Tokyo Chapel

2019年6月2日

第153日

クレイジー・ラブ

フランシス・チャンの母は、彼を産んで亡くなりました。彼が父からの愛情を受けたのは、9歳の時に彼の継母の葬儀に行く途中の30秒だけだと記憶しています。彼が12歳の時、彼の父もまたなくなり、フランシスは泣きました。しかしまた、せいせいした気持ちでもありました。

フランシスは今牧師です。彼と妻リサには7人の子どもたちがいます。子どもが生まれたとき、子どもたちに対する彼の愛と子どもたちに愛されたいという願いはとても強く、彼の眼は、神がどれほど、私たちに愛されることを欲し、愛しているのかということに開かれました。彼はこう言っています。「この経験を通して、私が子どもたちに愛されたいという願いは、神の私への、そして神が創られたすべての人への大いなる愛のかすかなこだまでしかないのだと分かりました。私は子どもたちを愛しすぎて苦しいほどです。

彼は「クレイジー・ラブ(Crazy Love)」という題の最初の本を書きました。「クレイジー・ラブの理想は私たちと神との関係であるべきです。『神はあなたを愛している』と私は多くの人々からずっと聞いてきました。この宇宙の永遠の創造者が私を愛してくださるなどということをあなたがいうことが出来るとすれば、それは最高にばかげたことでしょう。信じる者たちに起こるべき反応があります。その愛へのクレイジーな反応です。あなたは本当に神があなたにしてくださったことを理解していますか?もしそうなら、どうしてそんなに生ぬるい反応をしているのですか?」

「熱心」という語は強烈さ、あるいは、情熱的な欲求を暗示しています。それは間違った方向に向かうこともあります。しかし、パウロは「良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。(ガラテヤ4:18)」と言います。それ以外にも「霊に燃え、主に仕えなさい。(ローマ12:11)」もし現代的な翻訳で「熱心」を訳すなら、「クレイジー・ラブ」が最も当てはまるのではないでしょうか。


神の家のためのクレイジー・ラブ

詩篇69:1-12

ダビデは「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし…(9a)」言いました。神の家は神の臨在を象徴する場所であり、ダビデの熱情はそこに注がれました。The Message訳では「あなたへの狂おしい(madly)愛のゆえに(9a,MSG訳)」と訳されています。

そのような熱情はイエスが宮をきよめた出来事(ヨハネ2:17)にも見られます。神の家への熱心が溢れ出て、イエスは礼拝の場所から儲けようとし、神に近づきたいと願う人々を利用しようとした者たちを追い払ったのです。

ダビデは神の名をおとしめないことについて熱心でした。ダビデは自分が誰の面目をつぶすことにならないようにと願いました。「あなたを待ち望む者たちが、私のために恥を見ないようにしてください。イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、私のために卑しめられないようにしてください。(69:6)」自らの愚かさと罪深さの自覚がダビデにはありました。「神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。(5)」ダビデはこれが神の家に恥をもたらすべきではないと気にかけていたのです。

今日において、神の家はキリストであり、キリストのからだなる教会です(1ペテロ2:5)。教会に熱情を傾けることは何も間違っていません。教会を通して神の栄光が現されることを熱心に求めましょう。

多くの教会に熱心に仕える人々を目にするとき、それは大きな励ましです。神の家への熱心さがあるのです。 礼拝における熱心、熱心さは励まし伝わるものです。狂おしい愛を教会に注ぎましょう。身を乗り出してメッセージに耳を傾け、新たに教会に来られたすべての人々を歓迎する。

情熱は感化を与えます。私たちには今日の教会において、もっとクレイジー・ラブが必要です。

祈り:主よ。あなたの御名とあなたの教会にもっと熱心さを増し加えてください。


イエスのためのクレイジー・ラブ

ヨハネ21:1-25

これはイエスが弟子たちに現れた三度目のことです。(マグダラのマリヤに現れたことを含めると四度目のこと)(14)

イエスは普通の日常生活の中に現れました。あなたは特別なことをすることをことさら必要としてはいません。イエスはあなたがどこにいようとも、あなたに出会ってくださいます。ペテロは漁をしていました。六人の弟子たちも彼と一緒でした。イエスは漁をしている彼らに話しかけ、彼らのために朝食の支度をしました。全宇宙はこのお方を通してかたちあるものになった、そのお方、死からよみがえられたイエスがそこにいて「さあ来て、朝の食事をしなさい。(12)」とおっしゃったのです。イエス・キリストの内にご自身を啓示する神は生活に寄り添い、そしてなんとも愉快です。

ヨハネがイエスだと分かったとき、彼はペテロに声をあげました。「主です。」(7a)ペテロはとても興奮に包まれ、情熱と熱心さをもってすぐにでもイエスのところに行こうとしました。「すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(7b)」

私たちの内にある情熱と熱心さは時々私たちをグレイジーな行動に駆り立てます。しかし、肝心なことはイエスを愛し、イエスに熱心になるということです。ペテロの眼はイエスにくぎづけでした。ただ彼はイエスと一緒に居たい一心だったのです。

朝食後のイエスとペテロの会話の中に、私たちはイエスへのこの情熱的な愛を持つことは何を意味するのかを知ります。

  1. 極上の愛
    イエスはペテロに呼びかけ「ヨハネの子シモン。あなたは、本当に『これら』以上に、わたしを愛しますか。(15,NIV訳)」と問われました。「これら」というのはペテロの漁の道具かもしれませんし、他の弟子たちかもしれません。どちらを意味しても、イエスはペテロが極上の愛をもってご自身を愛するようにと招かれたのです。私たちのイエスへの愛はほかのどんなものを愛する愛よりも大きくなければなりません。

    ペテロの人間的な熱情は十字架の出来事の前に無残にも砕け散り、イエスを3度否むことになりました。しかし、この問いを通してイエスはペテロに3度「私があなたを愛する」と表現する機会を与えてくださったのです。(15-17)
  2. 犠牲的な愛
    イエスはペテロにヒントを与えました。それはイエスへの愛と熱心さ、そしてご自身の教会は犠牲を払うだろうということです。実に、ペテロは自分の命を犠牲にすることになります。イエスは彼に言いました。「『年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。(18-19)」ペテロが十字架につけられ殉教の死を遂げることを明らかにしたのです。イエスに従う者は、危険を負うことになります。

    ペテロは振り向いてヨハネの方を向いて彼の将来について尋ねました。このイエスとの親密な時に、ペテロはヨハネと比較することに気を取られたのです。そしてイエスは物静かに他人のことに口出しするなと彼に言われたのです。―あなたが他人と自分を比べたくなったときには、このアドバイスを覚えましょう。
  3. しもべの愛
    ペテロがイエスにあなたを愛しますというたびに、イエスはペテロに「わたしの小羊を飼いなさい。…わたしの羊を牧しなさい。…わたしの羊を飼いなさい。(15-17)」と言われました。ペテロがイエスを情熱的に愛するのであれば、ペテロがすることは、人々を導き、育て、責任を持つことなのです。

    それから、イエスはペテロにとてもシンプルに言いました。「わたしに従いなさい。(19)」このイエスへのクレイジー・ラブはご自身の示された愛に従うことを意味します。イエスはしもべの愛の例の極め付けです。イエスは言いました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(15:13)」イエスが弟子たちの足を洗われた時(ヨハネ13)、イエスはこの種のしもべの愛を持つことに関してとても実践的な例を示されたのです。それは人々を助けることに献身することです。私たちが助けるその人々は私たちが特に魅力を感じる人である必要はありません。彼らのイエスへの愛が育つようにであって、彼らをコントロールしたいのではありません。ただ彼らが自由になるためです。

    イエスはあなたにも同じ種類の愛を持つことに召しておられます。他の人々を愛する情熱により、あなたをご自身の羊の世話をすることに捧げ、彼らを食べさせ、仕え、愛することによって、あなたはイエスへの情熱的な愛を表現することが出来るのです。

ペテロはイエスを自分の人生の最高の愛の対象とすることを決めました。彼は犠牲を払うことを選び取り、愛のしもべの足跡をたどりました。「もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができない(21:25)」ほどにこの地上の信仰生活において多くのことをなした者を、主は愛したのです。

祈り:主よ。ペテロのようにあなたを愛することができますように。あなたに熱心であることができますように。あなたの小羊を飼い、あなたの羊を牧し、犠牲を惜しむことなく、どんなことでもあなたに最後まで従うことができるように助けてください。


一致のためのクレイジー・ラブ

2サムエル2:8-3:21

サウルの死後、イスラエルとユダは分かれてしまいました。アブネルはヨアブに「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。…いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。(2:26)」と呼びかけました。この叫びは、今日においても中東やウクライナなど紛争地帯に必要な呼びかけです。

「サウルの家とダビデの家との間には、長く戦いが続いた。(3:1)」アブネルはダビデに使いをやり「この国はだれのものでしょう。(3:12)」と交渉しました。この問いかけは今日もなお問われ続けています。

アブネルはさらに「私と契約を結んでください。そうすれば、私は全イスラエルをあなたに移すのに協力します。(12)」と言いました。これにより、ついには当面の間、少なくとも、その地は一致をたのしみました。

不一致は破壊的です。私たちは今日の中東を見てそのことを理解します。私たちは今日の教会を見てそのことを理解します。私たちは一致に情熱を燃やすべきです。

祈り:主よ。中東問題の解決と平和のために祈ります。同じように、あなたの教会が一致と和解と平和を求めることに熱心でありますように私を助けてください。アーメン。

H.K

References

Francis Chan, Crazy Love, (David C Cook, First edition, 2009) pp.54–55,179.