2019年4月3日
4月3日
愛する方法
4発の弾丸が教皇ヨハネ・パウロ2世を撃ちました。2発は彼の腸管下部に残り、他の2発は彼の左手と右腕を打ち抜きました。1981年5月に起こったこの暗殺未遂事件で彼は失血状態に陥り、重症となりました。彼の健康状態は以前と同じようには回復しませんでした。1981年7月、犯人のアリ・アジャには終身刑の判決が下されました。教皇ヨハネ・パウロ2世は人々に「私が心から赦した、私の兄弟アリ・アジャのために」祈って欲しいと呼びかけました。
2年後、教皇は刑務所の中でアリ・アジャの手を握り静かにあなたは自分のしたことは赦されたのだと彼に語りました。(彼が赦しを乞うたわけでもなく、将来殺人を犯すかも知れないにもかかわらず。)教皇は彼との親交を深め、1987年にアジャの母と会い、10年後には彼の兄弟とも会いました。2000年7月、アジャは教皇の願いによるイタリヤ大統領の恩赦により釈放されました。2005年2月、アジャは教皇に手紙を書きました。2005年4月2日、教皇が死んだとき、アジャの兄弟アドリアンが、アジャと彼の全家族が哀悼の意を表し、教皇が彼らにとって良き友であったとインタビューに答えています。
教皇ヨハネ・パウロ2世の愛とあわれみの応答は良き模範です。神の愛とあわれみはさらに偉大です。なぜなら、「イエスの十字架における」とりなしは完全だからです。愛と義は一つとなり、真理とあわれみは出会うのです。
愛と真理
詩篇40:9-17
イエスは神の愛の顕れであると同時に「わたしは真理(ヨハネ14:6)」とも言われました。聖霊はあなたに神の愛を注ぎます(ローマ5:5)が、そのお方は「真理の御霊(ヨハネ15:26)」です。真理は愛によって柔らかくされなければ受け取ることが難しいでしょう。そして真理がなければ愛は軟弱なものになるでしょう。
ダビデは「私は、あなたの恵み(愛:NIV訳)とあなたのまこと(真理:NIV訳)を大いなる会衆に隠しませんでした。(詩篇40:10c)」と言いました。ダビデは「恵み(愛:NIV訳)と、あなたのまこと(真理:NIV訳)が、絶えず私を見守るようにしてください。(11)」と祈りました。彼は、いかなる意味においても愛と真理を互いに対立するものとは見ず、むしろ相補的に見ました。神についての真理は神があなたを愛しているということなのです。神は義と誠実であられ、この地に正義をもたらします。
愛と真理が両立するように、義とあわれみも同じです。義(10節のように)と正義の概念は、聖書の中では非常に近しい関係にあります。この箇所では、ダビデが神のあわれみを求めるということは、神の義の知識をもとにしています。「あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。…私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。(11a,12b)」罪は私たちを盲目にします。私たちは、はっきりと見ることができるために神のあわれみと赦しを必要とします。
祈り:主よ。あなたの愛とあなたの真理がいつも私を守りますように。
愛とあわれみ
ルカ9:28-56
あなたは今まで、まるでイエスが真そばにいるかのように感じ、天にも昇るような神の臨在を経験したことがありますか?この箇所はそのような体験から始まっています。
イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを祈るためには山の上に連れて行きました。イエスが祈っていると、彼らの目の前でイエスの姿が変わりました。彼らは主の栄光(32)を見ました。ペテロはイエスに言いました。「師よ!これはすごいことです!(33,MSG訳)」彼らは「深く神に気づく(34,MSG訳)」ようになりました。彼らは神が「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい(35)」言われる声を聞きました。
しかしながら、弟子たちのように、「山から降りて来ると(37)」、人々がまた「押し寄せる」ような時がやってきます。山の上は霊的なインスピレーションを与えます。しかし、谷は成熟をもたらします。
人生の過酷な現実が谷の底で弟子たちを待っていました。…奉仕での失敗、理解の欠如、ライバル心。しかし、山の上の経験は、あなたが下って行った新しい、異なる道においてあなたの人生に洞察を与えるのです。
イエスは従う者たちに愛するように召されます。その愛はすべてを抱擁します。イエスはあなたに人々を歓迎するように召されています。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」(48)その人があなたに何が出来るかによらず人々を受け入れましょう。
あなたが、人々をどのように受け入れるかが大切な事です。ある人々は温かく歓迎し、他の人々はそうではありません。ある教会は温かく歓迎し、他の教会はそうではありません。私ははヒルソング教会に深く感銘を受けたことがありました。彼らは礼拝やカンファレンスにやってきた人々を分け隔てなく歓迎します。彼らは人々を歓迎するということを深く理解しているように見えます。彼らはイエスを歓迎します。そしてイエスを歓迎する中で、彼らはイエスが送った人を歓迎するのです。
ヨハネは言いました。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。(49)」イエスは答えました。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。(50,ルカ11:23参照)」あなたが今属している人々の輪、教派、伝統を越えて人々を受け入れましょう。もし、彼らがイエスに反対しないなら、彼らは主のためにあるのです。そのように彼らを歓迎しましょう。
一方で、あなたが歓迎されないことがあったとしても驚いてはなりません。イエスでさえ常に歓迎されたわけではありません。イエスがエルサレムに向けて出発することを毅然と決心した時、イエスはご自身のための準備をするために使いを先にサマリヤの村に遣わしました。しかし、そこにいた人々はイエスを歓迎しませんでした(9:51-53)。
歓迎されていないという場合に起こる即時の反応はヤコブやヨハネのように、どのように仕返ししようかというものです。イエスがこのような扱いをされたのを弟子たちが見た時、彼らは「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(54)」と言いました。しかしながら、復讐は正しい反応ではありません。イエスは振り向いて、彼らを戒められた(55)のです。
イエスは真理であり、十字架で神の義を示された方です。そして敵をさえ愛すること、彼らにあわれみを向けることの意味を私たちに見せてくださったのです。
祈り:主よ。イエスのように、すべてを抱擁する道において、愛することができますように。仕返しをしようとすることがないように、むしろ、あわれみを広げ、敵さえも愛することができますように。
愛と正義
民数記35:1-36:13
全イスラエルの国民生活は直接、神によって統治されました。それは私たちの世界とは相当異なる方法です。律法に記されている内容は、あるのものは普遍的であり、あるものは古代のイスラエルに特有のものです。ここで私たちは、古代イスラエルに特有な法的な実務指針の始まりを見ることができます。
殺人に対する死刑は人間の命の尊厳を表現しています(創世記9:6)。人間の命を奪うということは非常に深刻なことであるので、罰もまた非常に重いものである必要があります。これは終身刑などの代替手段は実践されなかった社会でした。
私たちは「犯罪意思がある(民数記35:20)」殺人と「過失致死(敵意もなく人を…悪意なし,22)」の間に区別を設けているのを見ます。陪審、すなわち会衆によって、審理の権利の始まりを見ることができます。これらの犯罪告発は「法廷において会衆の前に開示され(12,MSG訳)」「会衆が裁きます(24,MSG訳)」
「血の復讐をする者(19)」は個人的な復讐をしたのではありません。事件は、一人以上の証人によって法廷(「会衆」,12)に持ち出さなければなりませんでした。そして、法廷によって結審されました。正当な証言が必要とされ(30)、贈賄は禁止されました(31)。
新約聖書は国家の取扱と個人の倫理の間に区別を設けています。政治的権威は神によって確立されました。「彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。」(ローマ13:4)と記されています。国家は他者の保護に関与します。傍観することや不正を許容することは、実際に愛のない、キリスト教精神に反することになるでしょう。それは、悪を野放しにすることになり、被害者の痛みを無視することになるのです。
しかし、私たちは個人的な道義において、イエスによっても使徒パウロによっても、報復してはならないと語られています(マタイ5:38-42、ローマ12:17-19)。この愛と赦しの態度は正義を無視することとは異なります。むしろ、神の究極の正義である信頼することを表現しています。(ローマ12:19参照)私たちが神の正義に信頼する時、私たちは主の愛に倣う権限が与えられます。ミロスラフ・ヴォルフは「非暴力の実践は神聖なる復讐への信仰を要求する」と記しています。苦しみを与える者は被害者に永遠の勝利を受けることはないと私たちが知る時、私たちはその個人の人間性を再発見することと彼らへの神の愛に倣うことに自由になるのであると説明しているのです。
私たち自身の道義と国家のそれとを区別することは、私たち皆に緊張を生み出します。私たちは皆、イエスから復讐や仕返しをしないように命じられている一人ひとりです。私たちはまた、国家の一員としして犯罪を防ぎ、犯罪者を裁きをもたらす義務を持っています。この緊張を保持するのは容易ではありません。しかし、愛の態度は私たちが為すこととして求められています。私たちの動機はいつも愛と正義であるべきであって、復讐と仕返しではありません。どのような状況でも、私たちは愛の態度をもって行動することが必要なのです。
祈り:主よ。真理への情熱と愛とあわれみの態度を持って正義を行うことを私に組み合わせてください。アーメン。
H.K
References
John Eddison, ‘At the Cross of Jesus’, © Scripture Union
Miroslav Volf, Exclusion & Embrace, (Abingdon 1996), p.304