Tokyo Chapel

2018年10月18日

第291日

リーダーの生活

人生のあらゆる局面でそしてあらゆる領域で、良いリーダーシップはいつも活き活きとさせます。しかし、良いリーダーシップとは何でしょうか

「リーダーシップは戦略と人格の組み合わせた能力です。しかし、もしあなたがどちらか一方しか持てないのでなければ、戦略がない方でありなさい。」これは1991年の湾岸戦争で多国籍軍の司令官であったノーマン・シュワルツコフ将軍の言葉です。人格こそ現実に大切なものです。最後の決め手はこれだけです。

私たちの教会の中で、リーダーシップの立場にある人々と、「その立場に向かっている」人々との違いを私たちは見分けます。私たちはどのような生活スタイルを持っている人々も隔てなく歓迎します。私たちは大きな玄関を持っているのです。すべての人々が歓迎されます。教会は完全な人々を展示する博物館ではありません。元来の文字通りの「ホスピタル(病院)」つまり「もてなし(ホスピタリティー)」と「回復」の場なのです。傷つき、怪我をし、損傷し、負傷した人々が癒しを見出す場所です。それは罪人のコミュニティーです。

他方、私たちは新約聖書と正反対の生活スタイルを持っている人をリーダーシップの立場に置くわけにはいきません。リーダーシップは単に機能ではなく、他の人々の手本として生きる責任を含んでいるからです。リーダーは会衆の残りの人々のモデルです。もちろん、完全な人は誰一人いません。あなたは見本となるために完全になる必要はありません。しかしながら、私たちは、自分たちのリーダーの生活スタイルと人格が新約聖書と軌を一にしているかどうかを確かにすることが必要です。


ワーシップ・リーダー

詩篇119:57-64

「それらの日々において、現実のテストは、新しい偉大な礼拝音楽を書いたり、作ったりすることではないでしょう。現実のテストは、それらの人々から生み出される敬虔さと人格でしょう。」とジョン・ウィンバーは言いました。

詩篇の作者は主との近しい関係に歩んでいるワーシップ・リーダーです。「なぜなら、あなたがわたし神を満足させるので、わたしはあなたがいうすべてすることを約束する。(57,MSG訳)」

心を尽くして主の御顔を求めているワーシップ・リーダーは、会衆を導いて神を賛美する立場にあります。詩篇の作者は現実的に神の道を守ることに気をつけます。「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。(59)」

現実的な困難の中にあってさえ、神の律法を忘れません。「悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。(61)」

インスピレーションは時々、夜中に来ることがあります。「私はあなたに感謝するために夜中に目が覚める。あなたの決めたことがとても正しく、とても真実なので ― 私は朝まで待つことが出来ない!(62,MSG訳)」礼拝するコミュニティーの一部となることは活き活きします。「私は、あなたを恐れるすべての人々、あなたの戒めによって生きると献身した人々の友であり、同志です。(63,MSG訳)」

ここに、神の愛の深い理解を持ったワーシップリーダーがいます。「主よ。地はあなたの恵みに満ちています。(64)」あなたのための神の愛は、まさにあなたの礼拝の中心にあるべきです。

祈り:私はあなたの御顔を今日、心を尽くして慕い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。(58)


教会のリーダー

1テモテ3:1-16

言葉の意味からすれば、ある意味で、すべてのクリスチャンはリーダーです。もしリーダーシップが影響を与えることであれば、私たちは皆、職場で、家庭で、地域社会で影響力を持っています。しかし、この箇所は特に教会の中でのリーダーシップについて語っています。

教会は家庭のようであるべきです。それは「神の家(15)」です。教会を導くことは大きな家族を導くようなものです。もし、自分自身の家庭を導くことが出来ない人がどうして、教会を導くことができるだろうかとパウロは問います(5)。

良いリーダーは自分自身の家族を治める能力があるべきです(4,12)。(「神の家」すなわち教会と、「家族」は同じギリシャ語が用いられています。)彼らは知恵と愛と忠実さをもって自分自身の家族を導き、養う能力があるべきです。

監督となるのに必要とされる質をもつ者のほとんどすべては、全てのクリスチャンにとって敬虔さという面で励ましを受ける者と全く同じであるということは興味深いことです。スコットランドの働き人である、ロバート・マーレイ・マクチェーンはかつてこう言いました。「私の会衆の一番大きな必要は、私自身の人格的なきよめである。」

人格のリストは広範囲です(2)。リーダーは「評判の良い」人であるべきです。リーダーは、誰からの間違った行動を非難されない良い素地を持てるような生き方をしていなければなりません。

もし、彼らが結婚しているなら、彼らは伴侶に対して忠実であることが必要です。忠実さ、忠誠、信頼性はリーダーシップの鍵であり、それは結婚生活での忠実さに始まります。

彼らは「敏感(2,AMP訳)」であることが必要です。クリスチャンであることは常識を捨て去ることを意味しません。全く逆です。毎日毎日、意思決定していくことの多くは、シンプルに、祈り深く常識を用いる敬虔な、御霊に満ちたリーダーに作用しています。

「監督」という語は時々「ビショップ(主教,司教)」と翻訳されます。ビショップになりたいという願いを持つことは間違ってはいません。「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。(1)」

監督と執事の違いの一つは、監督は「信者になったばかりの人であってはいけません。(6)」ということであるのは興味深いことだ私は気づきました。これは執事には当てはまりません。アルファのスモール・グループのリードをするなど、時々、人々は信仰を持ち始めた人がリーダーシップの立場に就くことを非難します。そんなときはいつも、私たちは彼らに監督になって欲しいと言っているのではなく、アルファのスモールグループのホストとして仕えて欲しいと願っているだけなのだと私は答えます。

パウロが、監督は信者になったばかりの人であってはならないという理由は、彼らが「高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないため(4-6)」なのです。悪魔は高慢になり堕落しました。すべてのクリスチャン・リーダーにとって、霊的な高慢に陥る危険性があります。

執事のためのテストは監督ととても似ています。執事は字義的には「しもべ」を意味します。元来は、彼らは人々のそばで食卓の給仕をする人々でした(使徒6:1-7)。イエスはサーバント・リーダーシップ(仕えるリーダーシップ)のモデルを供しています(マルコ10:35-45)。アルバート・アインシュタインはかつてこう言いました。「他者のために仕えて生きることこそが価値ある人生だ。」もし仕えることがあなたの下にあるなら、リーダーシップはあなたを超えていきます。

これらの仕えるリーダーそして彼らの伴侶は強く、折り紙付きの性格の人々である必要があります(1テモテ3:11)。彼らは「謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。(1テモテ3:8-12)」

結局のところ、リーダーは敬虔な性格の人々でなければなりません。実際、リストの中で直接的に人格に結びついていない唯一の性質は、「教える能力(2)」だけです。教会のリーダーは教える能力のある良い性格の人でなければなりません。

マーク・トゥエインは辛辣にこう言いました。「正しい何かをすることは素晴らしいことだ。正しい何かを教えることはもっと素晴らしいことだ。そしてもっと簡単だ。」クリスチャンのリーダーシップの務めは私たちの生活と人格を教えをもって整えることです。それは私たち皆にとってチャレンジです。そして生涯を通してなされる、「敬虔さ(16)」の手本であるイエスのようになる過程です。

もちろん、監督も執事も、主なリーダーシップの立場に誰かが就く前に、その人は「まず審査を受けさせなさい。(10)」テストを受けていない信仰は信頼できません。私たちは困難、失意、荒野のような時間によって試されます。望むべきは、それらが私たちを成熟させ、私たちの人格を成長させリーダーシップの準備を私たちにもたらすことです。

祈り:主よ。あなたの霊によって、あなたの基準をクリアして生きていくことができますように、非難の余地がない者としてください。


預言的なリーダー

エレミヤ38:1-40:6

神の忠実さと良い性格は繁栄と痛みのない人生の保証とはなりません。実際、エレミヤを見ると、それとは反対でした。

エレミヤは、生活と性格においては私たちの素晴らしい手本となる預言者でした。彼は神に忠実に生きたのです。彼は神の言葉を聴き続け、それを語り続けました。彼が痛みを伴う大きな苦難の取り扱いを受けたにもかかわらずです。

何度も何度も、エレミヤは脅され、打たれ、監禁され、地下牢に入れられ、飢え死にさせられるように泥溜めの中に放り込まれました。しかし、神のメッセージを聴き続け、勇敢に語り続けたのです。

概して、人々は無反応なものです。彼は完全に誤解されていました(38:4)。エレミヤは士気をくじくとして非難されました。そして実際に、エレミヤが救おうと試みた人々に害を及ぼしていると非難されたのです。もし、あなたが同じような扱いを受けることがあったとしても驚くべきではありません。

泥溜めから救出されてから、エレミヤはゼデキヤ王の前に4回目の連行をされました。ゼデキヤは、しっかりしたバックボーン(背骨)よりも、願掛けに使うウィッシュボーン(叉骨)に頼るような男でした。それは臆病から出るもので、ゼデキヤは律法に従うことをしませんでした(19)。ゼデキヤは、イエスを有罪に定めたポンテオ・ピラトのように、民衆を恐れていました。

4回、神はゼデキヤに、彼がした行動の結果から彼を救うと語りました。その都度、彼は従うことを弱弱しく拒んだのです。39章で、私たちはその結果を読むことになります。エレミヤは最終的に非難が不当であったことを証明するのです。(40:1-6)

祈り:主よ。今日、私たちの教会のリーダーを祝福し強めてください。彼らの生活スタイルと人格が私たちを皆、鼓舞し、良い実りある生活に導きますように。アーメン。

H.K

References

James Charlton (Ed), The Military Quotation Book (St Martin’s Press, 2002) p.83

Robert Murray McCheyne, cited in Tony Sargent, The Sacred Anointing (Crossway Books, 1994) p.128.

John C. Maxwell, Developing the Leaders Around You: How to Help Others Reach Their Full Potential, (Thomas Nelson, 2005) p.62

Mark Twain, cited in John C. Maxwell, The 5 Levels of Leadership: Proven Steps to Maximize Your Potential (Center Street, 1960).