Tokyo Chapel

2018年10月19日

第292日

ことば、神のことばと「ことば」

デヴィッド・スーシエは、名探偵ポワロの役でよく知られた俳優です。彼は数年前にアメリカでホテルの浴槽で浸かっていた時に突然聖書が読みたくなった様子について語りました。彼はギデオン聖書協会の聖書を探し出し、新約聖書を読み始めました。彼が読んでいると、彼はイエス・キリストに出会いました。彼は言いました。

「どこからか、私は聖書をもう一度読んでみたいと願いました。私の回心にとってこのことはとても大切な部分です。私は使徒の働きから読み始め、パウロ書簡に移って行きました。ローマ、コリントと。そのあとで、福音書を読みました。新約聖書の中に、私は突然、人生を従わせるべき道を見つけたのです。」

最も力強い言葉は聖書の中に記されています。その中で言葉は重要なテーマです。そして「言葉」という言葉は今日の箇所では異なる感覚で用いられています。

  • 第一に、それは私たちの言葉の感覚で用いられています。私たちいう事柄が良くもなりえますし、悪くもなりえます。(箴言25:11-20)
  • 第二に、それはまた神の言葉の感覚で用いられています。これは究極にはイエス・キリストです(ヨハネ1:1、ヘブル1:2)。しかしまた、聖書の中にある、そして説教と教えの中にある神の言葉を指します(1テモテ4:1-16)。
  • 第三に、聖書はまた預言の感覚において主のことばという言い回しを用います(エレミヤ42:7)。神は預言的なメッセージを通して教会に語り続けているのです(1テモテ4:14)。もちろん、私たちは旧約聖書の預言者の「言葉」が「主の言葉」と定義でき、今は聖書の一部になっているということと、現代の、聖書に反していないかどうかを吟味する必要がある預言的な「言葉」とを区別する必要があります。

あなたの言葉を良い効果を生むために用いる

箴言25:11-20

  1. 良い言葉
    私たちが語る言葉は現実的に重要です。時々、それらはとても良い効果を生みます。誰かが、正しい状況で正しい言葉を見出すとき、とても麗しいことが起こります。「正しい時の正しい言葉は特別注文の宝石のようだ。
    (11,MSG訳)」

    聴き心地のいいだけの何かよりも、同様に価値があるのは「知恵ある叱責に聞く耳を持つこと(12b,NIV訳)」です。批判を受けることはいつも難しいことですが、箴言の作者が言うように、「知恵ある友人の時宜にかなった譴責は、あなたの指にはめられる金の指輪のようだ。(12,MSG訳)」私たちに挑むに足りるほど私たちを愛してくれる友は、とても価値があります。

    同様に、言葉を守る信頼できる友や説教者は、「うだるような暑さの中の一服の清涼飲料水のようです。生き返ります!(13,MSG訳)」

    舌にはとても力があります。「忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。(15)」あるいはThe Message訳のように「落ち着いたスピーチは頑強な防御を打ち破る」

  2. 悪い言葉
    詩篇の作者が私たちに使ってはならない警告する幾つかの言葉の用法があります。空しい約束は失望させる。「贈りもしない贈り物を自慢する者は、雨を降らせない雲や風のようだ。(14)」

    概して、ある一人の人や一定のグループの人々とあまりに多くの時間を費やして話をすることは良いことではありません。「あなたが友人を見つける時、あなたの歓迎で退屈させてはならない。四六時中姿を現すなら、すぐにうんざりされる。(17)」私たちの関係にはバランスが必要です。言葉は賢く撒く必要があります。

    もう一つの悪い言葉の用い方は「偽りの証言(18)」です。つまり、本当でないことを言うことです。これは法廷でも、あるいはもっと単純に、私たちの会話や、ネット上でもです。「自分の隣人に対して法廷でも、通りでも嘘をつく者は誰でも、コントロールできない大砲のように危険です。(18,MSG訳)」単純に、事実でないことを読んだり聴いたりすることはとても苦痛です。

祈り:主よ。祝福をもたらす力ある言葉のゆえに感謝します。今日、私の口にガードを置いて、私の舌を見張ります。どうか、良い言葉しか言わないようにお守りください。


神の言葉にあなた自身を献げる

1テモテ4:1-16

公言していたクリスチャンが、彼らの信仰から迷い出る時、悲しくがっかりしてしまいます。パウロはある人々が「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるように(1,MSG訳)」なると書いています。

真理、すなわち、聖霊によって啓示された神の言葉を学ぶことによって、偽りから自分自身を守りましょう。

パウロは「結婚してはならない」とか、「これを食べてはならない、あれを食べてはならない」というような(3,MSG訳)、偽りの教えに惑わされないように警告しました。パウロは「御霊が明らかに言われるように…(1)」と記しました。そして、「神が創造されたすべてのものは良いものです。そして、それは感謝して受け取るべきものです。一つとして鼻であしらったり、投棄するものはありません。神の言葉と私たちの祈りは創造されたすべての品をきよめます。4-5,MSG訳)」

パウロはテモテに、彼が受け取った「良い教え」を伝えていくように勧めます(6)。良い教えの手本は「受け入れるに値することば(9)」です。― すなわち、神が「すべての人々、ことに信じる人々の救い主(10)」であるということです。

テモテは「みんなに知らせ、これらすべてのことを教える(11,MSG訳)」ことに召されました。テモテは信じる者が話す際(同様に、生活に、愛に、信仰に、純潔において)の手本となりました。パウロはテモテに自分自身が公に「聖書の朗読と勧めと教え(13)」をすることに専心するように勧めています。これはいつもクリスチャンのリーダーにとって高い優先項目でなければなりません(5:17参照)。

このすべては「敬虔のために自分を鍛練(4:7)」することの一部です。運動して健康を保つことは良いことです。「肉体の鍛練もいくらかは有益です(8a)」。しかし「敬虔」のための訓練は肉体の鍛錬よりはるかに大切です。「神にあって毎日運動しなさい。 ― 霊的なたるみがあってはなりません。…今日も、とこしえまでも自分の健康を保ちなさい。(8b,MSG訳)」

クリスチャンの生活において、あなたの年齢があなたの成熟度を決めるものではありません。パウロは記します。「あなたが若いという理由で人に軽んじられてはなりません。(11,MSG訳)」あなたが何歳であっても、あなたの生活によってあなたが手本となることができます。さらには、年齢は神のことばを教える制限とはなりません。

パウロはテモテに自分の生活教えをよく見張るように勧めます(16)。あなたの生活とあなたのを見張りましょう。「あなたの性格とあなたの教えの両方をしっかりと握り続けなさい。(16,MSG訳)」

パウロはまた、長老たちによる按手を受けたとき、預言によってテモテに与えられた賜物に言及しています。これは新約聖書における、預言の賜物を通して与えられた主からの「言葉」の例です。

祈り:主よ。私が自分の敬虔を鍛錬することができるように助けてください(7b)。みことばに自分自身を委ねて、私の生活のすべての領域において手本となることができますように(12-13)。


預言者の「言葉」を注意深く聴く

エレミヤ40:7-42:22

あなたは、あなたがこれからしようとすることを決断するにあたって、あなたの心の中ですでにしようと決心したことを確証しようと、神からのことばを探したという状況に置かれたことが今までありますか?

私はありました。それは居るのに良い場所ではありません。ここで、そのことが起こっています。彼らはエジプトに下って行きたいと願い、決心していました。そして彼らはエレミヤに神がそうすることが正しいと確証してくれるように神からのメッセージを与えてくれるように願いました。

エレミヤは「主のことば」を聴くことができると評判の高かった旧約聖書の預言者でした(42:1-7)。

イエスラエルは歴史の中で最も低い状態にあったと言えます。ゲダルヤは、捕囚の際に引き連れて行かれなかった残りの者たちの統治者として指名された人物ですが(40:7)、彼はすでに殺されました(40:7-41:15)。パレスチナでは水の供給は極めて貴重です。貯水槽(穴)を死体で満たして汚染するという行為は全く無責任な蛮行でした(41:9)。

ヨハナンは軍事的な才覚を用いて完全に状況を取り扱い有能さを発揮しました。しかし、彼は、避けることができないバビロンの報復を想定して、エジプトに逃げることしか考えていませんでした。この方針において、彼はエレミヤと衝突しました。

ヨハナンとすべての軍の将たちがエレミヤのもとに訪れ、「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。(42:3)」と祈ることを願いました。

エレミヤは「私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主に祈り、主があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません。(4)」と答えました。

彼らは「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。(6)」と約束します。

ここでとても興味深いことは、エレミヤでさえ、導きは即座に衝動的には与えられはしなかったということです。「十日の後、主のことばがエレミヤにあった。(7)」

エレミヤは忠実にそれを言い渡しました。「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。(9)」主は、もし彼らがこの国にとどまっておれば祝福することを(10-12)、そしてもしエジプトに行けば裁きを受ける(13以降)と約束しました。

それによって、彼らはもうすでに自分たちがしようとしていることを決めており、単に主がそれを追認してくれればよいと願っていたことが暴露されました。彼らは主の言葉に従わないという失敗を犯してしまったのです(21)。私たちの決断の後にではなく、その前に主に尋ねるということがどれほど肝心なことなのでしょうか!

祈り:主よ。あなたは聖書を通して、そして預言者を通して私たちに語ってくださいます。あなたの言葉を注意深く聴き、従うことができるようにお助けください。アーメン。

H.K

References

Bill Bradfield, On Reading the Bible: Thoughts and Reflections of Over 500 Men and Women, (Dover Publications, 2005) p.121.