Tokyo Chapel

2018年4月24日

4月24日

二つの生き方

アルバート・アインシュタインは言いました。「あなたの人生には二種類の生き方しかありません。ひとつ目は何も奇跡がない生き方。もう一つはすべてが奇跡の生き方です。」

イエスご自身も究極的には…二種類の生き方しかないと言われました。二つの門があり、二つの到着点があり、二種類の人々のグループがあると(マタイ7:13-14)。今日の箇所で、私たちは全く対照的な生き方を見ます。


二つの態度:憎む人とあがめる人

詩篇50:16-23

結局のところ、神に対する態度はたった二つだけです。私たちは神をあがめる憎むかです。「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。(23)」それとは対照的に「おまえは戒めを憎み(17)」という生き方があります。

神を「憎む」人々は神を無視し、「神を忘れる者(22)」です。20世紀は神を忘れ、神の戒めを憎む者たちのおぞましい行動の結果を見ます。

ロシアの偉大な小説家アレクサンダー・ソルジェニツィンは約6000万人のロシア人が飲み込まれる大きな災いを考えました。彼は原則的に20世紀の特色は「人々は神を忘れてしまった」ということだと見ました。

これは人に当てはみるだけでなく、私たちが自分自身に当てはめてみることです。時々、あなたは、ともすると、万事が順調に進む時に、神を忘れる者になりがちです。祈ること、みことばを読むこと、神に感謝することがおろそかになってしまうのです。それは、あたかも神を忘れてしまったかのようです。神を忘れ、物事を台無しにしてしまったことは、私たちに皆あったことでしょう。

神を忘れる者と対照的なのは、神をあがめる人です。「感謝のいけにえをささげる人は、 わたしをあがめよう。 そのを正しくする人に、 わたしは神の救いを見せよう。(23)」感謝のいけにえをささげましょう!

祈り:主よ。今日、私は感謝のいけにえをささげて、あなたをあがめます。私におあたえくださったすべての祝福を感謝します。


二つの生きる道:神の意志と自分の意志

ルカ22:39-62

あなたはすべき正しい事柄がなんであるかを知っていても、同時にその正しいことをするのが難しく多くの犠牲を伴うというような状況に置かれたことがありますか?そのような時に安易な道を選んでしまう誘惑がありますか?

この箇所で、完全な神であるイエスは、同時に完全な人であられたことが分かります。第一に、イエスはとてつもない十字架の苦難に直面した時、ひざまずいて、こう祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(41-42)

イエスの人性は、「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた(44)」ことにも見られます。万難を排し、イエスは神のみこころをご自身が担うことを選び取りました。そして「御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた(43)」のです。

あなたはイエスが遭われたほどの大きな試練に遭うことは決してありません。しかし、神があなたがしたいことよりも、ご自身のみこころを選ぶことを尋ねられる時があなたの人生の中できっとあるでしょう。払う犠牲が大きくとも小さくとも、イエスがそうであったように、神のみこころを選ぶための神の力を願い求めましょう。

一方でユダは自分の道を選びました。口づけによって、ユダは、自分を愛してくださるお方を裏切ったのです。私たちはイエスとユダとのはっきりとした違いを見ます。イエスが祈られた時、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた(43)のですが、一方で、ユダが裏切った時、「暗やみの力(53)」つまり地獄が彼を覆ったのです。

私もそうですが、もしあなたが、断じてユダのようにはなりたくないけれど、イエスのように即座に選ぶことができないと感じているとするなら、ペテロは大きな希望を私たちに与えてくれます。ペテロも、私たち同様に失敗しましたが、神はペテロを用いました。

ペテロの最初の失敗は「遠く離れてついて行った(54)」ことです。人がイエスに向かって敵意をあらわにしている時、私たちは、イエスに近く寄り添うというのではなく、イエスとの距離を保ちたくなる誘惑に駆られます。この選択は、やがてはっきりとした否認につながりました(57-58,60)

イエスが振り返ってペテロをまっすぐに見た時(61)、ペテロははっとして「外に出て、激しく泣いた(61)」のです。ユダのように、ペテロも失敗しました。しかし、そのあとがユダとは大きく違いました。かつてキリスト教会の歴史の中で並ぶ者がないほどに、神はペテロを用い続けられたのです。

ペテロとユダの違いは、自分の失敗に対する応答の違いです。ペテロは深く悔い改め、赦しを受け取り、イエスによって回復を得ました(ヨハネ21章を参照)。これは私たち皆に希望を与えます。あなたがどんなに間違った方向に向かっていたとしても、引き返すのに遅すぎるということはありません。イエスに立ち返り、赦しを受け取り、関係を回復するのです。

私たちは皆、ペテロのように、昨日を台無しにしたかもしれません。しかし、今日このメッセージを受け取るなら、私たちの「試練(test)」は「証し(testimony)」に変わるのです。

祈り:父よ。あなたの霊によって私を満たし、イエスのように「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(42)」と言うことができるようにしてください。


二つの立つべき場所:聖さと聖と隠れた罪

ヨシュア5:13-7:26

あなたの人生の領域の中で隠された罪によって隠された部分というものがありませんか?

この箇所で2つの立場を見ることができます。ヨシュアは「聖なる地(5:15)」に立ちました。一方、アカンは「隠された罪(7:21-23)」に立ちました。

「主の軍の将」がヨシュアに現れました。私たちには分かりませんが、それは主の御使いか、三位一体の第二位格なるイエスだったのでしょう。私たちに分かることは、主の軍の将の前に「ヨシュアは顔を地につけて(5:14)」伏し拝んだということです。そして、主の軍の将は「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。(5:15)」と語ったことです。

私たちの生活の中で、神の臨在があまりにも強くて、私たちが聖なる地に立っているかのように感じる時があります。ただ出来ることは、神の前に身を投げ出して礼拝することだけです。

神はヨシュアをに成功を与えました(6:1-26)。「主がヨシュアとともにおられたので、そのうわさは地にあまねく広まった。(27)」彼の成功は軍勢の大きさ、武器の力、彼のリーダーとしての資質によるものではありませんでした。それは彼の神への信仰によってもたらされたのです。その信仰とは神の語られたとおりに従うということです。

同じように、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、彼女の信仰によって生かされました。その信仰は神のしもべに対する好意的な振舞いを導きました(25)。

新約聖書の中で、ヨシュアもラハブも信仰の偉人として描かれています。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。(ヘブル11:30-31)」

ヨシュア記は、私たちが答えを見出すことに葛藤するような多くの難しい疑問を起こさせます。私たちは再び、クリスチャンとして、イエスと新約聖書というレンズ越しに読むことを心がけなければなりません。

ヘブル人への手紙は、約束の地は従順によって、すなわち、イエスにある信仰によって受けることのできる祝福を描いていることを示唆しています。「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。…ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(4:8-11)」

このような「不従順」の一例をアカンに見ることができます。彼の欲望は神への不従順を導き、銀や金を手元に取り、とうとう「天幕の中の地に隠して(ヨシュア7:21)」しまったのです。「そこで、ヨシュアが使いたちを遣わした。彼らは天幕に走って行った。そして、見よ、それらが彼の天幕に隠してあって、銀はその下にあった。(22)」

私たちは、私たちの生活を「区分けすること」の危険性を認識する必要があります。アカンの天幕のように、すべてにおいて、うわべは見栄えよくすることができますが、しかしその中に罪を潜ませることができるのです。人の目には区分けされた私たちの生活は見えないかもしれませんが、神には見えます。

アカンの罪の結果は彼だけにとどまらず民全体に及びました。神は聖なる民に対して「聖絶(13)」を願われました。民全体の中に潜む罪と不従順は彼らのきよさに影響を及ぼしたのです。「あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。(13)」と神は言われました。

「神がご自身の民に与えたいと願っておられる祝福と勝利を受け取ることを差し止めているような、神に聖絶されていない領域はないだろうか?」そのように自問自答することは良い事です。

聖霊が自分の生活のうちにある、取り扱わなければならない「隠された」領域に光を当て続けてくださるという経験をもたらしてくださいます。プロセスは天の側だけでは完成しないのです。

私たちにとって良き知らせは、アカンが味わった罪の罰を恐れる必要はもはやなくなったということです。イエスを通して、あなたが犯した失敗がどのようなものであったとしても、あなたは赦され回復されるのです。

祈り:主よ。私は今日、あなたの前に再び自分自身の先生をおささげします。あなたがヨシュアとともに行かれたように、私とともに歩んでくださることを感謝します。今日、私は私の生活をあなたのみこころの道に沿わせて歩むことを選びます。それはきよさと節操の道です。アーメン。

H.K

References

Alexandr Solzhenitsyn, The Templeon Address, ‘Men have forgotten God’,  World copyright ©1983 by Aleksander Solzhenitsyn