2019年11月28日
第332日
奮い立つ方法
何週か続けて、ホーリー・トリニティー・ブロンプトン教会で、私は二人の信仰と勇気ある人にお話を伺いました。一人はベン・フリースです。彼はイエス・キリストにある信仰によって鼓舞され、ジンバブエの不正な政権に反対の立場を勇気をもってとりました。その結果、彼は暴行と拷問を受け、彼の年老いた義理の父母が拷問を受けるのを無理やり見せられ、彼らはその後、とうとう死んでしまいました。このような迫害の真っただ中にあっても、彼は拷問を与える人々を愛し祝福することを選びました。
二人目は世界中でクリスチャンに対する肉体的迫害が今も行われている90か国のうちの一つの国から来た牧師でした。彼は投獄されたことがあり、一度、ただ彼がイエス・キリストを信じる信仰を持っていることだけの理由で死刑判決を受けたことがあります。極度の迫害に面したにもかかわらず、彼は自分の信仰を否定することを拒みました。
男であれ女であれ、このような人の人生は、私たちの内側に湧き上がる思いを与え、チャレンジと動機をもたらします。
奮い立つ正義の闘士
箴言29:1-9
私は貧しい人々のために正義をもって深くお世話をする教会、個人、団体の例に奮い立ちます。聖書の中にはたくさん貧しい者と正義の問題について触れられています。「貧困と正義の聖書(Poverty and Justice Bible)」には二千以上の節に光が当てられ、これらの問題に目が覚まされます。
正義は実に重要です。「正義によって王は国に安定を与える。しかし賄賂のために強欲な者は国を滅ぼす。(4,NIV訳)」裁判官や政治家が賄賂を受け取るのが当たり前になっている所に暮らすのはおぞましいことです。「良い裁きをするリーダーは安定を与える。搾取するリーダーはがれきの山を残す。(4,MSG訳)」
完璧な司法制度はありません。しかしながら、良い司法制度が整った国に暮らすことは特権です。
「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。(2)」言い換えれば、「良い人々が物事を運ぶ時、すべての人々が喜びます。しかし、支配者が悪い時、すべての人々はうめきます。(2,MSG訳)」
義なる人は澄んだ良心を持ち、歌うことが出来、喜びます。悪者はどこに居ても自分の罪のために罠に陥る(6)。
正義をもって貧しい者をお世話すること(7)は義なる人生の目印です。「良い心の持ち主は。貧しくなることがどのようなことかを理解しています。心かたくなな者には皆目見当がつかない。(7,MSG訳)」
祈り:主よ。私が、貧しい人、家のない人、囚人、空腹の人に正義をもたらすことを追い求めることによってこの世界に現実の変化をもたらすことができますように。
奮い立つ敬虔な生活
2ペテロ2:1-22
私はサンディー・ミラー主教、ラニエロ・カンタラメッサ神父のような、今日私たちの周りに居るお手本となる人物のゆえにとても感謝しています。そして多くの名を知らない他の人々が、彼らの例と敬虔さによって私たちを奮い立たせてくれます。
新約聖書は偽りの、潜在的な危険性を持つ密かに「滅びをもたらす異端(1)」であるカルトの指導者について警告しています。昨年、「新天地」というそのようなカルトの一つが、ロンドンの幾つかの教会に潜入しました。彼らは新しく信者になった人のための見せかけの「聖書の学び」をします。そのような活動を世界中でしています。この「聖書の学び」のリーダーは参加者に嘘と偽りを教えます。
この章は、強い言葉を用いて、偽預言者と不道徳な教師を攻撃します。ペテロはノアとロトの生活と「にせ教師(1)」を対比しています。
「義なる唯一の声(5,MSG訳)」であるノアは「不敬虔な」人々の中に生きましたが、「義を宣べ伝えた(5)」のでした。
ロトもまた「良い人(8,MSG訳)」でした。彼は「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた(7)」義人でした。
ペテロはノアとロトを、ペテロが書き送ろうとしている人々への手本として提供しています。その時、彼らは、「滅びをもたらす異端をひそかに(1)」持ち込んでいたにせ教師と「恥ずべき道」に従い、「真理の道の評判を落とす」者たちと争っていたのです(1-2)。
これらのにせ教師とは単にペテロと意見が合わない他のクリスチャン・リーダーということではありません。彼らの生活と教えは完全にキリスト教信仰とは異なるものだったのです。「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず…彼らは正しい道を捨ててさまよっています。(14-15)」彼らは「肉欲と好色によって誘惑(18)」します。「その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。(19)」
ペテロがここで描いている事柄はとてもそそのかされ易いように思えます。それが、ペテロがこれらの指導者についてこれほど関心を持った理由でしょう。ペテロの描いているのは、快楽の追求(13)、性的放縦(14,18-19)、金銭の追求(15)であり、これらすべては今日にも当てはまることです。
にせ教師たちは彼ら自身もそれらの奴隷なのです。しかし彼らは他者(特に新しい信者)の気を引いて、自由を約束することで道に迷わせ同じような生活スタイルに導こうとします(18-19)。しかしながら、本当の自由はただ神の道に見つけることができるのです。多くのことを約束しながら実際は空しい結果しかないこれらの誘惑には本当の自由はありません。それらのことを追い求め勧める人たちは「水のない泉、突風に吹き払われる霧です。(17)」
これは恐ろしい警告です。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。(20-21)」
祈り:主よ。この世の引力はとても強いものです。私が、私の主、救い主、イエス・キリストなるあなたに背を向けてしまわないように助けてください。
奮い立つ信仰と勇気
ダニエル3:13-4:18
脅しや脅迫を断った勇気と信仰の人々に私はいつも奮い立たせられます。
シャデラク、メシャク、アベデネゴは、神への絶対的な信頼の心を奮い立たせる手本です。彼らは、燃え盛る炉の中に投げ込まれるという脅しにもかかわらず、金の像にひれ伏して礼拝することを拒みました。
たとえ、大きな犠牲を払うことになったとしても、彼らは神を信じ、もし神が望まれるなら嫌疑を晴らす神の力があることを信じていたので、彼らは正しいことをすると心を決めていました。
彼らは王に言いました。「あなたの脅しは私たちには無意味です。もしあなたが私たちを火の中に投げ入れるなら、私たちが仕える神は、あなたの鳴り轟く炉から、そしてどんなごまかしからも私たちを救い出すことがお出来になります。あぁ、王よ。しかし、たとえ神がそうなさらなくとも、何も変わることはないでしょう。あぁ。王よ。私たちは依然として、あなたの神々にもあなたがお立てになった金の像にも仕えることはないでしょう。(3:16b-18,MSG訳)」
これは奮い立たせられる手本です。難しい決断を問われる状況に直面する時、彼らがしたように「どうすることが正しいことなのでしょうか?」と問い、それから結果にかかわらずそれをするのです。
彼らの絶対的な神への信頼はネブカデネザルへの驚異的な証しでした。ネブカデネザルが燃え盛る炉を見た時、彼は火の中に四人が歩いているのが見えました。なわを解かれて何の害も受けず、そして四人目は「神の子のように(25,KJV訳)」見えました。これを新約聖書のレンズごしに読むならば、四人目の人は、試練の時を通っている彼らと共におられたイエスご自身の幻であったという可能性があります。
彼らは「神は焼けず、彼らの衣服に焦げ跡はなく、彼らからは焼かれたような臭いさえありませんでした!(27,MSG訳)」もしあなたが燃え盛る炉のように思える人生の試みに直面しているなら、あなたが直面している状況がどのようなものであっても、イエスは正しくそこにともにおられると安心することができるのです。
ネブカデネザル本人でさえ、このような出来事に奮い立たされました(28)。その結果、彼の心は変わり始めたのです、しかしながら、彼の内に神のメッセージが届いていくには長い時間がかかりました。2章でのダニエルの例にもかかわらず、ネブカデネザルは回心しませんでした。シャデラク、メシャク、アベデネゴの絶対的な神への信頼は彼に大きな衝撃を与えました。しかしながら、それでも彼の回心は完全ではありませんでした。
4章で、私たちは、ネブカデネザルが最終的にどのように神を知るようになったのという彼の驚くべき証しを読むことになります。証しをすることは大きな楽しみです。「いと高き神が私に行われたしるしと奇蹟とを知らせることは、私の喜びとするところである。(4:2)」この段階で、彼の態度は完全に変わり、栄光はすべて神にささげられました(3)。
彼は、彼がかつて願っていたすべてのことをひとつの文章に託して始めています。「私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていた(4)」しかし、富と満足の舌には深い恐れがあったのです(5)。
ダニエル書のひとつの主題は、神はダニエル、シャデラク、メシャク、アベデネゴのような心を奮い立たせるような手本を用いられること、そして王の人生を変え、その結果、国が変えられるために彼らの神への絶対的な信頼という手本を用いられることです。
祈り:主よ。たとえ、大きな犠牲を払うことになりそうであっても、私が正しいことをすることが出来ますように。私の目を上げ、私に何が可能であるかを見させてくれる心を奮い立たせる手本となる人々のゆえに感謝します。アーメン。
H.K
References
The Poverty and Justice Bible (American Bible Society, 2008).