Tokyo Chapel

2018年5月13日

第133日

絶望の時の対処の方法

はからずも銃弾やミサイルの音が響く中でアルファが開催されるのはあまり多くないと思います。でも私たちにとってメッセージはシンプルです。それは希望、光、将来です。なぜなら、それはイエスについてだからです。

これは、バグダッドのセント・ジョージ教会の主教座聖堂司祭である、アンドリュー・ホワイト牧師が私に宛てて、彼らのアルファについて書いてきた手紙の一節です。彼らは絶望的な状況にありました。教会は何度も爆破され、多くの教会に集っている会衆が亡くなりました。教会のリーダーの何人かが誘拐されました。幾人かにとって、イエスにある信仰を告白することは確実な死を意味します。そのような絶望的状況の中で、アンドリュー・ホワイトはイエスが希望、光、そして将来をもたらすと言い切るのです。

ダビデは、詩篇の中で、「絶望の時(詩篇60:3,NIV訳)」について語ります。人生の中ですべてが悪い方向に向かっているように思える時があるものです。もしかすると、今、あなたがそのような状況に直面しているかもしれません。健康、死別、人間関係の亀裂、仕事上の問題、家族問題、経済問題、あるいはそれらが絡まったような状況…。絶望的な時でさえ、あなたは信仰、希望、愛という三つの大いなる徳を見出すことが出来るのです。


打ち負かされたように見えても希望を持つ

詩篇60:1-4

時に、神の民が打ち負かされたように見えることがあります。アジアの国々のように、世界のある地域では大いなるリバイバルが起こっています。しかし、西ヨーロッパといえば、たとえば、教会の出席者は減少し、教会の閉鎖、キリスト教信仰の減退が見られます。

神の民の歴史において、絶望的な瞬間があります。この詩篇は彼らの敵によって征服された後の国家的な哀歌です。神の民は意気消沈しました。ダビデは言います。「あなたは、御民に苦難をなめさせられました。(3a)」

ダビデは彼らが直面した絶望と不確実さを地震のイメージを用いて描写しました。「あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。 その裂け目を、いやしてください。 地がぐらついているのです。(2)」人生のあらゆる局面における動揺を表すのに、現代でも同じイメージを用いることが可能でしょう。経済、会社組織、結婚関係やコミュニティーの不安定さはゆすぶられ、ぐらついているとしばしば表現されるものです。

しかし、それでも希望があります。ダビデは記します。「あなたは、あなたを恐れる者のために 旗を授けられました。それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。」(4)主は、主の民がご自身の守りのもとに避け所を見出し、主に信頼するべき場所を指定しておられたのです。…たとえ、絶望の中にあっても。

祈り:主よ。感謝します。たとえ絶望の時であってさえ、私はあなたの守りのもとに身を避けることができます。


責めるより愛する

ヨハネ7:45-8:11

結婚関係以外の性的関係は許容されるものでしょうか?それともそれは罪深いことですか?性的な罪を犯した人々に対する私たちの態度はどのようなものであるべきでしょうか?

現代においてもメディアは性的な倫理についての議論がずっと続いています。イエスの教えは二千年前と同様に今も息づいています。

イエスが語った言葉は人が語った言葉として最高のことばです。それは神が語ることばとして期待できるような言葉なのです。会堂の役人たちは言いました。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。(7:46)」(宗教指導者の中には、彼を認めることが出来なかった人たちがいることは実に悲しいことです。彼らは「律法を知らないこの群衆(49)」としか彼を評価していません。)

イエスの前に連れて来られた女は姦淫の現場から捕らえられてきました。この女は完全なる絶望を感じていたに違いありません。絶望とは敗北から生じることがあります。また、道徳的な配信からも生じます。彼女はその両方を経験していたに違いありません。罪責感にさいなまれ、恥と死の恐れに満たされていたのです。

非難者たちはイエスへの質問に罠を仕掛けました(8:6)。イエスは歴史上もっとも見事な、記憶に残る、そしてしばしば引用される返答をしました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)」

イエスは女の罪を「容認した」のではありません。それは見過ごしにすることのできない罪であると見なしました。しかし、罪人が、他人の罪をさばくことがどれほど難しいことかを群衆に悟らせたのです(7-9)。これは、私たちの身の回りにおいても言えることです。私達が人の罪をさばこうとする前に、果たして私たち自身が、さばこうとするその領域において「罪のない」ものであるかどうかを自問することは価値あることです。

私達が、誰かをさばき、追求し、非難する時、私たち自身に見ることを拒んでいるものを、人に投影するのです。

ことわざにあるように「ガラスの家に住む者は石を投げてはならない(人を呪わば穴二つ)」です。性的倫理についての議論において、しばしば、私達自身の心を見るときに、多くのガラスが周りにあるのです。

姦淫のために捕らえられた女を前に、イエスの言葉によって、とうとう「イエスがひとり残される」まで非難した者たちは心をさされたのです(7-9)。イエスは彼女に尋ねました。「あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)」彼女は答えて「だれもいません。」と言うと、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11)」と言いました。

罪責感は恐ろしい感情です。非難はさらに追い打ちをかけます。イエスの言葉を聞くというのはなんと驚くべきことでしょうか。「わたしもあなたを罪に定めない。(11)」イエスこそ罪のないお方であり、唯一、「石を投げる」ことがお出来になる立場にありました。しかし、イエスはそれをなさいませんでした。

イエスの言葉には卓越したバランス感覚とユニークな組み合わせがあります。それは知恵と恵み、あわれみと慈しみに満ちたものです。イエスは姦淫が罪であることを際立たせることをしませんでした。しかも彼女を非難することしませんでした。これが新約聖書のメッセージです。「キリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません(ローマ8:1)。」イエスが十字架の上で私たちのために死んでくださった結果、あなたも私も、どんなに罪深い者であったとしても、完全に赦されることができたのです。

しかし、これは罪を犯し続ける理由にはなりません。イエスは彼女の罪を容認したのではありません。イエスは彼女に「今からは決して罪を犯してはなりません。(11)」と言いました。イエスは私たちを非難しませんが、彼女に言ったように、「あなたの罪の生活から去りなさい。(11,NIV訳)」と言われるのです。

イエスの言葉は、いつもそうですが、愛とあわれみを動機とするのです。主の例に倣いましょう。

ともすると、私たちは両極端になりがちです。罪を非難する人々になるか、容認する人々になるかです。愛はさばきませんが、罪を容認することもしません。なぜなら、罪は人々を傷つけるからです。もし、私たちがイエスのように愛するなら、私たちは罪を容認することも、人々を非難することもしません。むしろ、愛をもって人々に、私たちと一緒に罪から去ることをチャレンジするのです。

ギリシャ語の「赦す」という言葉には「自由にする」という意味が含まれています。イエスはあなたを聖霊の力によって自由にします。神があなたを愛するように、あなたは愛する自由を得たのです。赦しはすべての関係の中心です。それは愛のエッセンスです。

祈り:主よ。キリスト・イエスにある者が決して罪に定められることがないことを感謝します。あなたが私のために死んでくださり、私はきよめられ、赦され、自由にされたことを感謝します。どうか私もあなたがなさったように人々を愛することができるように助けてください。


カオスの中の信仰

士師記16:1-17:13

それは絶望の時でした。士師記の中には何度も同じことが繰り返されます。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(17:6)」士師記の時代はカオス(混沌)の時代と言えるでしょう。

このような絶望の時に、神はサムソンのような士師を起こされました。サムソンは20年間治めました(16:31)。彼は信仰の人と讃えられています(ヘブル11:32)。

聖霊によって油注がれ、神は力強く彼を用いました。しかしながら、不道徳な弱さを持っていました。遊女と床を共にし(16:1-3)、人を騙しもしました(4-10)。ついにサムソンは不従順によって神を締め出し「主が…去られた。(20)」のです。

サムソンは神から人並み外れた力を受けていました。しかし、それは彼の従順に直接的に関係しています。神はサムソンに髪の毛を切ってはならないと言いました。神に従っている限り、サムソンは超自然的な力を持つことができたのです。

しかしながら、この神の偉大な人は。神だけが力の源であることを痛いほど知ることになります。イエスは言いました。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」過去の勝利に頼るのではなく、勝利を与えた神に頼りましょう。

執拗な誘惑の後、彼女が優位に立つことをもくろんでいることは明らかであったのにもかかわらず、サムソンはデリアに彼の力の秘密を明かします。彼女は彼の髪の毛を切り、彼の力は失せました。

社会的混乱だけでなく、サムソン自身の人生においても絶望的な状況が訪れました。彼はとらえられ、視力を奪い取られ、彼はまさに見世物にされたのです。(士師記16:21-25)

絶望の真っただ中で、サムソンは主に祈りました。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。(28)」そして、神は彼の信仰の祈りを聞かれました。彼のすべての過ちを超えて、神はサムソンの叫びを聞かれたのです。どんな状況であったとしても、また、どんな過ちをあなたが犯したとしても、神に立ち返るのに遅すぎるということはないのです。

祈り:主よ。あなたの臨在の中に避け所を見つけることができることを感謝します。あなたは私の絶望的な叫びにいつも耳を傾けてくださるお方です。主よ。助けてください!アーメン。

H.K