らなければなりませんでした(ネヘミヤ10:31)。彼らは自分たちの罪の贖いのために犠牲をささげなければなりませんでした(33)。

民のつかさたちはエルサレムに住んでいました(11:1)。しかし、誓約はコミュニティーによってなされたということが、この箇所から明らかです。― 律法を守るのは王や王子だけではなく、一目瞭然なこととして、すべての人々の責任なのです。

祈り:主よ。私が自分の生活に対して、そしてあなたに仕えることにおいて、そしてあなたの命令を守ることにおいて責任を果たすように召されていることを感謝します。私が自分の罪のための贖いのためにいけにえを用意する必要がもはやなくなったことを感謝します。イエスの死と復活を通して、サタンが打ち破られただけではなく、天のところでキリストとともに統べ治めるために私を引き上げてくださったことを感謝します。すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれたことを感謝します(エペソ1:20-21)。アーメン。

H.K