Tokyo Chapel

2019年9月11日

第254日

主の恵みはあなたに対して十分です。

私がニック・ブイチチに初めて会ったのは、私たちの教会のファミリー・キャンプである「フォーカス」に彼が講師として来てくださった時でした。ニックは卓越した人物です。彼に会った人は皆、彼の人生によって鼓舞されチャレンジを受けると私は思います。

ニックは生まれつき脚も腕もありません。それでも彼はこう書くことが出来ます。「私は本当に祝福されています。私はとんでもなく幸せです。子どもの頃、私は脚と腕の為に多くの時間をかけて祈りました。神が脚や腕を用意してくださるかもしれないと思ったのです。

神は彼の願い通りにはお答えになりませんでした。しかし、彼はこう書いています。「神は数え切れない数の学校、教会、刑務所、孤児院、病院、スタジアム、そして講演会場に私を遣わし用いて下さいました。よっぽど良かったことに、何千もの人々と顔と顔を合わせて、ハグすることが出来ました。そして、彼らがどれほど価値ある存在であるのかを伝える事が出来たのです。…神は私の普通ではない身体を用いてくださり、心を引き上げ魂を励ます能力を開発して下さったのです。」

神の民は神の恵みにより頼んでいます。マザー・テレサは書きました。「私は、私ほど神の助けと恵みを必要とする人は誰もいないと思います。時々、私は自分が助けにならず弱々しいと感じる事があります。私はそれが神が私をお使いになる理由だと思います。なぜなら、私は自分の力に頼る事が出来ないからです。私は毎日24時間、神により頼みます。もし24時間以上に時間がある日があったとしても、その時間の間も私は神の助けと恵みが必要でしょう。」

パウロは「肉体のとげ」について語るとき、このより頼みを表現しているのです。彼は三度それが取り除けられることを主に願いました。しかし、神は彼に言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである(2コリント12:9)」神の恵みはただ素晴らしいだけではなく、「十分であり」それは足りているのです。

これは聖書全体の中で大好きな箇所の一つです。私はしばしばこの節を引用して私の弱さに完全に働く力という神の約束を神に思い出して頂くのです。


神の恵みは御自身の偉大な愛から来る

詩篇106:40-48

それでも」はこの箇所の鍵の言葉です。人々は「相計って、逆らい」、「自分たちの不義の中におぼれた。(43)」「それでも」と詩篇の作者は言います。「彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。…豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。(44-45)」

神の恵みが十分であることの源は「豊かな恵み(偉大な愛45,NIV訳)」です。神がとてもご自身の民を愛しておられるので、「幾たびとなく彼らを救い出され(43)」「彼らの叫びを聞かれた(44)」のです。

何年か前、私はこの詩篇の箇所の余白に、この詩篇が語っている全ての祝福を総括して、「私が信じず、つぶやき、従わず、偶像礼拝し、罪を犯し、間違ったことをし、意地悪なことをしたなら ― 神はどうするだろうか?神は私に恩寵を示して、神は私に助けを与え、神は私に喜びを与え、神は優しくし、神は私を救う。神は私を導き、神は私を贖う。神は私の祈りに答え、神は私を解放し、神は私の苦悩を覚え、私の叫びを聞いてくださり、私に御自身の偉大な愛を見せてくださいます。」

詩篇の作者は最後にこう言うのも不思議ではありません。「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、『アーメン』と言え。ハレルヤ。(48)」

祈り:主よ。私はあなたの私に向けられた偉大な愛を感謝し誉めたたえます。私を何度も何度も解放してくださったことを感謝します。私の叫びを聞いてくださって感謝します。あなたの恵みが私に十分であることを感謝します。


神の恵みはあなたが必要としているものです

2コリント12:1-10

私たちは、私たちの力をもって人々に印象を与えるだろうと考えます。しかし、私たちは、自分の弱さで人々と結び合わされるのです。私たちのほとんどは、人に自分の強さを見て欲しいと願います。そして、人に自分の弱さを見つけられることに神経質になります。私たちは自分の限界を宣伝したりしません。しかし、パウロは自分の脆弱性について、もろい者であることを恐れたりしません。

パウロは驚くべき霊的体験を持っていました。彼は「主の幻と啓示(1)」を受けました。彼は「第三の天にまで引き上げられました。(2)」彼は「人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(4)」彼は「あまりにもすばらしい(7)」啓示を受けたのです。

しかし、パウロはそのことを誇っているのではありません。コリントの偽教師たちは自分の霊的体験を誇りました。しかし、パウロはそうではありません。むしろパウロは自分に反するような話をしています。パウロ自分の弱さを誇るのです(5,9)。

パウロはコリントの人々にどのように「高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ」を神が自分に与えられたことを告げます(2コリント7b)。パウロはとても一般的な言葉でこのことを告白しています。パウラ・グーダー博士は、彼女の学位論文をこの箇所をテーマに書きました。その中で、パウロの肉体のとげとして考えられるのは、少なくとも36の学説はあると述べられています。どれがパウロに当てはまるかを特定する事が出来ないと言うことは確かです。私たちに親友である伝道者のJ・ジョンがとげは一つだけではなく三つあると言いました。私はパウロがそれが何かを言おうとしたのではなく、彼がそのことに葛藤したことを知ることを通して私たちが励ましを受ける事を願ったのだと思います。

パウロのとげが何であれ、パウロは三度、それが取り除けられるように主に祈りました。しかし、神は彼に言いました。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである(9)」パウロに肉体のとげがなかったなら、パウロはあまりにもすばらしい霊的体験を誇っていたかもしれません(7)。

それがあったことのよって、パウロは主に完全により頼むことを知ったのです。物事が上手く進んでいる時、私は傲慢になり自分により頼む誘惑があります。私は葛藤し、自分の弱さを知る時、実に主により頼むことになるのです。キリストの力は私たちの土台です(9)。キリストの力は弱さに完全にあらわれるのです。

パウロは実に卓越したことを書きました。パウロは言います。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(7-10)」

祈り:主よ。パウロのように、私が自分の弱さをあなたの力が完全に働くことのゆえに喜ぶことができますように。あなたの恵みが私に十分であることを感謝します。


主の恵みはイエスを通して来る

イザヤ 27:1-28:29

神はあなたを愛しています。神は御自身の民をぶどうのようだと言っています。神は手入れをし、水をやり、見守り、お世話をします。(27:3-4,MSG訳)

神は愛をもって裁きます。神はアザミやイバラを引き抜いて、それらを燃やしてしまいます(4,MSG訳)。ここに神の裁きの多くが語られています。しかし、これは「そのみわざは異なっている(28:21)」ものとして描かれています。宗教改革の祖であるマルチン・ルターはイエスの裁きを「異なる働き」として救いを「本来の働き」として指し示しています。

イザヤは続けて、使徒パウロのとは正反対の態度を持つ者たちへの裁きの言葉を告げます。パウロには誇るのに十分な理由がありました。(彼は「あまりにもすばらしい啓示,2コリント12:7」を持っていました。)それであっても、彼は実にへりくだっていました。エフライムは理由もなく誇っていたのです。

イザヤは「エフライムの酔いどれの誇りとする冠…これは、酔いつぶれた者たちの 肥えた谷の頂にある。(28:1)」そして、「エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ(3)」と言っています。聖書は私たちに神は「人の心を喜ばせるぶどう酒(詩篇104:15)」を与えると告げていますが、飲み過ぎに警告が与えられています。

ここでイザヤは「見栄を張って飲むことは、…みすぼらしく、疲れ果て、さえない。千鳥足、だらしなく、ビール腹。ワインやウイスキーに酔うことは、真っ直ぐ前を見ることも、正気で話すことも出来ない。テーブルに上には嘔吐で覆われる。彼らはゲロの中で生きる。(28:1,7-8,MSG訳)」イザヤはあざ笑うこと、つまり懐疑主義や皮肉、に反して言及しています。

これらに裁きの預言の中ほどに、イザヤは恵みのかしら石となる人物について予見しています。「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。』(16)」

イエスは隅のかしら石です。イエスこそ「堅く据えられた礎(16)」です。使徒パウロ(ローマ9:33)もペテロ(1ペテロ2:4-6)もこの節をイエスと見なしています。イエスこそ、生ける石である教会がその上に立てられるべきお方なのです。イエスこそ神に選ばれ、人に捨てられたお方なのです。彼を頼みとする者は、惨めな負け方をすることがありません。(1ペテロ2:4-6)。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。…キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:24)

イエスはあなたの確かな土台です。「これを信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)」イエスは全ての恵みの源です。あなたが赦され、あなたのための御自身の愛、恵み、力を体験するために死んでくださったお方です。今日、あなたが生活の中で葛藤するかもしれない困難や弱さが何であれ、主の恵みはあなたに対して十分なのです。

祈り:主よ。私が実にあなたにより頼むことが出来ますことを感謝します。そして、私が弱さを誇り、あなたの力を土台に据えることが出来ますことを感謝します。あなたを信頼することは揺るぐことがありません。あなたの恵みは十分です。アーメン。

H.K

References

Mother Teresa Cited in The Power of Prayer,(MJF Books, 1998)p.3 taken from United States Catholic Catechism for Adults(USCCB, 2006)p.479-80

Nick Vujicic, Life Without Limits, (Waterbrook, 2012) p.viii, 21.