Tokyo Chapel

2018年9月14日

第257日

「あなたは救われていますか?」

私の書斎の窓辺にウエストコット主教の絵が飾られています。それは彼の曾孫から頂いたものです。19世紀の学者でもあるB.F.ウエストコット主教は、ケンブリッジ大学の勅任の神学教授でした。

ある時、彼に熱心な学部生が近づいて来て、こう尋ねたそうです。「あなたは救われていますか?」「えぇ…」と主教は言うと「それはとても良い質問だ。しかし教えてくれ。君はどういう意味で質問したのかね…?」そして、彼はギリシャ語の「救われる」という動詞の三つの受動相の分詞について言及しました。彼の答えは、学生が三つの内のどれを意図したのかによって変わってくるのだということを示したのです。(この翻訳では斜体で示しました。)「私は『すでに救われた』ということを知っている。さらに、私は『今救われている』ことを信じており、神の恵みによって『やがて私が救われる』ということを望んでいる。」

「救い」は莫大で幅広い言葉です。それは「自由」を意味します。主教が示し出したように、三つの救いの時制があります。あなたは罪の罰からすでに自由にされました。あなたは罪の力から自由にされています。そして、あなたはやがて罪の存在から自由にされるでしょう


過去からの自由を知る

詩篇107:10-22

詩篇の作者は、神の民が問題の中にあって神に叫び求めた時、神がご自身の民を何度も救ってくださったことを神に感謝し続けます(13,19)。そのたびに彼は自由になったのです。

この箇所で、私たちは二つの例を見ます。

  1. 罪の鎖からの自由
    ここで、民は「やみと死の陰に」座しています。囚人は悩みと鉄のかせとに縛られています(10)。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。(13)旧約聖書の中で人々が物理的に起こったことは、しばしば新約聖書では霊的に起こることの描きとなっています。

    罪はやみと死の陰に導きます。それは依存症的です。それは私たちの心を束縛します。十字架の上で、イエスは鎖を打ち砕きました。イエスはあなたの罪を赦し、あなたを自由にします。あなたは、チャールズ・ウェスレーのように、「私の鎖は落ち、私の心は自由になった。私はよみがえり、前に向かって進み、主に従う。」と宣言することが出来るのです。

  2. 死の恐れからの自由
    詩篇の作者は、再び彼らが反抗し死の門の近くに引き寄せられることを続けて言います。再び、彼らは主に叫び求め、神は彼らを救いました。「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。(20)」

    再び、これはイエスがあなたにために為してくださったことの予型です。イエスの死と復活を通して、イエスはあなたを墓と死の恐れから救出なさったのです。あなたは死から、そして死の恐れから、そしてそれに伴うすべての恐れから自由にされました。作者がこう書くのも無理はありません。

    「愛するご自身の子どもたちへの神の驚くような愛、
    奇跡的なあわれみのゆえに神に本当に感謝します。
    感謝のささげものを捧げよ。主が為してくださったことを世界に告げよ。叫べ歌え!(21-22,MSG訳)」

祈り:主よ。罪と依存症の鎖から私を自由にしてくださったことにどうすれば十分に感謝することが出来るでしょうか?私が死を恐れる必要がなくなったことを感謝します。なぜなら、イエスよ。あなたは十字架の死と復活を通して死に打ち勝ってくださったからです。


現在の自由を楽しむ

ガラテヤ1:1-24

あなたの救いは大いなる犠牲によって勝ち取られたものです。イエスは「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました(4)。」

ガラテヤ人たちは、パウロの初期の手紙の一つで、AD48年当時に書かれたものと思われます。パウロは福音の自由が脅かされていることに、憤りを燃やしています。自由を勝ち取るのは難しいですが、簡単に失われます。

宗教は人々を支配する方法として用いられ得ます。タルソのサウルはそのような者として使われました。それから、彼はイエスと出会い、急激な変化、すなわち、そこから得られた自由を体験したのです。

福音のメッセージは自由の一つです。あなたは罪、罪責、恥、依存症、死から自由になりました。あなたはまた律法を守ることによる義から自由にされました。あなたは割礼を受ける必要はないのです。あなたはクリスチャンになる前にまずユダヤ人にならなければならないというのではないのです。この手紙にあるパウロの熱い憤りは福音の自由が危機に瀕しているという事実によって説明されています。

伝道旅行の初期に、パウロはローマの属州であるガラテヤ地方に一連の教会を立ち上げて行きました。パウロは彼らにこのイエスが私たちを自由にしてくださったということを告げていました。彼らはこの自由を体験したのです。それから何年かして、ある宗教的な指導者がパウロの見解と権威に疑問を投げかけ、ガラテヤの人々に新しく見出した自由を取り去ろうとする規則や規定を紹介しようとしたのです。

彼らはイエスに信仰を置くだけでは不十分だと言いました。あなたは同じように割礼を受けなければならない。本当のクリスチャンはもっと厳格に守らなければならない基準があるのだと言ったのです。

現代でも、ある人々はこのような基準を設けようとします。彼らはクリスチャンであるにはそれでは十分ではないと言うのです。あなたは「私たちのように」なる必要があると。あなたは「福音派」、「カトリック」、「ペンテコステ派」である必要があると。―あなたは私たちのようでなければならないと。きちんとしたクリスチャンになるために特定のタイプのクリスチャンにならなければならないというのです。しかし、イエスにある信仰で十分です。割礼であろうが、どんなブランドであろうが、あなたには付け加えることは必要ないのです。どんなタイプのクリスチャンかではなく、イエスを信じていることを基本にお互いを受け入れましょう。

パウロは自分自身のイエスにあるこの自由を見出した体験を証しします。そして、どのようにしてそれが「神の教会を迫害し」そして「それを組織的に破壊していた」者であった彼を「彼が破壊しようとしていたまさにそのメッセージを宣べ伝える」者に変えたのかを証しします(13-24,MSG訳)。パウロの回心は、誰も神の力の及ばない者はないということを私たちに思い起こさせます。

あなたは今まで、神があなたを用いることができるだろうかと考えたことはありませんか?あなたが過去に犯した事柄があなたを資格のないものとしているのではないだろうかという考えに囚われたことはありませんか?パウロの証しは、神がただ赦しを与えるだけでなく、あなたを自由にし、あなたを大いに用いることができるということを証拠として示しているのです。あなたが過去に何をしたかは重要ではないのです。

この証しは強力です。「彼らの反応は、私のゆえに神を認め礼拝するのでした(24,MSG訳)」あなたの証しは、パウロに比べるとさほど華々しくないと思うかもしれませんが、聞く者にはインパクトがあるのです。

祈り:主よ。私たちがイエスに信仰を置いた瞬間に、本当の自由を見出すことのゆえに感謝します。


将来の自由に期待する

イザヤ33:1-35:10

あなたは過去の罪の罰からすでに救われ、現在、罪の力から救われていますが、さらにあなたは将来、罪の存在から自由、すなわちこの世の葛藤から自由になる者となることを予期することが出来ます。あなたは尽きることのない喜びが来て、悲しみと嘆きが逃げ去る(35:10)時を待ち望むことが出来るのです。

イザヤは枯れた荒野を描き出します(34章)。しかし、それからいかに荒野が青々と茂った豊かな園に変えられて行くかをイザヤは予期させるのです。泉が湧き、クロッカスの花が咲き、青草や葦が茂り、川が流れる園にです(35章)。

神の民にとって、バビロンでの捕囚状態に入れられた時、神が救い出してくださり、エルサレムの自由を取り戻してくださることを予期し、期待し、待ち望んだことであったでしょう。

しかし、イザヤ書35章のこの描きは、彼らがただ物理的に祖国の地に戻ること以上の大きな何かを指し示しているのです。これは神の民が永遠の祖国である新天新地に戻ってくることを預言しているのです。

イザヤは「彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(10)」と、その様子を描いています。

ちょうどイスラエルの民のように、あなたも将来の自由を予期することが出来ます。あなたはどのように待つことが出来ますか?欲求不満を感じながら?怒りを持って?信じることなく?否定し拒絶してですか?

イザヤは私たちに待ち方について二つのことを命じています。

  1. 強くあれ
    「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』(3-4)」
  2. 聖であれ
    「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。…ただ、贖われた者たちがそこを歩む。(8-9)」

たとえ、あなたの人生が上ったり、下ったりの人生であったとしても、あなたの目を高く上げて前を見つめましょう。あなたは葛藤の向こう側を、試練の向こう側を、さらには死の向こう側さえも見通すことが出来るのです。そして、ついにはあなたの心の眼で天に至る道を見出すのです。あなたの今ある葛藤からの自由を予期することは正しいことなのです。

この確かな将来を心に描くことは、今を力強く聖なるものとして生きることを可能にします。たとえ、嘆きと悲しみの時でさえ。

祈り:主よ。あなたの十字架の上にある勝利のゆえに、やがて全ての創られし者たちが解き放たれることを感謝します。今日、朝ごとに、私たちの腕となってくださるあなたを待ち望みます(イザヤ33:2)。

H.K

References

Charles Wesley, ‘And Can it be’ (1738).